第6話 暖を取る旅人
当時、僕には付き合っている女の子がいた。
土屋舞という同じ学部の同級生だった。彼女はいつもちょっと吊り上がった目に皺をよせて、不機嫌そうな表情をしていた。時々、苛立ったように短いボサボサな髪をかきむしる。本当のところ、まったく不機嫌ではないのだが、人前ではそういう顔しかできないのだ。要するに不器用な人間だということだ。
舞はそれほど可愛くもないし、誰もが憧れるような美人でもない。少なくとも、琴音さんを見たときに感じる、思わず惹きつけられてしまうような魅力はなかった。
それでも、僕は舞をそれなりに愛していたし、舞もまた僕をそれなりに愛していた。
舞は大学の軽音サークルに入っており、よく僕の部屋でギターを弾いた。僕にはほとんど音楽の知識はなかったから、彼女の演奏が上手いのか下手の分からない。それがどんなジャンルなのかすら、ピンと来なかった。けれど、彼女が狭いアパートの一室で、他の部屋の事情も考えずに気ままに弾くギターが僕は結構好きだった。そんな生き方に僕自身もどこか憧れていたのかもしれない。
先生と琴音さんが訪ねてきた翌日の夕方、舞は僕の部屋にやってきた。彼女はいつもそうするように僕の知らない歌を二曲か三曲を弾くと、窓を開け、その縁に腰を下ろし、煙草を吹かした。当然部屋には凍えた空気が入り込むのだが、彼女はそんなことは全く気にしていないようだった。僕もなにも言わなかった。彼女は野良猫のように気まぐれでワガママなのだ。
「ハッピーバースデー」とそのままの姿勢で不意に舞は言った。
「誕生日は昨日だよ」と僕は呆れて笑う。
「忘れてたんじゃないんだよ。だけどさ、どうしても抜けられないバイトが入っちゃって」
「仕方ない」
「白状するとね、プレゼントも何も用意してない」
「気にしないよ」
「怒らない?」と意外そうな声を出す。
「まさか。たかが誕生日ぐらいなんだって言うの」
「さらに白状するとね、昨日は別の男と寝てたの」
僕は何も返事をしなかった。舞は薄っすら笑った。
「冗談よ」
「分かってるよ。君のことはそれなりに分かってるつもりだよ」
舞はよく冗談を口にする。そして何故かその内容のほとんどが、浮気をしただの、別れようと思うだの、僕との関係を危うくしかねないことばかりなのだ。それにどんな意図があるのか分からない。おそらくなにも考えていないのだろうけど。
「この部屋に私以外の誰か来た?」
「どうしてそう思うの?」
「甘い匂いがするから。女の子はみんなそういうことに敏感なんだよ。男の子が思ってるよりもずっとずっと」
「先生と先生の奥さんがやってきたんだ」
「ふーん」
舞の疑うような眼差しが僕に向けられたが、完全なポーズだというのを僕は理解していた。彼女が気に喰わないのは僕が他の女性をこの部屋に入れたことではなく、僕が先生とよく会っていることだ。舞は話したことも見たこともない先生のことを毛嫌いしていた。彼女にとって作家とは、ひどく陰鬱で、胡散臭い生き物なのだ。
「楽しかった?」
「それほどでもないよ」
彼女は吸い殻を外に投げ捨てると、僕の首に腕を回し、貪りつくようなキスをした。絡められた舌からは煙草の臭いがした。
「何を考えているの?」と口を離して舞は訊いた。
「何も考えてないよ」
「じゃあ、私のことを考えて。私のことだけを考えて。私と初めてデートしたときのこととか、寝た夜のこと。ミツキがラブホテルの床にカップラーメンを零したときのこと」
「零したのは舞だよ」
僕らは途方もないほどキスをした。そのとき僕の頭に浮かんでいたのは琴音さんと彼女の白い指先だった。恋人とキスをしながらそんなことを考えるのは、とてもいかがわしいことだと知ってはいても、渡り鳥のように意識の外側からやってきたイメージはしばらく僕の頭を離れてくれなかった。開け放した窓から入り込む風が、徐々に部屋から温度を奪っていくのを感じた。そのうち部屋も身体もすっかり冷え切ってしまった。それでも、寒さを振り払うよう、舌を絡めて身体を押し付け合った。まるで暖を取る旅人のようだと僕は思った。
「やりたくなった?」と舞は聞いた。
彼女は歯に絹着せた言い方ができない人なのだ。
「すごく」
「でも、今日はダメな日なの。わかるでしょ?」
「じゃあ仕方ないね」
「怒った?」
「とっても怒ってる」と僕は笑った。
その夜も僕らはベッドの中で何度かキスをした。舞は枕に顔をうずめて眠り、僕は舞の短い髪を梳きながら、ライトスタンドの灯りを頼りに本を読んだ。顔を上げた舞は僕に、誰の本なのかと尋ねた。僕は答えたが、彼女は知らないと言って首を横に振った。
「小説なんて大っ嫌い」
「そう?」
「読むだけ時間の無駄だと思わない? 文字をいくら目で追っても、私たちは何処にも行けないし、どんな体験も得られない。偽物なんだよ。そんなことするぐらいなら、歩いて見て触って、そうした方がよっぽど有益だし健康的に決まってる。小説を読み漁る人間なんてね、何処かに行きたいけど、何処にも行かない、陰気で無能な人間ばかりなの」
僕はちょっと考えた。
「その通りかもね」
「だから、そんなもの燃やして。早く私のことを抱きしめて」
僕はライトを消して、言われた通りに舞を抱きしめた。彼女からはいつも香水とタバコの臭いがした。僕はその臭いが結構好きだった。彼女のぶっきらぼうな性格によく似合っていた。
愛しているよと僕は言った。彼女は愛しているとは言ってくれない。歯に絹着せた言い方もできないのだが、率直に自分の感情を伝えるということも苦手なのだ。強く僕を抱きしめることが、彼女なりの『愛してる』という表現で、それがたまらなく愛おしくもある。
「なにを考えてるの?」と彼女は聞く。
「君のことだよ」と僕は言った。
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