第5話 出来の悪いフィクショ

 僕の語るネタが尽きると、今度は彼が口を開く番だった。彼の話題はそれほど多くなかった。酒を飲んだ彼の話題は、もっぱら、新鋭作家をこき下ろすことだ。彼はそのときだけ口が悪くなる。

「あいつらはサーカスのパンダだよ」と言うのが新鋭作家を貶すお決まりの一つだった。「ちょっと面白いこと以外は何の取り柄もないんだ。中身なんてね何もない。流行りのストーリーを書けば、大衆は素直に泣いて喜ぶだろうとか思っているんだろうさ。馬鹿げてる」

「でもそれが大衆の求めていることなんだろう」と僕は言ってみた。

 彼はうんざりしたように首を振った。

「求められているものを求められた通り書くのか? まるで能無しの自動販売機みたいだな」

「それが作家の仕事なんじゃないか」

「違うな。それは自己顕示欲の固まった下劣な人間のやることだ」

「じゃあ、あんたはどうするんだ?」

「書くべきことを書くよ。彼らには到底認知できないことさ。誰かの言葉に囚われる人間なんてね、そこから一生這い上がれず惨めたらしく死ぬんだ」


 先生はあらゆる事柄について語ることができる人だった。しかし、彼は自分から自分についてなにかを語るようなことは滅多にしなかった。触れたくない何かがあるのか、あるいは自らを語るに及ばない人間だと思っているのかはよく分からない。

 僕は一度だけ、彼にこう尋ねたことがある。

「なんであんたは本を書こうなんて思ったんだ? 他に面白そうなことはいくらでもあると思うけど」

「俺は物書きになるべくして物書きになったんだ。なあミツキ、嘘だと思うだろう? じゃあ俺がスーツを着て会社に行って、上司の命令通りにパソコンの前でカタカタとキーボードを打つ様を想像できるか? できないよな。つまりはそういうことなんだよ」

「なるほど」

 その時は妙に納得してしまったものだが、やがてそれは上手くはぐらかされただけなのだと気付いた。確かに彼が真面目にデスクワークをしているところを想像するのはほとんど不可能だったけど、彼が社会不適合者のようなものかと言われればそういうわけではない。彼は常に身を綺麗に保っていた。髭はいつも綺麗に剃られていたし、シワのないワイシャツを着ることを好んだ。眼鏡の奥の瞳は無愛想ではあったものの、同時に理知的でもあった。

 誰かに顎で使われてるところを想像できないだけで、仮に優秀な塾講師をやっていたり、名のある建築家として図面に線を引いていたらきっと彼の姿を受け入れたはずだ。


 シャンパンを空けてしまうと、次は買い置きしていた赤ワインを飲んだ。スーパーで買った安物ではあったが、不味くはないしそこそこに酔える。ワインを飲み始めた頃から、僕たちは無口になった。冬の暖かさと、ぼんやりする頭がとても気持ち良かった。この感覚をずっと味わっていたいと思った。僕はこの歳にしては酒に強い部類の人間だった。吐いたことも二日酔いになったこともない。

 結局ワインも三十分足らずで飲み干してしまった。


「他に飲むものはないのか?」と先生は聞いた。この人も酒には滅法強いのだ。

「缶ビールならあるよ」

「もらっても?」

「いいよ」

 冷蔵庫からビールを持って戻ると、彼は寝息を立てる琴音さんの横で、その長い髪を優しく撫でていた。僕は眉をひそめた。

「なあミツキ」

「なに」

「俺は琴音のことを愛してるんだ。心から愛してる。この子の為なら死んだって構わないと思ってる。馬鹿みたいだろ。結婚して三年、付き合っていた期間はもっとだよ。好きになって何年も経つ。もうそろそろ倦怠期っていうのを迎えてもいい頃合いじゃないか。でも不思議なことにな、俺は琴音のことを未だに愛し続けているんだ」

「知ってるよ」と僕は言った。「琴音さんも同じこと言ってた」

 先生は決まり悪そうに頭を掻いた。

「惚気るつもりはないんだ」

「あんたがなんと思おうとそれは惚気だよ」

 僕は酒を飲みすぎた先生のことがあまり好きではない。決まって琴音さんとの惚気話を聞かされるからだ。それは僕にとって、かなりキツいことだ。

「俺はな、お前ぐらいの歳の時、誰かを永遠に愛せるなんて嘘っぱちだと思ってたんだよ。そんなのは馬鹿な作家が書く出来の悪いフィクションだってな」

 僕は彼にビールを手渡した。

「まったく分からないさ」

「お前もそのうち分かるよ。誰かを心から愛することは素晴らしいことだ。恐ろしいことでもあるがな」

 彼はそう言って心底美味そうにビールを飲んだ。僕は複雑な気持でその顔を眺めた。

 それから急に思い詰めたような顔になった先生はこんなことを言った。

「俺はときどき嘘をつく。お前にも嘘をつくし、琴音にも嘘をつく。いやらしいことだが、それはどうしようもないことなんだ」

「分かるよ」と僕は応える。

「でもな、これだけは嘘じゃない。この世界はみんな狂っている。致命的に狂っている。もう手の施しようがない。まるで不治の病みたいなものだよ。けれどな、それでもわずかだけど、この世界にも正常な奴はいる。ほとんど奇跡的に存在している。それは俺と、お前と琴音だ。多分、それだけなんだ」

「信じるよ」と僕は言った。

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