朝顔の頃 下


山瀬朱里やませしゅりさんですか?」


彼女は、突然現れた。俺の名前を知っていた。警戒しつつ、その女性と向き合った。


「……どちら様?」

「遠山透子といいます。覚えていませんか?」


そう言われて改めて顔をみると、すぐに思い出した。


消えてしまいそうで、恐ろしかった少女。真夏の青空の下でもひとりだけできる影が薄く白んでいた少女。


「遠山家の……なんで?」


俺は田舎を出て、進学のために上京していた。遠山家の跡取りは、彼女ひとりきりだと聞いたことがあったから、すぐになにかがおかしいと感じた。


「貴方を探していたんです。私は、土岐とき誠一郎さんとお付き合いしていました。貴方に協力してほしいことが、あるんです」


実は、俺はふたりの関係に薄々気づいていた。確証はなかったが、心の何処かで、ふたりの関係を、じっとうかがっていた。


だから、お付き合いしていました、という過去形が、すくなからず衝撃だった。すぐに時間軸が合わせられなくて、戸惑う。


「協力? ……俺が、君に?」

「えぇ、貴方はもしかしたら、私たちのことを知っていたのではないですか?」

「……知りはしないよ。誠一郎は、誰にも話していなかったから」

「……そうですか。それでも、貴方が適役なんです。勝手なことを言っているのは承知していますが、まずはなにも言わずに、ついてきてくださいませんか?」


丁寧な口調で強制する彼女の瞳は、ゆらりと不安定に揺れながらも、俺をしっかり捉えていた。


恐ろしい。やはりこの女は、恐ろしい。


「わかった」


ひとこと言うと、深々とお辞儀をし、彼女は歩き出した。俺はすこししてから、ゆっくり後を追った。





「着きました。入りましょう」


彼女は迷いなく、立派な日本家屋の敷居を踏み越えた。


まだ春なのに、何処からともなく風鈴の音が聴こえてきた。



躊躇いなく家に入った彼女は、廊下を進み、障子を開けた。広い和室に迎えられる。


「……っ」


庭に面した障子が開け放たれている。その庭には、朝顔が咲いていた。春の昼下がりに、朝顔。……ゾッと寒気が走った。


朝顔は、夏の早朝に咲く花だったはずだ。詳しくはないが、間違ってもいないはず。


「……此処は?」

「探し人と出会える場所です。逢瀬屋、といいます」

「なに、どういうこと?」


さっきから質問しかしていない自分がもどかしい。わけもわからずついてきて、いきなり、逢瀬屋、ときた。混乱もする。


「……恋人同士の密会場所、ってこと?」

「いいえ、違います。此処は、行方のわからなくなってしまった恋人と自分を、引き合わせてくれる場所です」


ますますわからない。


「私は、誠一郎にさよならも言わずに離れてきました。もし彼が私と会うことを望んで此処を使ったら、私は此処に引き寄せられてきます。わかりますか?」

「……強制的に?」

「えぇ、強制的に」

「……フィクションみたいだ」

「でも、現実です」


浮世離れした空気。風鈴。庭に咲く朝顔。納得せざるを得ない、現実の中の、非現実。


「あの朝顔は?」

「ずっと咲いています。気づきませんでしたか?敷居をまたいでから、温度が変わっていること」

「温度? ……あぁ、そういえば」


すこしひんやりとしていて、時が経てば暑くなるのだろうと予感させる温度。……夏の早朝のような。


「此処は、いつ来ても夏なんだそうです。けれど決して暑くはならない。風鈴も、朝顔も、涼も、いつも在るそうです」

「……まだ信じられない。でも、あの朝顔をみてしまうと、なぁ」


すこし考える。彼女に協力できる、適役。誠一郎とのことなのだろうとは、思っていたが。


「話を聴かせて」

「はい」


まさか、こんな展開になるとは、思いもよらなかった。



「私が貴方に協力していただくのは、私が死んだ後のことになります」

「……は?」


間の抜けた声が出てしまった。


「なに、今、なんて?」

「ですから、私が貴方に協力していただくのは、私が死んだ後のことになる、と」

「待って、待って、わからない。死んだ後? なに、遠山さん、君は死ぬの?」

「えぇ、六年後の話ですけれど」


淡々と言ってみせた彼女の瞳は真剣で、それが真実なのだと思い知るには十分だった。


「……病気?」

「いいえ、私は自殺します」

「……っ」




いいえ、私は自殺します。




「私は学生の頃、彼に逢瀬屋のことを話したことがあります。あの時は、ただこういう場所があるんだ、という世間話のようなつもりでした。けれど、今ではあれが、私の死への伏線になってしまった。不思議です」

「君、さっきから、自分がすごい突拍子もないこと言ってるって、自覚ある?」

「自覚と言われると自信はありませんが、貴方の表情をみていると、あぁ自分はとてもおかしなことを言っているんだなぁと思います」


表情は凍ったように動かない。能面のように白く、ひとつの表情を保っている。


「……一回、全部聴くよ。続けて」


ここまで聴いてしまったら、後には引けない。まずは、聴こう。


「はい。先ほども言いましたが、私は彼に別れもなにも伝えずに、離れてきました。私たちのことを知っている人は誰も居ません。彼はきっと私を探そうとするでしょう。けれど、それは孤独な捜索です。そんな捜索の過程で、彼は此処の存在を思い出して、此処を訪れるはずです。私は不可抗力で、きっと彼と再会するために此処に来る。けれど私は絶対に、彼と言葉を交わしません。断言できます」

「絶対、なんてないよ」


全部聴く、なんて言っておきながら、思わず割り込んでしまった。


「貴方がそう思っていても、構いません。けれど私はそう確信していますから」

「……割り込んでしまってごめん」


取り消してほしかった。きっと今頃この遠山透子のことを考え、思い、探し続けている誠一郎のために。


けれど、彼女の瞳をみると、説得する気も失せる。陶器のように動かない。固い決意の証拠だった。


「そうすれば彼は、どんなに探しても、求めても、私が戻らないと思い知るでしょう。けれど彼は、此処から離れられない。此処は、そういう場所です」

「……逢瀬が成功するまで、離れられない」

「はい。だから彼は、此処に死ぬまで住み続けることになるでしょうね。彼はずっと此処に居る。私が死んでも、ずっと」

「で、俺の出番?」

「そういうことになります。貴方には、私が死んだ後、此処へ来て、彼に私が自殺をしたと伝えてください。逢瀬を望む者が、二度と達成できないと知れば、彼はこの店から解放されます。離れることができるようになります」

「嫌な役だな」

「……嫌、ですか」

「あぁ、嫌だ。俺は好きな相手を待ち続けている友人に、最後通牒をつきつけなければいけない。死神か悪魔のようだね」

「その比喩は、すこし違いますね。死神が来なければいけないのは私の所ですし、悪魔が囁くのもきっと、私の耳元で、でしょう」

「……わかってるよ」

「そうですか」


沈黙。俺は考えた。彼女の話は穴だらけで、質問しなければならないことが山ほどある。


だがまずは、その役割を引き受けるかどうか、協力するかどうか、返事をしなければいけない。


彼女がまずは此処へ、と言ったのは、何処にでもあるような、すこし込み入った話をするのに適した喫茶店などでは、まず信じてもらえないと思ったからだろう。協力を求める相手も、確かに俺が適しているかもしれない。筋が通っていて、わかりやすい。


選択肢はみっつ。


ひとつめは、彼女に協力すること。

ふたつめは、彼女への協力を拒否すること。

みっつめは……


「誠一郎に、私は自殺するから、と伝える選択肢はないの?」

「ありません」

「……まぁ、そうだよね」


ふたつだ。ふたつしかない。


……悩んだフリはやめてしまえ。結論は出ているじゃないか。


「するよ」

「はい」

「協力するよ」

「はい。よろしくお願いします」


深々と、また、お辞儀。


「協力関係成立。それじゃあ、質問していい?」

「お答えできることならお答えします」

「どうして、敬語なの?」

「私は誰に対しても、敬語を使います。持病のようなものです、先天的な」

「……はは、遠山さんも冗談言うんだね」

「そんなつもりはありません。次、どうぞ」

「あはは。……どうして自殺するの?」

「そうすると決めているからです」

「どうして決めているの?」

「私は、自分が温度を持った人間として生きていることにずっと違和を感じてきました。六年後にはその違和の糸が切れるからです」

「……わからないけど、わかった」


どうして六年後だとわかるのか。聴いてもきっと、わからないだろう。ただ、わからないことは、わかった。とりあえず異議を飲み込む。


「はい」

「次。誠一郎のこと、好きだった? 今も、好き?」


淀みなく言葉を発していた彼女が、ぴたりと口を閉じた。


瞳孔の奥で、闇が蠢いている。気にかけるならそれ相応の感傷があるはずだ。


でもそれは、恋情ではないように思えるのだ。


「好きでした。今はもう、そのような感傷はありません」

「逆ではなく?」

「逆?」

「昔は好きではなかった。でも今は、自分が死んだ後の誠一郎のことを考えて俺に協力を依頼した、とか」

「それは違います」

「へぇ、違うの?」

「好きでなかったらまずお付き合いしたりしません。キスもしません。私は彼のことが、好きでした。でもそんな感傷はすっかり消えてしまいました」


……キス。遠山透子という人間が、温度を持った自分に違和感を覚えるような人間が、温度を感じられるような行為をした。


なんだかひどく矛盾している。なにもおかしくないことは、わかっているけれど。


「原因は?」

「わかりません。ですが、私は自分が死んだ後に、私に囚われている人なんてひとりも居てほしくありません。私が死ぬときは、私という人間の跡をすべて消してしまいたいのです。違和感なんて、ないほうがいいですから」

「その違和感を愛したから、誠一郎は君と恋人になったのかもしれなくても?」

「確かめる術がないので、討論しても仕方ないことですね。堂々巡りは嫌いです、中身のない話はやめましょう」

「……手厳しいな」


やはりこの女は恐ろしい。誠一郎は、よくこの女と付き合えたものだ。


彼女は、温度を持った人間として生きていることに違和を感じる、と言った。


まったくその通りだ。彼女の恋情には、温度がなかった。


「質問は終わりましたか?」

「いや、まだある。俺は、君が死んだことをどうやって確かめればいい?」

「あぁ、すみません。大切なことを話し忘れていました」


ひと呼吸おいて、彼女はこう言った。……この一瞬は、どうやら俺のためのものだったようだ。


「貴方には六年間、私と生活していただきます。糸が切れる瞬間を正確に予測することは、私にはできません。不完全で不甲斐ないですが、私の死を確かめてからが、本番です。六年間、貴方も私と同じ、行方不明者です」


笑んだ。彼女は、同士になれと、笑んだ。


「俺にだってさよならを言いたい相手は居る。その時間は?」

「もちろん、今日からというわけにはいきません。貴方が協力してくださるかもわからなかったので、準備が整っていませんから、問題ありません」

「そうか、遠山さんと生活、ね。大学は?」

「構いませんが、誠一郎さんと接点がある方との接触は控えていただきたいです。彼にこの話が漏れてしまっては、無意味ですから」

「特にそういう奴はいないけど……恋人が居る」

「……深山みやまさんですね」

「知ってるの?」

「同級生ですから、名前くらい覚えていますよ」

「そうか、そうだよな。意外だった」

「意外? 失礼ですね」

「……すこし怒った?」

「残念ながら」

「そう、残念」


ふっと糸が切れたように、空気が緩むのを感じた。


彼女にとっての山だったはずなのに、自分が越えたような錯覚を覚えた。


「あ、そうだ。そもそも誠一郎が此処に来なかったらどうするの?」

「それは、私が此処に引き寄せられなかったらその証明になります。私が死ぬまでに逢瀬が起こらなかったら、貴方はただ、私の死に際に立ち会うだけになりますね」

「……世知辛いねぇ」

「こんな狭い世間を辛いなんて。遅かれ早かれ人間は死ぬんです。辛いなんて感傷、大事に抱え込む必要はありませんよ」

「そう思えたら、どんなに楽だろうね」

 




「―――――こういうわけで、俺は六年間、遠山さんと生活していた」

「で、お前が帰って来たってことは、透子は……」

「あぁ、死んだ」


死んだ。


『逢瀬は失敗だ』


自分の言葉が蘇る。

失敗?

いいや、成功が用意されていない目的に、失敗もなにもない。



俺は、彼女が違和に苦しんでいることに気づいていた。


気づいていたが、俺はその違和ごと受け入れているつもりでいた。



「足りなかったんだな」

「……わからない。共同生活を始めてから彼女が死ぬその日まで、俺たちは、誠一郎の話も、鈴夏の話も、しなかった」



自殺した彼女は、今、違和感から解放され、彼女が望んだ彼女になれたのだろうか。



「私、そんな話を聴いても、この六年をなかったことになんてしないわ」

「あぁ、許されるとは思っていないよ」

「許す? なに、それ。違うわ、私はそんなこと、言ってないわ」

「……え?」

「後悔させてやろう、って思ってたわ。でも諦める。その代わりに、これからは、私、貴方を離さないから。六年ぶんよ……ううん、それ以上だわ。覚悟して」

「……あぁ、もちろん」


許すも許さないもない。鈴夏らしい審判だ。


「……誠一郎は、俺を恨む?」

「とんでもない。最後通牒はそりゃ、理不尽だよ。でも、仕方ない。お前を恨んでも、もう、終わったんだからな、全部。それに、透子に協力してやるなんて大したもんだよ、だから責めも恨みもしない」

「……そうか」



俺は朱里を責められない。きっと透子はすべてを決めて、彼に協力を求めたのだ。朱里がもし、透子を説得しきろうとしていたなら、きっと彼は協力者になりえなかった。


朱里の選択肢は、ひとつだった。協力すること、そのひとつだけだった。





あの日の逢瀬が蘇る。

視線を交わしただけの、一瞬の逢瀬。


今話を聴いて、納得した。

彼女はあの夏、俺が此処を訪れたあの夏にはもう、死の影を背負っていた。


彼女の足元には、冬のように薄い影が在るだけ。


……いや、恋人だったあの頃にはもう、兆候は。



この後悔は、俺のものだ。ふたりはこの六年を後悔しないだろう。だからなにも言わない。


これは、俺だけのものでいい。





「覚悟に必要なエネルギーは、安くないぞ?」

「そうよ、高くつくわよ」

「心得たよ」

「俺、此処を出るよ」

「それがいい」

「あぁ、逢瀬はもう、果たせないからな」

「逢瀬屋なのにね。……なんだか私、六年かけてようやく此処に辿り着いて、朱里を待とうって決めたのに、貴方が戻ってきたのは遠山さんや誠一郎のためだったなんて知ってしまったら、馬鹿みたいで恥ずかしくなってきたわ。……誠一郎は、朱里はもう帰ってこないだろうなんて言うし」

「ちょっと、酷くない? ……いや、酷いのは俺のほうか」

「……悪かったよ、変に不安にさせるようなこと言って。でも、タイミングが重なり合って、今、三人ぶんのしがらみが、全部解けたわけだ。此処の力のおかげでも、あるんじゃないか?」

「……そうかもしれないけれど、でも、なんだか釈然としない」

「その不満は全部、朱里にぶつけるといい」

「えぇ、そのつもりよ」

「……これはほんとうに、高くつくな」



長かった。六年間の苦しみや葛藤が、胸中を巡る。


でももう、終わり。


すべての元凶である、遠山透子。

彼女は、三人ぶんの六年を縛った自覚があるのだろうか?


……けれど、私に彼女を責めることはできない。誠一郎が朱里を責めなかったのだ、私だって、そう、彼女を恨むことなんてできない。


納得はしていない。けれどそれは、これから時間をかけて、朱里とふたりで取り掛かればいいことだ。




人間をやめて、温度のない存在になって、違和感は消え去ればいいのよ。


でも残念ね、貴女のすべてが消えるなんてこと、あり得ないわ。


なぜなら、私たちはこの六年間を忘れないから。


そううまく事が運ぶと思わないほうがいいわ。なにもかも貴女の望むとおりになんて、しない。




陽射しは、再び私を襲う。


畦道は熱気をため込んで、陽炎をうむ。


けれど私は、ひとりではない。



「おかえり、朱里」

「……っ、ただいま、鈴夏」

「暑いのに、やめろよ、ふたりとも」



もう、ひとりではない。


蝉時雨が、うるさく響く。見送りがこれじゃあ、風情もない。


そう思ったとき、涼やかな風が私たちの間をサッと吹き抜けた。



風鈴の音が、静かに鳴り響いていた。



fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朝顔の頃 藍雨 @haru_unknown

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ