朝顔の頃

藍雨

朝顔の頃 上




「さようなら」


―――――行ってしまうのね。




貴方は夏の儚げな部分をすべてその背に抱え、そうして居なくなった。


その残像は私のまぶたの裏に、永く永く残り続けていた。





陽炎立ち上る、灼熱のコンクリートの上を歩く。サンダル越しに熱が伝わってきて、その熱を感じるたびに汗が流れる。


まるで濡れているように揺れる太陽が、真上から肌を刺す。


暑い夏、正午過ぎ。三百六十度すべてを見渡せる畦道を、身ひとつで歩く。肌身離さず持っていた、たったひとつのあの人の証拠も置いて。



遠くに悠然と在る山から降る蝉時雨にも飽きを覚えてきた頃、ようやく一軒の日本家屋がみえてくる。


長かった道のり。汗だくで歩いた道を、振り返る。やはり其処にはなにもない。遮るものもなく、私が其処に在ったという事実までなかったことのよう。


ただ、陽炎が、ゆらり。印象的だった。


前へ向き直り、進む。風鈴の音が、静かに蝉時雨の間を縫う。その涼しげな音に誘われ、私はそのまま家屋の敷居を超えた。



「こんにちは」


呼び鈴はないようで、代わりに声を掛ける。

……返事はなく、私は途方に暮れた。


「こんにちはっ」


もう一度声を上げる。すると、何処から現れたのか、猫が庭の方で鳴き声を上げた。


玄関横、広い庭には池があり、鯉が泳いでいる。鹿威しまであり、間の抜けたような音が響く。家屋に似つかわしい整った庭は、陽射しに照らされはっきりと存在を主張している。


その庭の中央から、毛並みの良い黒猫がこちらをみている。


じっとみつめていると、猫は伸びをして姿を消した。


なんだか着いて来いと言われているようで可笑しい。すこし迷ったけれど、このままでは埒が開かないのでその後を追うことにする。



「おーい、何処に行ったの……?」


追ったはいいけれど、姿を見失ってしまった。これでまた、振り出しに戻る。


庭を見渡す。すると、広い庭の隅、時間的にはあまりに不似合いな朝顔が咲き乱れていることに気がつく。あまりに暑い環境では、朝顔は身を守るためにしぼんでしまうはずなのに。


―――――暑く、ない。


此処に辿り着くまでにかいた汗が、嘘のように引いている。それでいて気持ち悪い感覚もまったく残っておらず、私はその異変にむしろ寒気を覚えた。


だからこんなにも、朝顔が綺麗なのか。近寄ってみると、整えられているということがよくわかる。この花は、自然と咲き、自然にしぼんでいくものだと思っていた。


こんな風に整えられたのでは、朝顔も不本意だろう。


そんなことを考え―――――向き合わなければならない現実のことを、思い出した。


今日は目的があって此処へ来たのだ。足止めを食らっている場合ではない。


玄関の前へ戻る。呼び鈴をもう一度念入りに探すけれど、やはり何処にもない。


私は意を決して、扉に手を掛けた。


「おっ、鈴夏りんか⁉︎」


……もうすこしで、不法侵入者になってしまうところだった私を引き止めたのは、


「……え、誠一郎せいいちろう?」

「えー、なになに、こんな辺鄙な所に、何の用だよ?」

「……挨拶もなしにペラペラと、相変わらずね」

「勝手に人ん家入ろうとしてたのは誰だっつーの。まぁいいや、とりあえず入りなよ」

「……ありがとう。お邪魔します」


気になる単語が彼の口から発せられたけれど、とりあえずお邪魔することにする。話は、彼の好奇心に満ちた瞳を落ち着かせてからだ。





「お茶、どうぞ~」

「誠一郎が人をもてなしている……‼︎」

「……酷くない?」


ありがたくお茶をいただく。此処に来てから汗は引いたものの、やはり喉は渇いていた。……汗が綺麗さっぱり引いてしまったことに対する不気味さで、いやに緊張してしまっていたことも一因だろうけれど。


「で、なに、なんで此処に?」

「人を探しているんだけれど。……なんて、此処に居るなら、貴方もわかっているでしょう。ねぇ、今誠一郎は此処に住んでるの?」

「そうだけど」

「ひとりで?」

「あぁ、そうだ」

「家主を紹介してくれない⁉︎」

「おっ、なに、俺と住む?」

「…………」

「おいおい、そんな目でみるなよ。嘘だよ、冗談」


ニヤニヤと趣味の悪い笑みを浮かべていた彼の表情が、すっと真顔に変わる。


「……まさかとは思うけど、鈴夏。探してるのって」

「……そうよ」


返すと、誠一郎は深いため息を吐いた。


「いつから?」

「え?」

「いつから、探してんだよ」

「……そんなこと」

「言えよ」


強い語気に怯んでしまう。こんなところで立ち止まっている場合ではないのに。


「……あの日から、ずっと」

「ずっとって、六年間?」

「そう、ずっと」


さらに深いため息。


「なぁ、鈴夏。どんなに探したってきっと、もう戻って来ないよ、あいつは」

「……そんなこと、わからないじゃない」

「いいや、わかるね。たとえみつけることができても、あいつは俺らの元に戻っては来ない」

「でも私は、姿をひと目みるだけでもいいと思ってるの」

「本当に? お前、本当にそれで、満足なのか? 六年だ。六年かけてみつけて、ただ生きている姿をみるだけで、満足? 話せなくても? あいつに忘れられていても? ただ、その姿をひと目みられればそれでいい?」

「……どんな結末でも、受け止める覚悟よ」

「覚悟、ね。……俺は無理だったよ」

「……え?」


その言葉の真意を測りきれず、問う。


「……無理だった、ってどういうこと?」

「俺が此処に住んでるの、なんでだと思う?」


問われ、口をつぐむ。


「……俺だってね、人を探していたんだよ」

「誠一郎も?」

「あぁ。高校ん時、遠山透子とおやまとうこって居ただろ?」

「覚えてる。深窓の令嬢、懐かしい」

「俺実はさ……あいつと、付き合ってたんだよ」

「っ⁉︎ なに、えっ、そうなの⁉︎」


遠山透子、地元の名家の娘。目鼻立ちの整った美人で、近寄りがたく、それでも憧れの存在だった。色が恐ろしいほどに白く透きとおっていて、名前にぴったりだと、当時はいつも考えていた。


まさか誠一郎と付き合っていたとは。そんな話どころか、噂すらも聞かなかった。


「……過程は省く。面倒だ。とにかく俺はあいつと付き合っていて、仲も良好。周りに知られてはいけない、なんて背徳感もすこしはあったんだろうな、今思えば。って、こんな言い方すると誤解されるかもしれないけれど、俺は透子と、好き合っていた」

「……遠山さんも、居なくなってしまったの?」

「あぁ、そうだ。卒業後すぐ、ぱったり連絡が途絶えた。おかしいと思って探し始めたけど、秘密の関係ってやつが災いしたよ。誰を頼ることもできなくて、ひとりで探すにも限界がきた頃、此処に来た。そしてようやく、彼女と再会した」


息を呑む。その再会が、決して望んだ通りにはならなかったということは、先刻の彼の言葉からうかがえることだ。


「透子、彼女の名前を、俺は確かに呼んで、彼女も立ち止まった。しばらくお互い視線を合わせたまま。でもすぐに、彼女はその場を去って行ってしまったよ。合ったはずの目にはなにも感情が浮かんでいなくて、それがすごく恐ろしかった」

「人混みの中だったからじゃなくて?呼ばれたような気がしたけれど、ほんとうは貴方に気づいていなかったのかも」


気休めにもならない。……私だって、わかっている。そんなことはあり得ないと、わかっている。


「いや、誰も居ない静かな場所だ。……此処なんだよ。お前もこのを人探しの最終地点として選んだならわかるだろう。俺は此処で彼女を待っていた。いずれ現れるだろうと信じて、待ち続けて、彼女はやって来た。でも、あいつは……透子は、なにも、言わなかった。ひとことも、口を利かなかった。逢瀬は失敗だ。だから俺は、此処に住んでいる。家主は笑ったよ、気が済むまで、ってな」


くちびるを強く噛んで、誠一郎は押し黙ってしまった。


……なぜ追いかけなかったのか。そんなことは、訊けない。私には、訊けない。


透き通った肌、澄んだ瞳……感情を映さない、ふたつの目に射抜かれ、どうして動くことができるだろうか。


好き合っていた。……過去形だ。誠一郎はきっと、理解しているのだ。悟ってしまったのだ。そのあまりにも短い逢瀬、視線を交わすだけの時間で。




もう彼女は自分のことを好きではない。


好きだと伝える気概は、自分にはない。




「で、鈴夏、どうする。俺は透子を探しながら、拒絶されることも覚悟していた。でも、そんなもの、なんの役にも立たなかったよ。実感が伴わなければ、覚悟なんて、薄っぺらいままだ」

「実感なんて、そんなこと……」

「無理だろう?」

「……だって、私、そんなこと、想像したくないもの」

「あぁ、そうだろう。結局、最悪の事態を想定する、なんて言ったって、それは大した事態じゃない。せいぜい中の上程度だろう。ほんとうの最悪の事態ってのは、突きつけられてから、為すすべなく立ち尽くしてしまう事態のことをそう呼ぶんだと、俺は思ったね」


すっかり汗をかいてしまったコップを手に取り、彼はお茶をひとくち飲んだ。私も喉の渇きを思い出して、ひとくち飲む。


「……俺はその事態を想像できなかったんだ。無意識に、思考を止めていたんだろうと思うよ。好き合っている、あの頃はまだ、進行形だったからな」

「……私の中でだって、まだ、進行形よ」

「その、まだ、ってのが問題なんだよ」


その言葉でハッとなった瞬間、呼び鈴が鳴った。


「……呼び鈴、在ったのね」

「なに、みつけられなくて不法侵入しようとしてたわけ」

「そうよ、悪かったわね」


誠一郎は立ち上がり、玄関へ向かった。


息を吐き、周囲を見渡す。通された客間は庭に面していて、あの朝顔がよくみえる。クーラーなんてない。風通しはよく、汗だくになりながら歩いてきたことが嘘のようだった。


「鈴夏、おーい」


呼ばれる。立ち上がり、部屋を出て廊下を歩く。長い廊下の先。


あぁ、そうか。




「久しぶりだね、鈴夏」





「俺はお邪魔だろうか」

「なに言ってるの、俺、誠一郎ともすごく久しぶりに会うんだけどな」

「……馬鹿」


再会して早々、馬鹿、か……。


「鈴夏、まずは、謝らせてほしい」

「嫌よ」

「鈴夏……」


あの夏から、もう六年だ。彼女はきっと、俺を許さないだろう。


わかっていたが、でも、すこしも……


「……俺はね、この六年を後悔していない」

「は? ……俺らがどれだけ心配したと思ってんだよ」

「うん、申し訳ないとは思っている。……謝罪は受け入れてもらえなさそうだけれど。でも、やっぱり、後悔は微塵もない」


誠一郎は憤っている。当然だろう。……鈴夏は、ただ静かに、目を伏せていた。馬鹿、嫌よ、凛とした声を震わせ発した、このふたことっきりで、あとはじっと俺が語るのを待っている。


「なにをしていたか、話すよ。聴いてほしい。ふたりに。そのための六年だから」


ふたりはなにも言わない。……さっきのような拒絶の言葉がない。



「六年前の春、俺はある人と出会った―――――――」

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