第11話
男は鳴海亮介と名乗った。
広い土間に足を踏み入れると、チョコレートとバターの甘い匂いが、よりハッキリとする。
「いい匂い」
自然と蒼の顔がほころぶ。
「そうだ、ピザとかコーラとか、買ってきてたんです」
「良いですね。昼食はまだですか? なら一緒に食べましょうか」
蒼は買ってきたビニール袋から中身を取り出し、亮介に渡すと、促されるまま靴を脱ぎ、床に上がった。
雨戸は閉められているが、天井照明が灯いて室内は明るい。正面の作業台の上に、巨大な水槽があった。横幅は蒼の背と変わらないくらいあるだろう。水槽と同じ幅になるように、照明が2機、天井からぶら下がっていて、強い光を当てている。
水槽の中は、水草が草原のように広がっていて、中央には苔に覆われた流木が1本、遙か昔の沈没船のように静かに眠っていた。その周りを、メタリックブルーのラインが入り、尻尾が赤い、2色の小さな熱帯魚が沢山泳いでいる。見つめていると、その幻想的な緑の世界に入り込んでしまいそうだっった。
「兄がアクアリウムを趣味にしていたなんて、知らなかったな」
後ろから声をかけられ振り向くと、亮介が立っていた。
「これはね、バランスドアクアリウムと言うらしいんです。僕も詳しくは知りませんが、魚とバクテリア、水草のバランスによって、フィルターを使わなくても、生態系が成り立っているんです。このアクアリウムが見れただけでも、僕は、兄を訪ねた甲斐があったな」
「普段は会ったりされないんですか?」
「ええ、ずっと離れて暮らしていて、数年ぶりに訪ねたんですよ」
蒼はふと、ダイニングテーブルに、料理が並んでいる事に気がついた。
「すみません、何のお手伝いもせずに」
軽く頭を下げてから、亮介と共に席に着く。
ピザと唐揚げ、フライドポテトに野菜スープ。そして白いお皿に、正方形に切ったチョコレートブラウニーが盛られている。厚みのあるチョコレート生地に、白い粉糖がたっぷりとかかり、断面には刻んだカシューナッツ、チョコチップが散りばめられていた。
「こんなケーキが作れるなんて、凄いですね!」
「焼き立てなので、ふわふわです。どうぞ、食べてみて」
蒼が一口、食べてみると、チョコレートの味と香りが、温かさと共に、口の中にじんわりと広がった。柔らかい生地はとろけるようでいて、ナッツやチョコチップの触感があり、食べ応えを感じる。
「美味しいです!」
***
他愛もない話に花が咲き、ピザも最後の1ピースだけになった。
「ところで、川瀬さんに質問があります」
「はい」
「川瀬さんは、兄の恋人でしょうか?」
突然の質問に、吃る蒼。
「い、いえ、そんな、ただの同僚です」
「でも、休みなのに、わざわざ確かめに来てくださった」
「それは…」
返す言葉に困った。気持ちを見透かされたような気がして、恥ずかしい反面、少し腹が立つ。
「ところで、武史さんは、いつ頃戻って来るんでしょうか?」
亮介は答えなかった。
「さっきはもうすぐって仰っていましたよね。結構、時間が経った気がしますが」
聞こえていない訳ではなく、亮介は、ただ微笑むだけで、答えない。
「あの、すみませんが、武史さんがどこにいるか、ご存じなんですよね」
言いながら、蒼は急に視界が暗くなるのを感じた。意識が朦朧とする。身体から力が抜け、頭の重さに耐えきれず、イスから落ちた。
「すぐに会えると思いますよ。きっとね」
亮介の声が、暗闇の中で聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます