第4話

 部屋の中はひどく静かだった。それは、胸を刺すようなほどに静かで痛くて、だから千華にはわかってしまった。さっきまで千華に歌を聴かせてくれていた存在は、もう、どこにもいないということに。ここには千華の大輝の二人しか、いないのだということに。

「大輝、どうして、ここに……?」

「お前のこと探してたんだよ。お前、いきなり家飛び出したんだろ? 様子がおかしいからって、たまたまお前の携帯の一番上にメールがあった俺にお袋さんから電話かかってきて、探してたら、ここに入ってくの見たって教えてくれた人がいて……」

 自分で尋ねておいたくせに、大輝の返事は全く千華の頭には入ってこなかった。

 呆然とした思いで、大輝が立っている向こうの廊下を見つめる。せいはどこ? あの歌の主はどこに行ってしまったの? どこに……っ。

「大輝……さっき、歌……歌ってた?」

 掠れる声で尋ねる。一方の大輝は首をひねった。

「歌あ? 歌ってねえぜ、そんなもん。何でだ?」

 その返答を聞いた時、千華は何となく悟った気がした。


 突っ立ったままの千華だったが、大輝に促されて廊下へ出てくる。大輝の後ろについて、空っぽの提灯をぶら下げて階段を下りる間、千華はずっと無言だった。

 けれど、階段を下りきって、庭に面した縁側にさしかかった時、千華はそれを見つけたのだった。

「足跡……?」

 大輝を押しのけて千華はそこに駆け寄る。埃の積もった廊下に残っていた足跡は、大きめのものが二人分。そして、それよりずっと小さな足跡がそれとは別に一つ。

 一番大きいのは大輝のもので、少し小柄なのが千華のもの。じゃあ、残る小さな足跡は――。

「げっ、何だよこれ! おい千華、早く出ようぜこの家……」

 足跡に気付いて青くなっている大輝の横で、千華が目を奪われたのは別のものだった。

(何これ、水滴……?)

 小さな足跡に重なるように、雫の散った跡があった。

「泣いてた、の……? せい……?」

 それの意味する所に気付いた瞬間、千華はするするとその場に座り込んでしまう。大輝がますます慌てて、「千華!」と名前を呼んできた。


 ――君が好き――。


 ずっと、言えなかった言葉がある。言おうとして、何度も口をつぐんだ言葉。それを言ってしまえば、もう彼の隣にはいられない気がしたから。今度こそ、拒否されてしまうような気がしたから。

 でも、それは多分彼も同じだった。彼にも、どうしても最後まで歌えない歌があった。 二人きりの部屋で、せいはいつも歌を口ずさんでいた。それは多分、千華へのラブソング。恥ずかしがり屋な彼の、彼なりの表現った。

 けれど彼は、どうしても最後のフレーズが歌えずにいた。彼も、今あるものが壊れてしまうことを、人知れず恐れていたのかもしれない。

 でも彼は今夜、最後までちゃんと歌ってしまった。そして、彼が言ったのは、「君が好きだったよ」という一言。千華が知っているあの歌の本当の歌詞の最後は、「君が好きだよ」。

 たった二文字の違い。けれど、それは大きすぎる違い。

 でも当たり前の話だった。二人の物語は、とうに終わりを告げている。幕引きがあまりに遅すぎただけだ。まるで、エンドロールがやたらと長くてなかなか終わらない映画のように。

 でも、とうとうエンディング曲は最後まで歌われてしまった。他でもない彼自身が、それを望んで。

(でも、せいは泣いてたんだ……) 

 全てを終わらせることを、彼は泣いてくれていた。幕引きまでに四年もかかったのはそのせいだったのかと思う。二人の物語を本当に終わらせてしまうことを、彼は一人で怯えていたのかもしれない。大人びた彼だったけれど、その内に抱えていたのは実はひどく脆いガラスのようなものだったのかもしれなかった。

 けれど、それでも彼は結局終演を望んだ。千華に最後の歌を聴かせて、そして――迎え火を散らせて。

「せい、迎え火、受け取ってくれなかったんだね……」

 迎え火を灯しても、せいは千華の元へ現れてはくれなかった。彼は千華の迎え火に応えてはくれなかった。そしてその代わり、迎え火が吸い込まれていった先から現れたのは、せいではなく、大輝だった。

 迎え火が迎えたのは、もうここにはいない少年ではなく、生きて千華の隣にいる彼だった。

「もう、待たなくていい……そういう、ことなの……?」

 死者を迎える火なんか灯してはいけないと。いつまでもそれに捕らわれていてはいけないと。

 灯すのは、死者ではなく生者を――未来を迎える火でなくてはならないと。

 千華はぐっと唇を噛みしめる。それなら、千華も終わらせなくてはならなかった。

「せい……大好きだったよ……。ありがとう、さようなら……」

 言えなかった言葉を、今。その途端、感情と涙とが一気にあふれ出してくる。こらえられずに嗚咽が漏れる千華に対して、慌てふためいていた大輝は、何か勘づいたのか千華の隣にしゃがみこんでぎゅっと抱きしめてくる。その暖かさに、ますます千華は泣いた。

 せいは千華のすぐ側までやってきて、歌は聴かせてくれても、ついぞ姿を現すことはなかった。

 だからきっと、それが答えなのだと思った。

 死者なんて忘れて、前へ生きろと。

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