第3話
チリン――……。
どれだけ時間がたったろう。風鈴の音に誘われて、千華は空を見上げる。闇空には、小さな星たちが天に空いた穴のように散らばっていた。
祭り囃子が風に乗って届く。けれど千華の周りはひどく静かで、空はとても綺麗だった。せいが火が綺麗だと言い出した、あの日と何も変わらない静けさと美しさ。けれど、今千華の隣には誰もいない。それだけが決定的に違うのだった。
今も空には、無数の火が浮かんでいるのだろうか。その中の一つが、せいの火なんだろうか。それならどうして会いに来てくれないんだろう。四年も待った。ずっとずっと、千華は約束を守って待ち続けている。
なのに――彼は――、
すう――……。
途端、心臓が跳ね上がった。何かが、視界を横切った気がした。
「せ、せい……?」
千華は恐る恐る呼びかける。漏らした声は震えていた。
風が吹いたように思った。窓の外で提灯の中の迎え火がゆらゆらと揺れる。その時、確かに千華の視界の端に、庭で揺らめく小さな炎が映ったのだった。何度瞬きしても、それは確かにそこにある。小さくて、迎え火のそれよりずっと真っ赤な火。
「せい、なの……?」
動けないままに見ていると、炎はふわりと宙に浮かび、やがて門からすっと出て行く。
待ってと叫んで、千華は無我夢中で立ち上がっていた。後ろで丸椅子が盛大に床に転がったけれど、そんなこと気にも留めなかった。
「待って! せい、待って……!」
反射的に窓の外の迎え火を引っつかむ。今にも止まるんじゃないかというほどの早鐘を打つ胸で、千華は部屋を飛び出していた。
◇
「はあっ、はあっ……」
走りすぎて喉がひりつく。千華は立ち止まって軽く咳き込んだ。
火は、千華が門を出たらもうどこにも見当たらなかった。思いつくままに走り回って探したけれど、結局どこにもいない。
そして気付けば千華が立っていたのは、古びた雰囲気の日本家屋の前だった。住人はもうおらず、電気もついていなければ表札だって取り外されたままのその家は、昔からその気はあったのだが、今はもはや正真正銘の幽霊屋敷と化している。
けれど、ここが誰の家であったのか千華にわからないはずがない。だって、ここは、
「せいの、家……」
せいがいなくなって、その後両親も引っ越してしまい、たった一つ取り残された彼の家。少し躊躇してから、千華は足の向きを変えた。
そして、四年ぶりに千華は彼の家の門をくぐる。
ギィッと木の床がきしむ。そこら中が埃っぽい。住む者のいない家は、すっかり荒れ果てていた。
家の鍵は空いていた。空屋の鍵はいつも空いているものなんだろうかと疑問に思いつつも中に入って、家の中を奥へと進む。月明かりに青白く照らされた庭をを眺めながら縁側を通り抜けると、やがて千華は急な階段にさしかかった。そっと足をかけると、千華の提灯の中で迎え火がゆらゆらと揺れる。随分と懐かしい感覚だった。
そして、やがて一つの部屋の前へと辿り着いた。震える手でノブの手をかけ、開け放つ。
ザッ――――。
風が千華の横を駆け抜けていった。
部屋でたった一つの窓はなぜだか既に空いていて、そこから丸い月が見えた。
窓が空いているせいか、この部屋だけは少しも埃っぽくない。窓からの月明かりと千華の手にした迎え火とで照らされた室内は、一つも家具がなくてひどく殺風景だったけれど、空気だけはあの当時のままだった。静かで心地よい、彼の部屋の雰囲気。古びているけれど、なぜだか落ち着く木のにおい。
千華はそのままふらふらと窓際まで歩いて行く。迎え火の炎が、木造の壁に陰影を描いた。
あまりに懐かしく、目を閉じるとまるで今にもせいの声が聞こえてきそうだった。彼の穏やかな声と笑顔が、すぐそこに。
「せい。せい」
もういない少年の名前を呼ぶ。彼は、いつもどこかに腰掛けて静かに本を読んでいたけれど、そう言えばいつでも本を閉じて振り返ってくれた。
千華も真似して、大抵はその隣で漫画を開いていた。そんな時の部屋は、とても静かで穏やかな空気が流れていた。
千華は、そんなせいの部屋が好きだった。彼の持つ雰囲気が好きだった。千華の横で静かに話す彼の声が好きだった。――せいのことが、好きだった。
初恋、だったと思う。それはあまりに幼すぎる感情だった。けれど、確かにそうだったのだと思う。
でも、千華は彼の部屋で彼と一緒にいるだけで幸せだった。だから千華は、言いかけた一つの言葉を何度も何度も呑み込んだ。それを言えば、何かが壊れてしまいそうな気がしたのだ。
結局伝えられずじまいになってしまった言葉だった。けれど、それは彼も同じであったのだと、千華は後々知ることとなる。せいがいつも口ずさんでいた歌。どうしてか決まった所で途切れる、彼の歌。その頃は知らなかった途切れた後の歌の続きを、千華はもう知っている。
――っ――……。
「え……?」
思わずそんな声を漏らして、千華は一瞬硬直した。ゆっくりと、頭を部屋の入り口の方へと向ける。開けっ放しのドア。その向こうの暗い廊下。そして、その先から聞こえる、確かな、懐かしい、声。
それは、決して聞き間違いなどではなかった。まさに今千華に聞こえてくるそれは――確かに、せいの歌声だった。
――い――から――……。
「せ、い」
名を呼んだ千華の声は、掠れてほとんど言葉になっていなかった。
廊下からの歌声は止まない。何度も聞いた、懐かしいメロディ。いつも途中で終わる彼の歌。
そして、段々近づいてくるそれと同時に、千華の耳に届く誰かの足音。
――そし――ぼく――……。
嘘だと思った。信じられなかった。千華は固まったまま、震える手先をそっと持ち上げた。ずっと聞きたかった彼の声。それが、今はすぐそこで聞こえてくる。
来てくれたんだと、泣きそうだった。やっと約束を、守ってくれたんだと。
――行こ――さ――……。
歌はいつの間にかサビにさしかかっている。千華は嬉しさと懐かしさの中で、目を閉じて彼の歌声に身を任せた。
ようやく会えるのだ。懐かしい彼に。大好きな、彼に。
千華は嬉しくて仕方なくて、もし本当に連れて行かれてしまっても、もう構わないと思った。
よかった。もう、千華は一人じゃない。これからは、きっとずっと二人一緒。だからもう、一人で空を見上げる必要なんてない。もう千華は、待たなくたっていい。
――だから――ぼく――……。
最後の直前のワンフレーズ。彼の歌は毎回ここで終わっていた。そこで歌うのをい止めた彼はいつも、その後しばらくじっと黙り込んでいたのだった。
けれど、今は、
(終わら、ない……?)
千華ははっとする。いつも決まった場所で歌うのを止める彼――でも今日は、歌がそこで途切れることはなかった。いつもの場所が過ぎても、どうしてか彼の歌は聞こえ続けている。
そして、もう今にもドアの向こうから現れそうなほどにすぐそこで聞こえる彼の声は、息を潜める千華に向かって、静かに静かに最後のフレーズを紡いだのだった。
――君が好きだったよ――。
歌の最後のメロディに乗って、その言葉は確かに千華の耳元で響いた。そして同時に千華の横を駆け抜けた、どこか懐かしい感覚。それは昔この部屋で、千華がいつも感じていたもの。――確かに、千華の愛していたもの。
そして、
ボウッ
「えっ……!?」
右手に感じた熱さと、視界の隅に映った赤色に、千華は小さく声を上げた。反射的に手元を見ると、提灯の中の炎が、激しいまでに燃え上がっていた。
思わず千華は提灯を手放す。提灯はゆっくりと落下して、床に着いたかに思えば次の瞬間、一際大きな紅の火が部屋を照らした。そして千華が驚きのあまり言葉を失っている目の前で、炎は幾つもの筋となって宙に舞い上がり、そのまま曲線を描いてドアの向こうへと吸い込まれていく。
そして――、
「お前、こんなとこで何してんの?」
瞬間、部屋を切り裂く明るすぎる光。反射的に目を閉じた千華がおそるおそる目を開いた時に視界に入ってきたのは、今し方炎が吸い込まれていったばかりの入り口に立つ、懐中電灯を持った少年の姿だった。
「た、大輝……?」
状況がつかめないまま、千華は呆然とつぶやく。
そこには鷲尾大輝が、たった一人で立っていた。
千華の足下では、空っぽになった提灯が、一筋の白煙を上げて転がっていた。
さっきまで聞こえていたはずのせいの歌声は、もう少しも聞こえなくて、彼の姿だって、もちろんどこにも見えなかった。
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