第2話
「ねえ千華、空に火が浮かんでいるよ。とても綺麗だ」
話は四年前に遡る。お互いの家族が出かけてしまっているのをいいことに、ついつい長居してしまった日のことだ。いつものように彼の部屋、今時珍しい風情のある日本家屋の二階で、適当に本棚の本やら漫画やらを引っ張り出していたら唐突に彼がそう言ったことがある。千華はきょとんとして、窓の外を覗き込んでいる彼の方を振り返った。
「火? どういうこと? せい」
尋ねる千華に、せいは静かに笑って、こっちにおいでと千華に向かって手招きする。千華は大人しくそれに従って、彼の隣へと歩いて行った。
けれど、同じように窓から空を見上げてみても、千華の目には何の変哲もない夜空しか映らない。
「何も見えない」
「そりゃあ、千華にはそうだよ。でも僕には見えてる。とても綺麗な、幾千もの火が」
そう言って、せいは何かを愛おしむようにすっと目を細める。千華は、その端正な横顔をしばらく眺めていた後で、ぶーっと頬を膨らませた。
「見えないよお。つまんない。いいなあ、せいは。私には見えない色んなものが見えて」
そうむくれてみせると、隣で苦笑するのが聞こえた。
「あはは。でもそんなにいいものじゃないよ。死者の炎なんて、見えないなら見えないでいいさ」
霊感体質とでも言うのだろうか。せいには、千華たちには見えない様々なものが見えていた。幼い頃から、人より多くのものを見てきたせいか、彼は同い年の子たちに比べてずっと大人びていて、いつも不思議な雰囲気を纏わり付かせていた。
彼の家が、子ども達の間で幽霊屋敷と呼ばれる存在であったことも、その雰囲気を助長した。それが原因で、中学のクラスでは随分と浮いた存在だったけれど、千華はそんな彼にいつの間にか惹かれていた。気付けば勝手に家に上がりこむような仲になっていて、いつもは比較的一人を好んでいた彼も、どうしてかそれを拒もうとはしなかった。
「どうして、今日は空に火が見えるの?」
千華は無邪気に尋ねる。彼には見えているらしいその火を、怖いとは思わなかった。いつも彼と一緒にいたせいか、幽霊といった類のものに関しての恐怖が一切なく、それは千華にとって、「見えはしないがただ当たり前にそこにあるもの」だった。その頃の千華にとって、〝こちら〟と〝あちら〟の境界線はひどく曖昧だったのだ。
「今日は八月十三日。お盆の一日目だよね」
千華はうなずく。
「お盆には、先祖の霊が家に帰ってくるんだよ。だからこの火は、もうこの世にはいない誰かの魂。千華、迎え火って知ってる?」
初めて聞く言葉だったので、千華は首を振った。
「場所によってはね、十三日には野外で火を焚くんだ。霊が迷うことなく家に帰れるようにってね。それを迎え火って呼んでる。……今はもう、やらない所が多いけどね」
千華たちの街でも、迎え火なんて見たことはない。今はもう、廃れてしまったのだろう。
迎え火がなかったら、霊たちはちゃんと帰ってくることができるんだろうか。迷子になってしまわないんだろうか。そんな思いがいつの間にか顔に出ていたのか、せいがくすりと笑った。
「きっと大丈夫だよ。みんなちゃんと戻ってくる。大切な場所は、きっといつまでも覚えているから」
「そう……?」
「そうだよ」
大丈夫だと言われて千華はほっと笑顔を見せる。それを見たせいも、穏やかに微笑んだ。
「それにしても、不思議だよね。死んでもなお、こんなに綺麗な炎を灯すなんて。本当に、不思議だ――」
そうつぶやく彼の姿は、どこかひどく存在が希薄に思われて、千華は幼心に不安に駆られた。無意識のうちに手を伸ばし、窓枠にかかった彼の手首をぎゅっと掴んでいて、一瞬彼が驚いた表情を見せる。
「千華?」
「いやだ、行かないで」
予想だにしないセリフだったのか、せいが目を丸くした。でもそれは本当に一瞬のことで、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻る。
「何言ってるの? 僕はどこにも行かないよ。ここにいるよ」
「ずっと? ずっといてくれる?」
「当たり前だろう? ずっといるよ。千華の隣に」
千華の隣に。千華はそう言ってくれたのがとても嬉しくて、ぱっと笑顔を輝かせる。そんな千華の髪を、せいがそっと撫でてくれた。
しばらくすると、せいは千華から離れ、本棚の方へと歩いて行く。江戸川乱歩の本を手に取りながら、微かに歌を口ずさみ始めた。
以前に彼が、好きな映画のエンディングなんだと教えてくれた歌だ。彼はこの歌をよく口ずさんでいたが、なぜかいつも最後まで歌わない。いつも中途半端な所で、それも毎回決まった所で、歌はいつも唐突に途切れるのだった。
ずっと一緒にいるよと、そう言ってくれた彼だったけれど、結果的に彼の言葉は嘘となってしまった。
それから半年たったある日突然に、まるで誰かに呼ばれたかのように、せいは静かに向こうへと逝ってしまったのだった。
原因の病名は、彼の両親から聞いたのだけど、長い名前だったから忘れてしまった。千華にはずっと言わずにいたそうだが、もう治る見込みなんてなかったらしい。
あまりに短い生も、彼なら何となく納得できてしまった。人には見えない色んなものが見えた彼は、きっと〝こちら〟より〝あちら〟の方へ近い存在だったのだろうと、千華は今でも本気で思っている。
◇
両親は、せい自身にも病気のことを伝えてはいなかったらしい。でもきっと、せいは自分の命運なんてとうにわかっていたに違いない。何か知らせのようなものが、あったのかもしれなかった。
せいが向こうへ行ってしまう数日前、千華はこう言われたのだ。
「千華。約束、守れないかもしれない」
「え……?」
突然の言葉に、千華は呆然としてせいを見た。彼の様子はいつも通りで、他愛のない話でもするかのように、口ぶりは軽かった。
「僕、多分もうすぐ死んでしまう。だから、約束守れないんだ。ごめんね」
今思えばとんでもないセリフだった。けれど、その時の千華の頭に真っ先に浮かんできたのは、死という言葉に対する悲しみや驚きではなく、どうすればずっとせいに会うことができるだろうということだった。
そして千華は答えを見つける。
「じゃあ、お盆になったら会いに来てよ。それなら寂しくない」
何も考えていない、無邪気な言葉だった。せいはしばらく黙り込んでいた後、ぽつりと言った。
「死者は生者をあちら側へと引き寄せる。会えば僕は、千華を向こうへ連れて行ってしまうかもしれないよ」
「いいよ。せいが一緒なら、それでもいいよ」
無邪気であるがゆえに、千華の言葉は紛れもなく本気だった。その時せいがどんな顔をしたのかはわからない。千華は、念を押すように声を強める。
「約束だよ。私、待ってる」
◇
だから千華は、四年が経った今でも、お盆にはこうして必ず家に帰ってきて、一人になった部屋でそっと窓を開けて、そして――炎を灯した提灯を窓の外につり下げる。
提灯はデパートで一番安いのを買ってきた。火をつけられるものなら何でも良かったのだ。
そう。これは千華の、せいのための「迎え火」だった。せいが教えてくれた迎え火を、千華は彼が逝ってしまった直後から自分でやり始めた。
せいの家はここではないけれど、千華は毎年のように炎を灯す。彼が、迷わずに千華に会いに来れるように。
そうして、千華は毎年待ち続けている。約束が果たされるその時を、ずっと、待っているのだ。
けれど、未だにせいは一度も、千華の前に現れてはくれないのだった。
「せい、約束、だよ……」
つぶやいた声は、部屋に流れる音楽に紛れていった。千華の部屋には、外に音が漏れないように控えめなミュージックがかけられていた。せいがいつも口ずさんでいた、古い映画のエンディング。何度も聞いて、すっかり覚えてしまった。――それだけの月日が経っても、彼は千華に会いに来てはくれていない。
どうして彼は会いに来てくれないんだろう。こんなにも千華はせいのことを待っているのに。こんなにも、会いたくて仕方ないのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます