オーバー・ザ・ライン(120分:「堕落」「暗室」「最後の言葉」)

 敵陣営に潜り込む。これは上層部からの任務の命令ではなかった。全て私の独断だった。戻ったところで処分は免れない。独断専行は許されざる行動だった。


 それでもなお、私は赴かなければならなかった。敵地から救い出さなければならなかった。絶対に救い出して、故郷に帰らなければならなかった。求めることは一つ、私と彼女の秘密を守り抜くこと。





 彼女がいるはずの部屋はしかし、捕虜に与えられるものとして考えると異様だった。彼女は個室にいた。オーク材の色合いのシンプルな机を前にしてノートパソコンを広げているのだ。傍らには見たことのない銘柄の酒とショットグラスが並んでいた。酒の匂いが充満している部屋だった。デスクライトとノートパソコンの画面が放つ光以外はなくて、とても暗い部屋だった。


「あらあなた、来てくれたのね」


 彼女の言葉はさも待ち合わせにやってきた男に気付いたかのようだった。私が必死になって、死にかけながら、見つからないよう隠密しながら、手にはマシンピストルを携えているというのに。


「ほのか、捕虜になったと聞いたから助けに来たんだよ」


 まるで日常を過ごしている風にしか見えなくて、私の言葉がおかしいことを言っているように見えてしまう。だが、私の言葉が正しいのだ。彼女、ほのかは敵の捕虜となったのだ。捕虜の方を聞いたのが一か月前。救出を申し出て拒否されたのが三週間前。あらゆる手段を用いて潜入し、ほのかの居場所にたどり着いた今日。


「私は捕虜になったと聞いていたのね。国は救出任務を命じてきたのかしら」

「いいや。俺が任務の申し出をしたら許可が下りなかった。『上の決定』としか教えてくれなかった。俺には我慢ならなくて、だからここにやってきた」

「あらそう、やっぱりそうだったのね」

「やっぱり、ってどうしてそんなこと言えるの? そんなに落ち着いているの?」

「だってここ、私の執務室だもの」


 言っている意味が分からなかった。敵の施設にどうしてほのかの執務室があるのだろうか。


「執務室って、何を言っているんだい。ほのかは捕虜なんだよな」

「いいえ、その、騙したようになってしまってごめんね。私、こっち側の人間なんだ」

「どういうこと」

「私はもともとあなたの国の情報を持ってくるための任務であなたの国に潜っていたの。色々我慢できなくて、私は戦闘で死んだと報告してって言っていたのに、裏切られちゃったか」

「じゃあ、俺を騙したってこと? 利用したってこと?」

「騙したことにはなってしまう。でも分かって、利用しようとは全く思っていないのよ? あなたの国に目をつけられるようになったから、でも私は本当にあなたのことが好きだから迷惑をかけたくなくて、だからこそ、死んだことにして戻ってきたのに」


 頭が真っ白になる、というのはこういうことを言うのであろう。私は彼女に騙されていた。私のパートナーは敵国のスパイだったというのだ。私が愛した相手、一生添い遂げてもよいと、組織の決まりである組織内ルールを破ってまで、パートナーとして過ごしていたのに。


 彼女は敵側の人間だった。


 なのに、どうして、ほのかは泣いているのだ?


「どうしてあなたはここにきてしまったの。あなたのことを忘れたくて、この国伝統のクッソまずい酒で忘れようとしたのに、どうしてこんなところに来てしまうのよ。そんなことされたら、私、私」


 ガバリと椅子から立ち上がったかと思えば、見たことのない軍服を身にまとった彼女がどんどん迫ってくる。泣きじゃくっているのに鬼のような眼光で迫ってきて、しかし私は理解が追いつかなくて身動きが取れなかった。


 ほのかの柔らかい感触がまとわりつく、一か月以上ぶりの、ほのかに抱きしめられる感覚。


「忘れられなくなっちゃうじゃないの。好きな気持ちがどんどん溢れてきちゃう。あなたがほしい、一緒にいたい」

「俺はどうしたらいいのか分からない。ほのかは敵なのか、でも、ほのかを助けたい気持ちはずっとある。国のために戦ってきたわけで、でも」

「私があなたを愛する気持ちは本物なの。あなたのためなら拷問だって受けていい。だから、このまま、一緒にいて」


 私の中で天秤が壊れる音がした。私はほのかを愛している。間違いないことだった。気にのために動くのが組織の人間として求められることだが、しかし、目の前の愛情を奪われること、奪うことは人間として耐えられなかった。


「じゃあ、ちゃんと結婚してくれますか」


 私が彼女側になる直前の、最後の言葉だった。

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