農家は出勤する(180分:「廃墟」「人工生命」「花の名前」)

 世界は生命にあふれている。

 おそらくは世界の誰もが正しいと考える命題である。ペットが生きている、牛や豚が生きている、彼女が生きている、家族が生きている、子供が生きている、植物が生きている。植物が、虫が、細菌が。

 簡単に言ってくれる。

 T456R3に与えられた仕事は植物の栽培だった。どうも周りにバレてはいけないとかいう話らしく、職場はまるで人が過ごすような環境でなかった。長年放棄されたビジネスホテルかラブホテルのような建物、照明もなく荒れ果てた建物を進む。まるで廃墟で肝試しをしているかのような。

 実際、終業規約の中には『出勤中、廃墟に侵入する人間と遭遇してはならない』という肝試し前提のルールがある。

 いくつかの隠し扉を通ってゆく。扉をくぐり抜ける度に廃墟だった雰囲気が清潔感を持つようになった。最後の扉は金属製で、静脈認証が必要だった。

 白を基調としたフロア。目から入る情報だけでは天井も床も壁も白くて平衡感覚を失いそうになる。重力センサーの向きだけがT456R3のバランス感覚を支えていた。

 出入り口のそばにモニタと非接触のリーダ、自販機によくある取り出し口がある。彼はカードを取り出してリーダに当てれば、取り出し口にペットボトルが落ちてきた。極めて小さなサイズのボトルで、中に入っているのはどうも水らしく見えた。その場で一本全てを飲み干して、ややあってから、

「ウイルススキャンの結果は問題ありませんでした。今日もよろしくお願いします、T456R3」

と、どこともともなく初音ミクの声が流れた。

 フロアの中央にあるエレベータを乗って作業場に移動する。棚がいくつも並んでいて、棚もそれぞれ五つの段があり、植物が並んでいた。

 水耕栽培工場。白一色のフロアの中で育つ植物の色合いがよく映えた。

 T456R3の持ち場はマリーゴールドだった。すでに全ての株のつぼみが膨らんでいて、三分の一ほどはすでに咲き始めていた。

 棚の上部に用意されたオイルタンクを確かめて、しきい値以下の容量となっていることからオイルの追加をしなければならなかった。だが思わず必要量よりも数ミリリットル多く投入してしまった。

 T456R3が多く投入してしまったのは別の懸念があるからだった。

 咲きかけのマリーゴールド。彼が施した実装からすれば、マリーゴールドはまだつぼみのままであることを期待していた。しかし一部はすでにその黄金の花を開こうとしていた。十分だと思っていた実装に不具合があることをT456R3は認識したのだ。

 咲きかけのひと株を引き抜いて、棚から少しばかり離れたところにある水耕栽培キットに植え直した。キットから伸びるハンドルを握りしめてデバッグをすれば、マリーゴールドは花が満開になったり、かと思えば蕾がどんどん小さくなったりした。ハンドルから伝わる情報から、T456R3は黄金の花をマリーゴールドたるものにすべくこの日を費やすのである。


 世界は生命にあふれている。

 簡単に言ってくれる。

 『それら』を生命として見えるようにしているために、水面下では名も無き存在による努力があるのだ。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る