死に抗う(180分:「雨の止まない街」「恐怖症」「サナトリウム」)

 吉田氏の診察室を訪れたのは高田さんのご家族だった。入院患者ばかりを扱うこの療養所においては診察室はほとんど用をなさず、病床で診察するための準備を行う部屋か、面会に訪れた家族と話をするための部屋になっていた。

 一度別の名前に変えてしまおうかと考えることもあったものの、時々訪れた家族さんを診察しなければならないこともあって、結局名前を帰るのをやめた。

 高田さんのご家族は面会に来る度にこうして手土産を手にやって来るのである。夫婦そろって入ってくる高田さんの家族は毎度毎度沈痛な面持ちで、まるで葬式帰りに寄ったかのような雰囲気だった。

 この日高田夫婦が持ってきたのは萩の月を思わせる菓子だった。

「いつも妙子をありがとうございます。こちら、つまらないものですが」

「いつもわざわざありがとうございます。妙子さんはいかがでしたか」

「今日は調子がよかったようです。穏やかな顔をしていました」

 奥さんが患者用の背のない丸椅子に腰掛けて、その横に旦那さんがぴたりと佇んだ。

 高田夫妻が丸椅子に腰掛けたことで吉田氏による診察が始まる。椅子を回してデスクに向きあえば、引き出しの中から紙を取り出してデスクの中心に置くのである。

「今日はどんなことをしたんですか?」

「今日は映画を見たのと、一緒に本を読みました」

「ではまずは映画の話をしましょう、どんな映画を見ましたか」

「海外のアクション映画です。内容は、なんと言いましょうか」

「SF寄りのアクションです。体内に爆弾を仕掛けられた男が、爆弾がいつ爆発するか分からない恐怖の中、敵組織に立ち向かってゆく内容です」

 奥さんが言いよどむとすぐに旦那さんがフォローする。

「人の死はどれだけ描かれていましたか」

「たくさんありました。直接的なものから、途中までが描かれていて、どうみても死ぬんだな、というものもありました」

「その時の妙子さんの様子はどうでしたか」

「どうでしょう、表情に変化らしい変化はありませんでしたね。表情を変えないで見ていたと思います。吉彦さんはどう感じましたか? 妙子の様子を見て」

「私も表情の変化はなかったように感じますね」

 吉田氏はその証言を紙に書き記してゆくが、不意にペンが止まると患者と向き合った。

「無表情ということですか? 嫌悪感を示したり見るのを避けようとしたりといった行動や目の動きもありませんでしたか」

「そのようなことがあったとは思っていませんが」

 紙に記録をして、それから吉田氏は正面に顔を向けた。窓越しの外の光景は濡れそぼっていた。屋内を隠すように生えている木は霧雨ですっかり濡れそぼっていて、付着した雨粒が塊になってつーっと幹を伝ってゆく。

「高田さん、焦る気持ちは分かります。妙子さんは人一倍『死』というものに敏感なんです。確かに死が描かれている作品、特に映像やゲームに触れさせてくださいとは言いましたが、聞く限りでは妙子さんには過剰に思えます。本当に問題はありませんでしたか」

 吉田氏の言葉は努めて落ち着いていたが、言葉を受け止めた高田夫婦、特に奥さんには激しい攻撃のようの思えたらしい、か細い腕がぶるぶる震え始めて、吉田氏を見ていた目はどこにも焦点が合わなくなっていた。容態が急変した。

 状況が変わった。

 療養所をつんざく金切り声。突拍子もなく現れた大音声に驚かない人はいなかった。吉田氏は肩をビクつかせたし、高田さんの奥さんは小さく悲鳴を上げながら頭を抱え込んだ。落ち着いた様子だった旦那さんも流石に動揺を隠せなかったようだ。

 高田夫妻には分かったのだ。その声を聞くだけで、誰が悲鳴を上げているのか。

 診察室の向こうの廊下を誰かが走ってゆく。扉についた小窓から一瞬、看護師が見切れた。

「妙子さんは死を迎える人生そのものに恐怖してします。病的なほどに。それと同じぐらい、奥さん旦那さん、あなた方も娘が死から克服させなければならないという脅迫観念に押しつぶされようとしています」

「で、ですが、早く治さなければ、死ぬことが怖くて自殺をしてしまうかも、そうおっしゃったじゃありませんか。人生恐怖症でしたか、早く治さなければ妙子は苦痛のまま日々を過ごすことになってしまう」

「妙子さんは常に恐怖の中にいます。我々も力を尽くし支えておりますが、一番の支えは親御さんの温かさなんです。その親御さんが苦しそうな顔をしていたら子供心に気を張ってまいます」

 涙ながらに訴える奥さんに吉田氏は椅子を近づけて肩に手を乗せた。抱え込んでいた頭を上げた奥さん、涙が止まずに目から筋ができていた。

「親御さんの不安を解消するのは我々医師と看護師の仕事です。まずは自らの状況を理解してください。それから、安心してください。少し妙子さんの様子を見に席を外しますが、その後詳しくお話しましょう。いいですね」

 肩を叩いて、大丈夫、大丈夫だから、と言葉を重ねれば、席を立って旦那さんとも向き合う。

「少し離れますが、奥さんのことを見てあげてください」

 旦那さんにも声をかけて、いよいよ発作を起こした患者の元へと足を向けるのだった。

 吉田氏が出て、夫妻だけとなった診察室。

「吉彦さん」

 奥さんが旦那さんを呼ぶ声が物悲しく響いた。旦那さんは奥さんの頭をなでてから、片膝立ちになって奥さんを抱きしめた。

 旦那さんの肩に顎を預けてもなお、奥さんの涙は止まない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る