第10話 朝日姫

『何とも、うとましい親王の子よ……』


 あれは、私が東宮(皇太子のこと)になる五年も前。四歳になって程なくのことであったか……。

 先の帝がまだ在位中であった頃、私はその様な言葉を宮中にて色々な者より度々囁き聞かされていたものだ──。



『幸い、光仁親王は病に倒れ、皇位継承の列より遠く離れはしましたけれど。しかし、あの親王の子……。どうにも気掛かりが絶えませぬ。何とか出来ぬものだろうか……』

『……親王の? 失礼ながら、多和皇后様……それは少しばかり考え過ぎではないかと。まだ、四歳の童。恐れるほどの相手ではないでしょう』


 その日は月夜に見とれ、宮中を彷徨い、そうした話をたまたま耳にしたのだ。直ぐにその童というが、自分のことだと判り。中の者や周りの者・女房などに気づかれないように、私は廂と几帳の影に隠れ、身を伏せ、その話に聞き耳を立てた。


『考え過ぎなどではありません! 四歳だからと、油断など出来ませぬ。今上きんじょう様(在位中の帝)は何かと、光仁親王のことを気にかけて居られます。その上、その子に対し、昨日は格別なお褒めの言葉まで授けました。しかも、それは我が子を差し置いてのこと……これを許してなるものか!

ゆくゆくは、あの小生意気な雅永を東宮にと考えているに違いない。

ええい、癪に障る。腹のたつことよ!!』

『……少々、言葉を慎みなられたがよろしゅう御座いまするぞ。多和皇后様』

『──!? こ、これは心外な……。御父上はこれだけの仕打ちを受けても尚、悔しくはないのですか?』

(……御父上?)


 それは、多和たわ 皇恵門院こうけいもんいんと、今現在に至っても尚 権勢を誇る関白・松殿師久まつどの もろひさの会話であった。二人とも、私の前ではその様な振る舞いなど一切見せない、寧ろ、優しげな表情を見せる者達である。

 それだけに、顔は急に青ざめ恐ろしくなり、直ぐに自室へと戻った。


 ……それ以後、私は宮中の中で疎まれていることを自ずと悟り、目立つことを極力控え、次第に部屋の中に籠り、書物にばかり目を向けるようになっていった。



 そして同じ頃、私と同じように宮中で心無い噂を立てられ疎まれる女孺にょじゅ(内侍司の下級女官)が居た。


 その女孺の名は、朝日姫という。


 出自は従六位の下と周りの女官たちに比べればやや低い身分ではあったが、先の帝により、ひと目にて気に入られ。あれよあれよという間に、内侍司ないしのつかさの長官となる従三位・尚侍ないしのかみに僅か15歳にして登りつめ、今や帝の寵愛を一身に受けているのだと聞く。


 近いうちに、帝の御意をもって、中宮ちゅうぐう (皇后と同等の序列)として迎え入れられるのではないか?とまで囁かれていた。

 そうした中、多和皇后の傍に仕える女房たちの間から、尚侍・朝日姫に対する悪い噂が流れ始める。



「あれは物の怪よ。その悪しき力で、帝の心を惑わせたに違いない」

「見た者によれば、その顔は醜く。夜な夜な死肉を食す、とも聞きましたぞ」

「夜な夜な出歩くのは、その為か?」

「おお。それは、なんとおぞましいことよ」

「恐ろしいのぉ~っ」

(その様な女性を、帝は何故、気に入られたのだろうか……?)


 噂だけを聞けば、気味の悪いものばかりであった。そんな女性を好む帝が、子供心にも理解出来る筈もなかった。



 だが、ある日のこと、その出会いは突然に起こる。

 その日に限って寝付きが悪く、今宵も月夜を見ようと廂から顔を出して表に出た。渡殿を暫く進むと、先の中庭の大きな礎石の上に、細長ほそながを着た一人の女性が月夜を遠く眺め座っている。


(此処は、皇后や女御様達が多く住む弘徽殿こきでんにも続く母屋の中庭。この者は此処で、何をやっているのだ?)

 そう不審に思いながらも更に近づくと、その女性は月夜を見上げたまま、ふいに和歌を歌い始めた。


 ……その歌声は優しく、とても美しいものだった。今は亡き、母の面影を思い出させてくれるような優しさを感じる歌声に、つい引き寄せられ、私は気がつくとその者の傍に寄り添っていた。


 その者はそんな私に気がついて。そこで優しく笑むと、手をそっと差し伸べ、頭を優しく撫でてくる。

「ここは、あなたのようなわらべの来る所ではありませんよ。叱られる前に、早くお帰り。

もし、帰り道が分からないのなら、私が連れて行ってあげる」


 想像していたのよりも明るい声色を耳にして、その微笑みに改めて心を奪われ胸が高まるのを感じつつも、私は何故かこの時、随分と強がりなことを口にし申し立てていた。


「わ、私は童などではない。雅永という名がある! それに、帰り道くらい自分でわかる。

そう言うそなたこそ、何者だ? 答えよ!」

「あら、これはごめんなさい。光仁親王の若君様でしたか。

わたくしは、朝日と申します。以後、お見知り置きを。雅永さま」

「あさひ? (あの噂の、朝日姫か……?)」


 噂では、醜いと聞かされていたのに、その印象は噂とは随分と違っていた。これならば、帝が心奪われるのも仕方ない、とさえ感じるほどだった。

 それ以後、朝日姫とは夜な夜な決まって、この場所で逢うようになる。



「多和皇后の周りに居る女御にょご更衣こうい・女房共に至るまでもが、お前の良からぬ噂を流しているというのに。お前は、まるでその事を気にせず。どうしてそうも何時も明るくしていられるのだ?」

「あら、お言葉では御座いますが雅永さま。そんなことを悔やんだ所で、何か良いことでもあるのでしょうか?」

「そ、それはそうだが……朝日は、気にならないのか?」

「はい、気になりません。そんな噂なんて、放っておけば良いのです。

折角産まれた有涯うがいの世を、そのような事に費やし星霜せいさうは、愚かなことと心得えておりますので」

「……(凄いな、この人は)」


 それはつまり、『一度限りの人生を、そのようなつまらない事に費やし生きるのは、とても虚しいことですよ』ということなのだろう。


 とても面白い、変わった人だ。そして、とても興味深い……。と、子供心にもよくそう感じ、それから暫くはとても幸せで楽しく思える日々が続いた。



 だが、それはある日より、ぱったりと途絶える。それも、何の前触れも無く、唐突に……。連日ここへ訪れても、その姿を現すことは二度と無かった。

 噂によると、朝日姫はこの内裏より追い出されたのだと言う。その消息を、急ぎ女房らに頼み調べさせようとしたが、何故かそれは叶わなかった。


「出来ないとは、どういうことだ?」

「御勘弁くださいませ。あの朝日女孺あさひ にょじゅの事に関しましては、調べてはならぬ、との御達しが御座いまして……」

「それは、誰の指図であるのか?!」

「どうか御勘弁くださいませ! 御勘弁を……」

「……」

 それ以上の追及は出来なかったが、誰かに邪魔をされていたのは間違いない。



 ──月日は過ぎ、それから三年程経った……冬。この私も七歳となり、この宮中より遂に追い出される日がやってきた。


「今日より、此処で過ごすのだな……」

 都の外れにある、それまで住んで居た内裏とは比べようもない小さな宮家筋の屋敷へと移り住み。それから平穏な日々を過ごすこと半年後の……初夏。その日は寝付きが悪く、私は、月夜を見ようと廂から顔を出して表に出た。

「ん? 蛍か……」

 やがて渡殿にて、目の前を通り過ぎる蛍に気づき導かれ、屋敷内の庭園にある水辺へとまるでそれに誘われるかのように歩き向かっていた。

 すると、華やかでいて色鮮やかな細長ほそながを着た見慣れぬ女の子が礎石の上に腰を掛け、仄かに光る蛍を手指に載せ、更によく見ると沢山の蛍たちに囲まれながら、思い思いに楽しげに歌を口ずさんでいる。


 その様子は、とても幻想的なものであった。夢でも見ているのか、と思ったほどだ。


 私は、次に見せたその横顔と微笑みを見て、ドキリとし、不思議なものを感じ「そなたは蛍の精であるのか?」と、今思えば妙なことを問うていた。

 でもその女の子は、始め不思議そうな顔の表情をしていたが。次に可笑しそうに大いに元気よく笑い、「そうだよっ」と明るく返してくれたのだ。

 それはまるで、初めて出会った日の朝日姫を彷彿させるものであった。 だが、それもその筈で、その時に出会った女の子は、奇遇にもあの朝日姫のであったのだ──。


「久しぶりだな、朝日……」

「これは、お久しゅう御座います。雅永さま」

 それ以後、私が九歳となり東宮として再び宮中へ呼び戻されるまでの間。ことある事に、微笑み迎えてくれる朝日姫が居る屋敷へと出向き。その娘『蛍の君』とは、ついでに戯れ遊ぶ日々が続いた。




「──朝日姫……か」

 麗景殿れいけいでんに居た九条家の姫が、余りにもあの『朝日姫』に似ていたので、雅永帝は急ぎ清涼殿へ戻って来てからも心の動揺が未だに続いている。


 何故なら、朝日姫は随分と前に亡くなった筈だからだ。まさか幽霊という事は無いだろうが、その朝日姫と瓜二つほどに似た姫君が、麗景殿に居たのだ。しかもそれは、つい先程まで追い出すつもりであった九条家の姫君なのだという。


 驚かずには居られない。


 先の帝が手を付けた女性である為に、幼いながらも恋心を抱いていながら何も言い出せずに終わった朝日姫との縁が、恋心が、今になってこの様な形で結ばるというのだろうか……。


 これは喜ばしいことであるが、何故か釈然としない。


 幾らその姿形が似ていようとも、あの姫君は決して朝日姫などではない。全くの別人だ。年齢的にも合わないからだ。なのに、未だこの胸を激しく打ち続けるものは、いったい何なのだ……?


 顔形が、似ているからか? いや、雰囲気の方か? いいや、初めて出会ったにも関わらず、不思議ととさえ感じた。そんなこと、ある筈が無いのにだ。


 そうだ。あれはまるで…………まるで?

 

「まさか、あれは……」

 雅永帝はそこで、はたと気がつき、暫く思案に耽る。それから次に真剣な眼差しで面を上げ、ピシャリと檜扇を打ち鳴らし、口を開いた。


「誰か居るか」

「此処に控えまして御座います」

「一つ、内密に調べて貰いたいことがある──!」


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