第二章 富国、南方に在りて

富国、南方に在りて1

 鮮やかな陽が、南国の空を炒るように照りつけながら、西の彼方へ消えて行く。

 空気は未だ熱気をはらみ、南国の太陽に日中焦がされた大地は、特有の日なた臭い匂いを放っている。


 ガロア大陸を分断する峻険ザーヌ大連峰の以南、通称を南方圏というこの地方は、同じ晩秋でありながら、北方圏とはまるで違う色合いを帯びている。


 ランスフリート・エルデレオンは、長身にはおった純白の上衣をなびかせながら、西日に彩られた庭園の小径を一人で歩いていた。


 周囲を憚るかのように、歩みは速くはない。

 だが、大股の足取りで脇目もふらず道を行く姿からは、道を急いでいると簡単に見てとれる。


 遠目に東屋が見え始めた。

 石畳を踏む足取りが、次第に速く鋭くなって来た。


 故意に曲線を用いて造形されている小径を、ついには駆け足寸前で進んで行く。

 大輪の赤い花に囲まれた休憩処が目前に迫った時、、遠慮をかなぐり捨てた勢いが、足はおろか全身についていた。


「ティプテ。居るか、ティプテ。

 おれだ」

「ランスフリートさま」


 弾んだ声が、呼びかけに応じた。若い女性の声だった。

 同時に人影が動いた。


 東屋に据えられている石造りの椅子から、誰かが立ち上がった、と見えた。

 ティプテと呼ばれた人影も、青年を出迎えに走り出していた。


 可憐な容姿の小柄な女性である。東屋の陰から、文字通り飛び出して来た今、西空から降り注ぐ深い紅色の光に、すっかり顔立ちが照らし出されている。


 大きな丸い目が印象的な、まだ少女としか見えない面差しだった。頭髪が金色にきらめきながら、うなじのあたりで踊っている。


「お帰りなさいませ」


 叫ぶように言い、抱きついてきた少女を、ランスフリートはややよろけながら、受け止めた。

 抱擁が交わされる。


「済まない。待たせた」


 ティプテの耳に、優しく詫び言を囁く。恋人は、化粧気の無い幼さの残る面差しを笑みで弾けさせ、男の厚い胸板に頬を寄せた。


「お待ちしておりました。

 お元気そうで、何よりです」

「会いたかった。

 ランダイリス季二月の終わりからこっち、かれこれ一月だ。

 こんなに長く会えなかったのか。

 我ながら、よく我慢が出来たと思うよ」


 ランスフリートは、彼女の腰をしっかり抱いた。


「わたしも」


 腕に力がこもった途端、ティプテも嬉しそうに彼を見上げた。


「思い切って、国境まで行こうかしらって、ずっと考えておりましたわ」

「大胆だな。

 で、尼僧の身がどうやって国境まで行く積もりだったんだ。馬に乗ってかい」


 視線を合わせて笑う。

 髪を肩のあたりで切りそろえ、灰色の一枚服をまとった彼女は、その姿から下級僧侶だと判る。


「ええ。馬にでも何にでも乗りますわ、ランスフリートさまにお会いするためなら。

 雲にだって、乗ってみせます」


 勇ましく宣言しながら、ティプテも笑い返してきた。

 溌剌とした笑顔と勇敢な愛の言葉は、彼を満足させた。


「雲に乗る、か。

 君ならやってのけそうだ」

「ええ。わたし、何でも出来ます。

 あなたのお為なら、何でも」


 情熱的に言い、恋人の胸にもう一度頬を押し当てた。


「愛しています、ランスフリートさま」

「ティプテ」


 激情が、ランスフリートを捉えた。

 彼は、小柄なティプテを抱え上げるようにして上を向かせると、今度はぷっくりとした彼女の唇に、自分の唇を重ね合わせた。


 少女は目を閉じたりはせず、しっかりランスフリートに視線を合わせて、深々と口づけを受けた。

 昏時が迫る中、二人の抱擁は終わりを知らぬかのように、いつまでも続いた。



 情熱に満ち満ちた時間をもった後も、二人は身を寄せ合って東屋の椅子に腰掛け、余韻を味わっていた。


「また近いうちに国境巡回とやらに引き出されそうだ。

 あいつは、別におれの助けなど欲しくもなさそうだが」

「あいつって、あなたのお従兄さまでしょう。

 剣将閣下でいらっしゃる御方」


「会った事があったかな」

「ええ、毎日。と言っても、礼賛の儀でお顔を拝見するだけ」

「堅物らしい顔つきだろう」


 ランスフリートは笑いながら言った。ええ、とティプテも口元をほころばせた。とっても、と付け足しておいて。


「本当に、お堅い御方でいらっしゃるのでしょ」

「国境視察に同行させられたこの一月は、毎日、あの難儀な堅物顔を拝見して過ごしたよ」


 冗談めかしく、ランスフリートは言った。

 南方圏で最も国力が高いとされるのは、このダリアスライス王国である。


 富国強兵策を取り、王室が抱える十二個の常設師団を絶えず国境巡回に送り出している。

 彼は、一歳年長の従兄が率いる師団に同行を命じられ、全く嫌々ながら南東方面へと出向いていた。


 今日の昼過ぎ、ようやく王都に帰着し、その足で王家居城を訪れた。挨拶のためだった。

 用が済めば早々に帰宅するはずだったのだが、登城は恋人と会う貴重な機会でもある。棒に振る気にはなれなかった。

 この通り、恋人の肩をぬけぬけと抱きつつ、笑って従兄を堅物呼ばわりしている始末である。


「久しぶりに起居を共にしてみて、心から思ったよ。

 彼の奥方は偉大な女人だな」

「そんなに厳しい方でいらっしゃるの」


「あれはきっと、伯父上が香蓉石を彫り上げて、この世に送り出した男に違いないな」

「あなたと違っていらっしゃるわ。

 あなたは水のような御方なのに」


「石は水に沈んでしまうはずなんだがな。

 あの男は、石のくせをして水面に浮かぼうとするし、水に向かって説教までする。

 困った石だ」


 当人にはとても聞かせられない人物評を、飄然とランスフリートは口にした。

 ティプテは笑い出した。彼女の表情はよく動く。


 彼は、可愛らしい女性の笑顔をこれ以上は不可能なくらいの愛を込めて、穏やかに見つめた。

 二人が出会ってから一年が経つ。


 大陸全土の慣習である神々への拝礼時に、ティプテは下級の侍侶として、ある朝ランスフリートの目前に初めて姿を見せた。


 それまで、女性といえば楚々とした貴婦人や姫君、感情を表わさないのが当然の宮廷女官達しか目にした事の無かった彼にとって、笑顔を惜しまず、常に溌剌と振る舞うティプテは、衝撃的なまでに新鮮な存在だった。


 ほどなく忍び会うようになり、今では互いの居ない生活など、考える事も出来なくなっていた。

 夜はそこまで近づいて来ている。

 静かな闇の中に、恋人達の姿はやがて溶け込んでゆく。



 時刻は早や南刻の六課(午後八時)を半刻近くも回っている。

 大陸の夜の時間としては、決して早いとは言えない。町家であれば、とうに寝静まっている時刻である。


 だが、ティエトマール一門の最長老は、まだ寝台に老身を安らがせるわけにはいかなかった。

 客を待っているのだ。


 彼は皺ばんだ指を、いらいらと円卓の上で動かしている。広い室内には、その静かな音もよく響く。

 その音に、入室の許可を請う鈴の音が重なった。


 待ちかねたとばかりに卓上の鈴を取り、やや乱暴に鳴らした。

 扉が開かれた。廊下の側へ、入室の許可を請うた人物の影が落ちる。


 廊下では、明かりといえば、屋敷の勤め人が手にする小さな灯篭から発せられる火の光しかない。

 部屋の四隅と、主の脇に置かれている明かり皿の上でゆらゆら灯る炎が照らす居間の方が、まだしも明るい。


 仄暗い空間に現れたのは、白い軍服姿の若いレオス人男性であった。

 もっとも、若いといっても屋敷の主に比べればという意味で、大陸基準に照らせば、もはや青春期にあるとは言えないであろう。年齢は二十六歳である。


「来たか」

「はい。

 夜分ながら、お召しによりまかり越しました、大父さま」


 若い客は、完璧すぎるほど礼節にかなった挨拶を、屋敷の主人に施した。

 顔立ち自体は、格別な美形ではないが醜悪でもなく、切れ長な目が多いレオス人にしては、やや丸い奥二重の目、男らしい太い眉を持っている他は、特に特徴は無い。

 印象深いのはとにかく、ほぐれる事が無いかのような、堅い謹直な面持ちである。


「お側に寄らせて頂く事、お許し願えましょうか」

「許す。同席致せ」

「ありがとう存じます」


 石が人語を話している、といった観がある。結語に至るまで堅苦しい調子を失う事なく、彼は挨拶の言葉を述べ終えた。


 それからおもむろに会釈して、ようやく、一歩一歩踏みしめるように進んで来た。その様子を、老人はやはり謹厳な面持ちで見守っている。


「夜分、大儀。

 着座を許す」

「ありがとう存じます」


 双方、大真面目である。

 彼らしか居ない室内の中ですら、面倒な手順を律義に踏んで、ようやく二人は対峙した。


 レオス人は年長者の男性を立てる事に対して、神経質な程の注意を払う。若い客は、主が口を開くまで、石像のようにかしこまった姿勢のまま沈黙を守った。


「あの放蕩者は、いずこへ消えたと思うか」

 口火が切られた。

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