北の雄国6
「御免」
言い捨てると、ジークシルトは突然背を見せた。
パトリアルスが止める暇も無い。またしても派手に足音を立てて、早々と居間を退いて行った。
残された方は、去って行く姿を見送るしかなかった。
「あ、兄上」
「それ見たことか」
クレスティルテは勢いを盛り返した。
「やはり、あれはそなたに横暴を働いたのであったな。
弁解の言葉が考えつかなんだのであろう。逃げて行ったのじゃ」
「母上、それは」
抗弁を試みる声には、しかし力が入らない。
彼が何を言っても、当人が許しも請わず自儘に退出したとあっては、疑いと怒りに支配されている相手の耳には届かないであろう。
(兄上、なぜでございます。
これでは母上に、兄上御自身が好んで誤解を求めておられるのも、同然ではございませぬか。
なぜ、御言葉を惜しまれるのです)
無力感が込みあがる。
沈黙した彼の腕に、立ち上がった母ががそっと触れた。
「よい。
あのような横紙破り、もう兄と思うでない。
わらわも、あれを我が子とは思わぬ事にする」
「は、母上……それはあまりな」
驚愕する次男へ、彼女は宣言するように呻いた。美貌には、激しい憎悪のかぎろいがたゆたっている。
「あれは、我が子ではない」
クレスティルテの細い指が、パトリアルスの腕を強くつまんだ。
礼拝が終われば、次は朝餉の儀となる。
王家一同が顔を揃えての朝食会といったところである。
会食用の部屋は、最上席とされている北側に、国王夫妻と息子達だけが座れる円卓が用意されており、陪食する連枝の席は、やや離れた場所に設えられている。
シングヴェール家の四名は、特に高級品である白香蓉石の円卓を囲んでいる。
食卓を彩る品も実に多彩である。
「武芸は捗っておるか」
四十六歳ながら、たいそうな健啖家ぶりを発揮しつつ、バロートは西席に座っているパトリアルスへ下問した。
果汁水を口に含みかけていた彼は、ぎくりと手を止めた。
俄かには答えられない問いだった。返答に窮した次男へ冷たい視線が射込まれた。
「近々、剣術の御前仕合でも開催しようかと考えておる。
そなたも出て、日頃の鍛練の成果を予に披露致せ」
「は……あのう。
わたくし如き未熟者の剣術など、父上の御高覧には耐え難く」
「謙遜などせずともよい。予の息子ともあろう者が。
むろん、精進しておるのであろう」
「は、はい。
いえ、あのう」
パトリアルスは蒼白になった。もはや食事など口に出来る心境ではない。
すっかり狼狽している次男に成り代わって、クレスティルテが、南席から美しい緑の目を夫へ向けた。
「この寒空の下で、何もそのような御戯れをなさらずとも宜しうございましょう」
「では、室内で開催する」
「室内で剣術試合など、聞いた事もございませぬ。
我がエルンチェアは酔狂者の集まり、と他国に笑われます。
お止め下さいまし」
「無いからやるのだ。面白かろう。
のう、ジークシルト」
バロートに笑いかけられて、東席のジークシルトは食事を中断した。
俯いたまま顔も上げられないでいる弟を、気の毒げに見やってから、父に苦笑を向ける。
「御意にございますな。
しかしながら、父上。剣術試合は、やはり屋外にて観戦してこそ、豪儀で見応えがあろうかと存じます。
室内で披露するは、詩歌管弦が如き風流物こそふさわしいかと」
「なるほどな。
まあよい、后が申すが通り、予の戯れ言だ。真に受けるな、パトリアルス」
バロートは低く笑って、自分の提案を取り下げた。
本気で発案したのではない。パトリアルスの反応を観察するのが、彼の真意であったのだ。
次男の、このような狼狽を簡単に見せるあたりが、どうにも気に入らない。
一方、パトリアルスにとってバロートは、ひたすら恐怖の存在である。
どのように接すればよいのか、いつも父の前に出ると途方に暮れてしまい、いつのまにか怒りを蒙るはめになっている。
萎縮の末、食欲はおろか、果汁水を飲む事すら覚束なくなった。
「終えたのか。
では、退出を許す。他の者も、予を待たずともよいぞ」
その様を一瞥した王は、肉料理を平らげながら言った。妻は元から旺盛な食欲の主ではない。
許された二人は、これ幸いとばかりに席を立ち、それを見た陪食の連枝達も続々と辞して行った。
まだ席に残っているのは、嫡男のみとなった。
この親子は、競うようにして食事を続けている。
粉食の一種(クエラ)で薄切りの焼き肉を挟む。温野菜、卵、挽き肉料理。胃弱な者なら手を出すどころか、見ただけで満腹感に襲われかねない。
大陸を長く支配する彼ら民族の食習慣は、一般に朝が最も重視される。いわば伝統に則った食卓である。
当王家は、特に伝統を重んじている。支配者階級レオス民族らしく。
ようやく満腹したと見え、バロートは食器を定位置に戻した。
「見たか、パトリアルスの、あのうろたえるさまを。
ばかめが。
母の言いなりになってばかりおるから、このような場で恥をかくのだ」
「ご存知でおわしましたか」
ジークシルトも食事を終えた。
母が、弟につけられた剣術指南役を遠ざけているのは、想像するまでもなかった。
恐らくは、冬も迫っている折、剣術の稽古など体を壊す、とでもいった心配からであろう。
それが父の怒りを招くと、彼女は承知の上か、否か。
むろん、言う事を聞き入れるパトリアルスも責任は免れないのだが、そこはあえて無視する。
「父上も御人のお悪い」
「予は何でも存じておるぞ」
含み笑いが漏れた。牽制であろうか。
少し間が空いた。
「馬の件よ」
「父上には、かないませぬ」
王に対し、肩をすくめて軽く笑い返した。
バロートに畏怖していないわけではないが、遠慮もしていない数少ない者の中の一人に、ジークシルトは列している。
「いや、参りました。
ひどく母上のご不興を買いましたな、この度は」
「これしきで閉口するおまえでもなかろうが」
こちらも見抜かれている。
その通りで、どうせ何を言っても聞き入れられないとの見込みがついた時、わざと母の居間から立ち去ったのだった。
先方が腹を立てているならいっそ、怒りを煽り立て、どのような手を打つものか。
見定めたいとの思いもある。
彼が考えるに、敵は母一人ではない。
「して、如何に思うのだ、この一件。
何か裏があると思っておろう」
「御意。
わたしを蹴落としたくてたまらぬ奴ばらが、何やら画策しておると見ます」
反王太子派、あるいは親王擁立派。当宮廷には、王太子の登極を望まない臣下の派閥がある。
栗毛の若駒にまつわる母の誤解も、親王派閥の手回しによるものだ。ジークシルトはそう見ている。
馬の譲渡にあたって、元の持ち主が内務卿である事を、彼は馬場に行く直前に知らされた。
名馬の産駒としか聞いておらず、てっきり弟の厩舎で生まれたものと思っていたのだが、そうではないと知り、急いで後処理の手を打とうとしたが、間に合わなかった。
結果、悪評を被った。それ自体は聞き流せば済む事だが、周囲を固めてゆこうとしている敵陣営の思惑が、彼には不快だった。
「どうせ、今日明日にも何か仕出かす、というわけではございますまい。
打ち捨てて、模様を見る所存です」
「うむ。団結したいのなら、させておくがよかろう。
その方が、まとめて処断しやすい」
「御意。
ですが……その際は、弟を如何なさいます」
ジークシルトは肝心な事を訊いた。出来るなら、彼は弟には累を及ぼさせたくはなかった。
「あれは、毒にも害にもなりませぬ。
そのような力も意志も、ございますまい」
「毒も害も無くとも、害虫は害虫と呼ばれるのだ。
存在自体が目障りな虫はな」
バロートは冷然と答えた。パトリアルスについてだけは、この父子は意見を異としている。
「あれは第二王位継承権者だ。
当人の意思など、この際は問題ではない。
我が血を享けておる。そこが問題なのだ」
「承知致してはおりますが」
「なら、無用な情けは慎め」
ぴしりと言う父である。
「近頃のそなたは、あれに構いすぎる。
今は、身内の愚か者に目をやる暇など無い。
その目は、外に向けよ。
きゃつらは、必ず動く」
「御意」
頻発する国境の武力紛争と、南隣国の増長とも思われる態度、さらには王宮に勢力を張る反王太子派陣営。
三つの敵を想定する事に不安は無かったが、しかし
(おれは、あいつと争わずに済むのか)
ジークシルトは、別のところに思いを馳せていた。
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