富国、南方に在りて2

 青年の眉が、びりっと寄った。


「ランスフリートですか」

「他にあるか、当家に放蕩者などが」


 不快感を露骨に表わして、老人は反問に応じた。円卓の上では、指の動きが早まって来ている。


「今日こそ、あやつの据わらぬ性根を据えてくれると思ったのだが、自室におらんのだ。

 昼、陛下に対し奉り、王都帰着の挨拶を言上致すため、城へ伺候したきりだという」

「またですか」

「まただ。

 大方、何やら申す尼僧にでも会いに、その足で飛んで行きおったのであろう」


 その言葉を聞いた時、青年の、元から引き結ばれていた唇が一層厳しく絞られ、膝の上で揃えられていた両拳が震えた。

 屋敷の主が深く息をついた。


「わしとした事が、ぬかったわ。

 一月にも及ぶ、それも初めての長期旅行から帰ったばかりであれば、疲労困憊で女どころではなかろう、と高を括っておったのだ。

 こうと知れておれば、早くに人を遣わして、首に縄をかけてでも連れ帰らせたものを」

「……探させておられるのですか」


「一応はな。

 が、そう大々的にやるわけにもゆかぬ。当家の恥になる。

 時期も時期ゆえ、下手には騒げぬわ。


 まあ、城内から出て行けるはずも無し、いずれ連れ戻されて来るであろうと思っておるが。

 それにしても、えい、腹の立つ。いったい、あれは何を考えておるのだ、この大事の時期に。

 女に現を抜かしておれる立場ではなかろうが」


「よくよく申し聞かせたのですが」


 青年――ダディストリガ・バリアレオン・ティエトマールは、恥じ入ったように俯いた。

 彼は、自分の苦労が徒労に終わった事を悟ったのである。


 定例である国境巡回に、今回は従弟も同行した。むろん、本人の希望に依っての事ではなかった。

 一門最長老に厳命された上、ダディストリガに引き摺られるようにしての参加だった。


 身分違いの恋に没入してしまって、一年程が過ぎている従弟の頭を冷やさせるべく、二人の祖父たるチュリウスが年長の孫に彼を預けた。


 期待に応えるため、従弟に対して説き伏せようと試みた。朝な夕なに弊害を説き、行軍中でも翻意を求めて止まなかったものだ。


「おれは恋が悪いと言っているのではない。男が女を恋うるのは自然の摂理、当たり前の事だと思っている。

 のべつまくなし、というのがいかんのだ。立場というものがある。少しは自重しろ」


「妻を得た後で、その娘を側仕えとすれば良かろう。

 そうすれば、存分に可愛がれる。それまでの辛抱だ、なぜ待てぬ」


「身分差というものを考えた事があるか。これはどうにもならん。

 おまえがいかに恋しく思おうと、尼僧を正妻に迎えられるはずが、どうしてあるのだ。

 次の国王たる身が。


 おまえ一人ではない。その娘にとっても不幸を呼ぶだけだぞ、今の状態は。

 それとも、今さえ良ければばそれで良し、とでも思うのか」


 これら説得の言葉は、一月の日程中、語る当人をもうんざりさせるほど繰り返された。

 が。結果は、どうやら骨折り損だったらしい。


 王都へ帰着したその日のうちに、ランスフリートは背中に翼を生やして尼僧の元へ飛び去ってしまったという。


 しかも、この夜更けになってもまだ帰って来ない。考えられない従弟の非行である。

 困った男だ。ダディストリガは長嘆息を禁じ得ない。

 だが、まだ彼は、従弟を見放してはいなかった。


「あれは、根は聡明な男です。

 只今は熱病に冒されているようなもの。いずれ時が至れば、本道に立ち返ろうと存じます」


 従弟の為にそう言った。しかし、祖父には少しも慰められた様子は無かった。


「当たり前だ。知れておるわ、そのような事は。

 時が惜しいのだ、時が。のんびり、そのうち本道に立ち返るゆえ、などと構えておれる場合ではない。


 一刻も早く、あの不覚者の目を覚まさせねば、如何なる不測の事態が生じるやも判らぬであろうが。

 現に、王后懐妊の兆し有り、との怪情報が宮廷内に流れておるのだぞ。

 このところ留守をしていたおぬしは知るまいが」

「何ですと」


 ダディストリガは目を瞠った。驚愕に値する、老チュリウスの言葉であった。

「王后陛下、御懐妊。

 そんなばかな」


 驚愕のあまり、つい失言した。

 咎められなかった。聞いた方も同じ心境だったのである。


「まったく、有り得べからざる事態だ。

 むろん、今はまだ風聞にすぎぬ。あるいは、ただの流言やもしれぬ。


 だが、真偽の詮索は後の事だ。噂が流れておる事それ自体に、何らかの意味があると考えねばなるまい。

 おぬしはどう見る」


「……これはやはり、かの者どもの蠢動が、いよいよ本格化して来たという事でございましょうか。大父さま」

「うむ」


 孫の見解に、祖父は重々しく首肯した。


「かの者どもが、我が一門に何かと楯突きおるのは周知の事実よ。

 きゃつらが言うには、我がティエトマール一門が王国に蔓延(はびこ)り、この富める国を食いむしっておれば、ダリアスライスはいずれ貧国と成り果てる末路を辿らざるを得ぬ、だと。

 どうであろう、この不遜さは」


 語気鋭く、吐き捨てる。


「きゃつらこそ、国を損なわしめる愚者の群れであろうが。

 不遜にも、我が一門の栄華に妬心を起こし、事もあろうに我らに取って代わろうとさえ、目論んでおる。

 この流言は、きゃつらの浅はかな妬心より出でたる、愚かな企み事に相違ないのだ。

 とはいえ、流言の力も侮れぬ」


「左様にございますな。

 目的は、親王宣下を阻止する事。

 他には考えられませぬ」


 ダディストリガも緊張の面持ちを作っていた。

 長老が言う「大事の時期」とは、まさにこの事だったのである。



 ランスフリートは、王国の当代国王にとって、ただ一人の成人男子だった。

 しかしながら、正式な王太子ではない。


 実母が側室であり、当国最大門閥であるティエトマール家の出という、血統としては申し分ないものの、臣下の身分からは離れられなかった。


 事実上の世継ぎとはいえ、太子として立つ為にどうしても必要な親王号を授与される資格が無いのだ。

 大陸が統一帝国時代にあった当時からの慣習である。

 世が変わり、帝国は十三諸王国に分裂して、割拠時代を迎えている現在でも


「帝王は男子に限定。

 必ず親皇号を授与された、最年長の者を太子に立てるべし」


 との決まりは、表記が親王に変わっただけで、一国の例外もなく遵守されている。

 王位継承権のいたずらな分散を防ぐ為、どの国でも王家嫡子以外には親王号を授与しないのが通例なのであり、従って非嫡子である彼の立場は今のところ、王の実子にすぎない。


 では、どうすれば、ランスフリートは晴れて登極に至れるのか。

 一門最長老は、指を動かすのを止めた。


「その通り。

 我がダリアスライスの王室典範によれば、王家に嫡子が無い場合、三つの条件のいずれかが満ちた時、非嫡子が王太子たる地位を得るべし、と定められておる。

 おぬしも、かねてより承知であろう」


 厳かな口調で言う。ダディトリガは首肯した。


「はい、大父さま。

 一つは、王后陛下が御齢三十歳に達してもなお、御懐妊あそばされぬ場合。

 次は、王后陛下の御懐妊が無いままに、恐れ多くも、国王陛下が御崩御あそばされた場合。

 最後は、王后陛下が男児を御死産あそばされた場合。

 以上の三つでございます」


「うむ。

 今、それなる条件はいずれも満たされておらぬ。

 幸いにも陛下は御健勝におわし、反面で王后は未だ懐妊せず。


 言い換えれば、ランスフリートが王座に最も近い立場にあるという事実も、変わっておらぬ。

 だが。ここで、王后が子を成したとなれば」


「断然、由々しき事態となります」

「それよ。

 事の次第が明らかとなるには、出産を待たねばならぬ。

 我ら臣下が、王后に直接真偽を質すわけにはゆかんでな。

 この待つ間が問題よ」


「はい。

 待つ最中に暦が改まり、王后陛下が御齢三十歳を数えられたとしても、直ちにランスフリート立太子の運びには至りませぬ」


「きゃつらの狙いはそこだ、他に無い。

 今は晩秋、我らがガロア大陸の暦は、後せいぜい三月ばかりで改まる。

 即ち、王后は三十歳に到達してしまい、一方であやつが親王号授与の資格を得るのだ。


 そうなれば、きゃつらは万事休す。失脚を座視する程には、間抜けでもあるまい。

 王后懐妊の風聞を宮廷に流して、一時的にせよ足止めをかけたのであろう」

「大父さまの仰る通りと、それがしも存じます」


 ダディストリガは大きく頷いた。

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