8-1 通歴940年5月2日
《通歴940年5月2日》
「ん…」
ぼんやりと意識が浮き上がっていく。はっきりとしない視界には見慣れない天井が映っている。
「どこ…?」
鈍く痛む頭を抱えながら、ゆっくりと上体を起こした。肌触りのいい布の感触に、自分がいるのが寝台であると気づいた。
「お目覚めになられましたか」
「わっ!?」
どこからともなく姿を表した女性に驚きの声をあげる。
「お初にお目にかかります。ご当主様よりエステル様のお世話を任されています侍女のハナです」
「当主?ここはどこなんです?」
しかしその疑問に答えることなく、ハナは淡々とエステルの身なりを整えていく。
「あの…」
「よろしゅうございますよ」
仕事を完璧に終えたハナがエステルの言葉をさえぎって誰かを呼ぶ。
その声に呼応して姿を現した人物に、再び悲鳴のような驚きの声を上げた。
「シード侯爵家当主!?」
扉の向こうから出てきたのは四大貴族の頭目、シード侯爵家当主のオリアス・シードだった。
流石に政治に疎いエステルであっても、オリアスの顔くらいなら知っている。
「ようやく会えた。会いたかったよエステル」
「どうして…」
両手を広げ向かってくるオリアスに、脳内に疑問符が広がる。
そのような言葉をかけられる理由が分からない。そもそも、会いたかったというには、対面に至るまでの過程があまりにも手荒すぎる。
「私は君の伯父だ。生まれた時から、君のことは知っているよ」
伯父という単語に背筋がざわつく。
「私が、シードの血を引いているというのですか」
「そうだよ。私の妹が君の母親だ」
思いがけない事実に、言葉がすぐには出てこない。
自分の中を流れる血が急に、全く違う生物のもののように思えた。
「…意味が分かりません。それに、たとえおっしゃっていることが事実であったとしても、今の私はモルディアス家の人間です。それをわざわざこのような形で…。何が目的です?」
身内だと言われても、自分を無理矢理攫った相手をそう簡単に信じることはできない。
「私はただ、君を助けようと思っただけなんだ」
「助ける?」
「そうだ、このままでは君は不幸になる一方だ。だがまあ、本題に入る前に少し話をしよう。母親の話を聞きたくないかね?」
未だに状況を飲み込めていないエステルを置き去りに、オリアスは過去を語り始めた。
「妹はアシェル王の寵姫だった。とても美しい娘でね、誰よりも正妃にふさわしいと思われていたんだ。でも、彼女はニーベルクの登場によってその夢を絶たれた。しかし、正妃にはなれなかったが王は彼女を深く愛し、やがて彼女の腹には王の子が宿った」
「子ども…?しかしそれは」
「その子どもは殺されたんだ。ニーベルクによって、その存在ごとなかったことにされた」
公的に、アシェル王の子どもはユディト一人とされている。
もしも、その言葉が事実であるのなら大問題だ。
「その身を案じた父は、苦渋の決断をし、後宮を辞させた。愛しい人と引き離され、夢すらも奪われた妹は心を病んでしまってね。一人、部屋に籠っていることが多くなった」
オリアスの声にはわずかに怒気が混じっていた。それは、何に対する怒りなのだろうか。
「妹は父親の分からない子どもを妊娠し、その産褥で死んだ」
「その子どもが私なのですね」
「そうだ」
自分の出生の秘密を聞いても、さほどエステルは驚かなかった。
自分が養女であると知った時点で、自分の生まれが祝福されるものでなかったのだろうことは容易に想像できた。
現実に、エステルの存在はシード家にとって汚点でしかない。仮にも王の元寵姫が誰とも知れぬ男の子を妊娠するなど、外聞が悪すぎる。
「私を養女に出したのは、邪魔な子どもだから。世間体を気にしてのことでしょう?」
「それは違う」
オリアスはいとも簡単に否定して見せた。
「すべては君を思ってのことだ。両親のいない君にとって、権威の落ちつつあったこの家で生きるより、これから力を持つであろう他家に養子に出した方が幸せになれるだろうと思ったんだ」
詭弁だ。いくら綺麗な言葉を並べても、それが嘘であることは明らかだった。
この男の目には愛情と呼べる感情がまるで映っていない。あるのは隠しきれていない我欲にまみれた汚い感情だけ。
当時の情勢を考えれば、シード家がモルディアスに布石を敷こうとしたことは容易に推測できる。貴族社会において、女はいつでも政治の道具なのだ。
「だが、モルディアス家は私たちが願っていたほど、君を大切にしてはくれなかったようだ」
「そんなことありません!お爺様もお父様も、いつでも私を大切に慈しんでくれました」
いくら血の繋がりがあるからと言って、本当の家族と思えるのはモルディアスだ。だから、彼らを悪く言われるのは許せない。
「それは本当か?現に、モルディアス家からは実子であるルルが王に嫁ぎ、養女の君はただの一官吏。あまりにも不憫だ」
「官吏になることは私が望んだことです」
「そう君が思うように仕向けたのはモルディアスだ。貴族の娘は、後宮に入ってこそ幸せになれるというのに」
平然と押し付けられる価値観に、言葉が出ない。
「…私をどうするつもりですか」
「言っただろう。私たちは君を助けたい。君の不遇も今日で終わりだ」
ダンスに誘うようにオリアスは手を差し伸べた。
「帰ってきなさい、エステル。モルディアスは君を幸せにできない」
「お断りします」
差し出された手を払いのけ、きっぱりと断る。
半ば睨むようにして見れば、心底疲れたようなため息を吐いた。
「なんともまあ融通の利かない娘だ。モルディアスはどんな教育をしたのやら。そもそも娘を官吏にするなど恥知らずな」
「登試の受験資格は女性にも等しくあります」
「それが許されるのは庶民の話だ。貴族の娘には貴族の娘の役目がある」
時代遅れの感覚。エステルにとってはそうであっても、おそらくオリアスからしてみればこれは当然のことなのだろう。
かつてユディトも言っていた。貴族の中にはいまだ血統と伝統を重視するものが多くいると。モルディアスが新しいだけなのかもしれない。
エステルがなにか反論しようと口を開いた時、不意にオリアスの視線がずれた。
壁に掛けてある時計を見て、一瞬だけ焦ったような表情をする。
「おや、時間だ。話の途中だが、少し外させてもらうよ」
「え…!?」
緊迫した空気を置き去りにするように出ていこうとするオリアスに、ぎりぎりのところで疑問を投げつける。
「私をどうするつもりですか?」
「それは息子に聞いてくれ」
しかし、ただそれだけを言うと、さっそうと部屋を出て行ってしまった。
「何なの…?」
後に取り残されたのは、エステルの行き場のない疑問だけだった。
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