さかのぼる記憶

「おい……何を言ってるんだ」


 覚悟はしていたが、やはり来るべきものが来た。

 本来なら、三十年前に人間と和平を結んだロクサナが人肉など求めるわけがない。

 ロクサナの意識は、いまこの時を生きてはいないようだ。


「人肉はないのかと言うておるのだ。ないのか?」

「しっかりしろ、ロクサナ。戦争はもう終わったんだ。もう人間なんて食べる必要はない。アルバは豊かな土地なんだ。牛でも鶏でも豚でも、肉ならたっぷりと食べられる」


 魔王ロクサナの領地は土地が痩せていて作物もあまり育たず、獣に食べさせる飼料も不足しがちだった。このため、時には魔族は戦死した人間の肉を食べることもあったという。しかし、それははるか昔の話だと聞いていたのだが……


「何を言っておるのだ?今はまだロタリンギアとの戦いの最中ではないか。ん?おぬしはもしや……」


 ロクサナの視線がロランドゥスのうえを上下すると、彼女は目を丸くした。


「エイリーク!まさかおぬしがこんなところまでやってくるとはな」

「そいつは誰だ?しっかりしてくれ、俺はロランドゥスだ」

「そんな者の名は知らぬ。勇士エイリークよ、この城までたどり着いたことは褒めてやろう。しかしあいにくと私は腹が空いておってな。ちょうどよい、おぬしを私の昼餉としてやろう」


 色艶の良い唇を舐めると、ロクサナは艶然と微笑んだ。

 明らかにこちらを捕食対象と捉えている。


(エイリーク……一体誰なんだ)


 ロランドゥスの記憶にその名は刻まれていない。

 アルバ王国の歴代勇者の名ではないことは確かだ。

 事実、ロクサナは勇者ではなく勇士エイリークと呼んだ。


「勇士の肉なら、食らうことで我が力とすることもできよう」


 ロクサナはベッドから身を起こそうとするが、下半身にうまく力が入らず立ち上がることができない。


「ぐっ……エイリークよ、私に何をした?」

「何もしちゃいない。今のお前は老いていて、自力で立ち上がることができないんだ」

「人間の分際で私をたぶらかすか。勇士とは緊縛の術まで使いこなすのか?」

「そうじゃない。もうお前は身体の自由がきかないんだ」

「この私を見えざる糸で縛るとはなかなかのものじゃ。しかしその程度で勝ったつもりになられては困る」


 ロクサナの全身を青白い光が包み、ただならぬ殺気が発せられる。


「どれ、こんがりと焼き上げてくれようか」


 魔王の頭の周囲に三つの青白い炎の塊が浮かび上がった。

 それが自分に飛んで来ることを予測し、ロランドゥスは素早くベッドから離れ、部屋の中央まで後ずさった。


「地獄の業火よ、その力もてかの者を灼き尽くせ」


 そう言うやいなや、青白い炎が三方向からロランドゥス目がけて飛んできた。

 このままでは避けようがない──と一瞬で悟ったロランドゥスは、静かに目を閉じた。

 凄まじい衝撃音が響き、焦げ臭い匂いがあたりに満ちる。

 しかし、もうもうと立ち上る煙の中から現れたロランドゥスの身体には、傷一つついていなかった。


「それは……聖闘気?」


 ロランドゥスの全身から、まばゆい黄金の光が立ちのぼっていた。

 何度も目をしばたくロクサナの身体からは、すでに殺気が消えている。


「おぬしなのか、ロラン」

「そうだ、ロランドゥスだ。エイリークなどではない」


 ゆっくりと諭すように言うと、ロランドゥスはベッドに歩み寄った。


「歴代勇者の中でも、その闘気オーラをまとえるほどに己を鍛えたのはおぬしだけじゃったな」

「ああ、そうだ。そして、お前の介護役を引き受けられるのも俺だけだ」

「なるほど、その力ある限り、私はおぬしを傷つけられぬからな」


 ロクサナは目を閉じると、安堵の笑みをうかべた。

 しかし、その言葉は本当は正しくない。

 聖闘気の力は一日一度しか発動できないからだ。


「エイリークというのは誰なんだ」


 ロクサナが落ち着いたのを見てとり、ロランドゥスはそう問いを向けてみた。


「ロタリンギア帝国時代の勇士じゃ。あの頃は神殿の加護も受けていない者が、単身我が領土に乗り込んで来たものよ」

「アルバ王国が興る前の話か。それなら、少なくとも800年以上前の男ということになるな」

「私の記憶が確かならば、私がエイリークと刃を交えたのはおよそ千年前のことじゃ。あの頃は勇者などというものはまだ影も形もなかったのう」


 遠い昔を懐かしむように、ロクサナは目を細めた。

 目の前の魔王は、歴史の生き証人なのだ。


「その話、本当ならアルスターの歴史家がこぞって聞きたがるだろうな」

「いや、奴らはどうにも頭が固くてな。魔族の証言など当てにならぬというのじゃ」

「千年以上も生きているお前の話を聞けば、ロタリンギア時代の年代記だって書けるだろうに」

「アルトリス神殿側の事情もあるのだろうさ。魔族の証言など採用しては、奴らに都合の悪いこともあるのじゃろう」

「ロタリンギアの勇士とやらの中には、お前にボロ負けしたものもいるのか?」

「そうじゃな、皆がその名のとおり勇敢だったというわけではない」


 ロクサナは言葉を濁したが、中にはかなりの醜態を晒したものもいたに違いない。

 アルバ王国の歴代勇者の中にすら、魔王との決戦を前に逃亡した者がいるのだ。


「あやつらに比べればおぬしは立派なものじゃ。マールヴァル城にまで攻め込んだのもおぬしが初めてなら、私を前に一歩もひかぬ戦いができたのもおぬしだけじゃ」

「あれは仲間たちが俺を支えてくれたからこそできたことだ。俺一人の力では、しょせん何も成し得ない」

「それ、そういうところよ」


 ロクサナは真顔でまっすぐにロランドゥスを見すえた。


「おぬしは強いだけでなく、周りの者にこの人を支えなければ、という気持ちにさせる力がある。士は己を知る者の為に死す、だったかの。これはミツバから聞いた言葉なんじゃが」


 ロランドゥスの胸がかすかに疼いた。

 メルクリウスがロクサナに禁呪を放って死んだのも、この自分のために命をかけると思ったからなのだろうか。


「おぬしの言うとおり、人一人にできることなどたかが知れておる。人を束ねることができてこそ、真の勇者と言うべきであろうな」

「そんなに褒めても何も出ないぞ」

「少しは素直に喜ばんか。可愛げのないやつじゃのう」


 肩をすくめるロクサナを前に、ロランドゥスは少しうつむいた。

 この魔王と戦った時はともかく、今の自分にはもう従ってくれる仲間はいないのだ。


「ロランよ、おぬし、今はそばに誰もおらぬと自分を卑下したりしておらぬか?」


 この鋭い魔王にはすべてお見通しだった。

 ロランドゥスは食器を台車の上に載せ、次の言葉を待つ。


「たしかに、ランドルフやイリーナに比べればおぬしの今の地位は顕職とはいえぬ。だが、この仕事ほど危険を伴うものもまたとあるまい。私がもし力の使い所を誤れば、そばに寄るものを殺めかねないのだからな」

「そう言えば以前、介護士のそばに雷を落としたと言っていたな」

「ああ、そのようなこともあったな。あやつは気も利かぬし、何よりアンダルス大戦の頃の話ができぬのが不満でな」


 ミツバが言っていたとおり、ロクサナは怒ると危険な魔法を使うことがある。

 それはさっきの体験で身に沁みたとおりだ。

 しかし、ロランドゥスの心の隅にはある疑問が頭をもたげていた。


「ロクサナ、お前は本当にその介護士を罰したかったのか?」

「なんじゃ、私を疑っておるのか」

「将来いつ暴走するかわからないから、自分に対抗できない人間を身辺から遠ざけたかったんじゃないのか」

「ふふ、それは買いかぶりというものじゃ。私とて機嫌の悪いときくらいはある」


(こいつ、柄にもなく照れているのか)


 ロクサナは表情は変えていない。

 だが、介護士に雷を当てなかったのはそれが警告のつもりだったからではないか、という考えが胸にわだかまっていた。


「──今日は、ひさびさにおぬしの勇姿を見ることができて嬉しかったぞ」


 食器を載せた台車を部屋の外に運ぼうとするロランドゥスの背中にかかった声は、いつになく弾んでいるように聴こえた。

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