魔王のお食事

「まったく、ロランドゥス様がお風呂場でお倒れになったときはどうすればいいのかと思いましたよ。勇者様の代わりは誰にもできないんですから、本当に気をつけてくださいね」


 浴室でロクサナに電撃緊縛ライトニングバインドを食らった翌日の朝早く、ミツバはロランドゥスの私室を訪れていた。


「しかし、あの一撃でいろいろなことがわかったぞ。まず、ロクサナの魔力は全く衰えていない。そして、魔力を制御できるだけの理性も残っている」


 ロランドゥスは鏡を見ながら、ていねいに白髪を櫛で撫でつけた。


「ということは、ロクサナ様はちゃんと加減をしていたということですか?」

「おそらくはな。少なくとも昨日は、見境もなくわしを攻撃したわけではない」

「いったい、何をしたらそんな目にあってしまうんですか?」

「角に触ったら怒られてしまったのだ。奴のことはそれなりに知っているつもりだったが、魔族はどこに逆鱗があるのかわからんな」

「なるほど、魔王の角を触ってはいけない……と」


 ミツバは手にした羽ペンをインク壺に浸し、紙片にメモを取った。


「それ以外には、なにか変わった点は見られませんでしたか?」

「特にこれといったことは何もない。終始こちらをからかっている様子は三十年前とまったく変わらんな」

「やはり、ロランドゥス様に来ていただいたのは正解だったようですね。ロクサナ様もかつての好敵手を前に、気分が浮き立っているんでしょう」

「浮き立っているというのか、調子に乗っているというのか……いずれにせよ、下半身がうまく動かない点以外は、いたって正常に思える」

「それはようございました。──でも、ここからが肝心です」


 ミツバは柔らかな笑みを消し、表情を引き締めた。


「おそらく、そろそろロクサナ様もロランドゥス様に再開した刺激が薄れてくる頃でしょう。ロランドゥス様がそばにいる日常に慣れれば、しだいに彼女もわがままになってくるかもしれません」

「ヤポンの言葉では認知症、といったか。その症状も出てくるかもしれないということだな」

「はい。ロクサナ様は時おり食事を食べたことを忘れたり、周囲の者に怒鳴ったりする程度ですが、いずれ自分を抑えきれなくなって介護士に暴力を振るったりすることもあるかもしれません。昨日は魔力を制御できていたとのことですが、それもできなくなる可能性もあるんです」


 ロランドゥスはごくりと唾を飲み込んだ。

 かつて鏖殺おうさつ魔王の異名をとったロクサナが全力で魔力を開放すれば、自分だって無事でいられるかどうかわからない。


「そうなる前に、ロランドゥス様は対処しなければいけないんです。おわかりですね」

「ああ、わかっておる」


 苦い気分がロランドゥスの胸の中に満ちた。

 目の前の娘は、いざという時はロクサナを殺せ、と言っているのだ。


「もとはと言えば、わしがロクサナを生かしておいたから起きた事態だ。それなら、このわしが最後まで奴のそばに居てやる」


 意を決して言うと、ようやくミツバは表情をやわらげた。





 ◇





「遅かったではないか。まさかあのミツバとかいう娘と睦み合っていたのではあるまいな」


 部屋に入るなり、ベッドの中のロクサナはそう不満を漏らした。

 ミツバの言っていたとおり、やはりロランドゥスのいる日常に慣れ、少し気が緩んできているのかもしれない。


「俺がそんなに見境のない男に見えるのか?」

「そうではないと思いたいところだが、おぬしはいきなりこの角に触るような男じゃからなあ」


 ロクサナは形の良い眉を寄せた。

 この魔王は案外根に持つところがあるらしい。


「悪かったよ。もう二度とあんなことはしない」

「わかればよい。おぬしにももう少し乙女心というものを学んでもらわなければな」


 ロクサナの唇が弧を描いた。この小悪魔、いや大悪魔め、と思いつつ、ロランドゥスはそれを口には出さなかった。


「ところで、そろそろ食事を摂ってくれないか。もう一週間も何も食べてないそうじゃないか」


 ロランドゥスは食事の載った台車を枕元に近づけた。

 食器の上には豆のスープと、やわらかく煮込んだ牛肉が並んでいる。


「そう言われても、どうも食欲がわかなくてのう」


 ロクサナの顔は、少し面やつれしているようにみえる。

 ミツバからは、ロクサナは一週間から10日に一度程度しか食事を摂らないと聞いている。魔王は人間ほど食べなくても生きられるらしいが、それでもミツバの決めた食事の日にはきちんと食べてもらわないと困る。


「全部食わなくてもいいから、食える分だけは食え。食わなければ余計に弱ってしまう」

「なんだか気が進まぬのう。それを食べたら、私の老いが止まる保証でもあるのか?」

「食わなければさらに老いてしまうと言ってるんだ。お願いだから食べてくれ」

「そう言われてもだな……うむ、そうじゃ」


 ぽんと胸の前で手を打つと、ロクサナは目を輝かせた。


「どうしても食べてほしいなら、口移しで食べさせておくれ」

「な、何を言ってる。そんなことはできんぞ」

「なぜじゃ?わしはもう手も動かぬし、おぬしが食べさせてくれるしかないではないか」

「手が動かないなら、俺が口元まで食事を運んでやる。それでいいだろう。というか、お前昨日は自分で身体を洗えていただろうが」

「昨日は魔法を使ってしまったゆえ、消耗してしまったのじゃ」

「本当か?」

「おぬしが私を信じてくれぬのなら、誰が私を信じてくれるのだ」


 長いまつ毛の下の瞳を潤ませつつ、ロクサナはじっとロランドゥスを見つめる。

 この見た目は可憐な少女の哀願をどうして断れようか──という思いを振り切り、ロランドゥスは素早くロクサナの目の前に拳を突き出した。


「……良い突きじゃな。その歳になっても鍛錬は怠っておらぬのか」


 ロクサナは右の掌で、しっかりとロランドゥスの拳を受け止めていた。

 彼女が口でどう言っていても、魔族の優れた動体視力は反射的に攻撃を防ぐよう身体を動かしてしまう。

 

「お前は自分で思っているほど弱ってはいない。さあ、食べろ」

「ふふ、今回は私の負けじゃ。おとなしく自分で食べるとしようか」


 少し寂しそうに笑うと、ロクサナはベッドの食事台に並べられたスープに手を伸ばした。スプーンで一口すくうと、端正な顔に少し赤みがさした。


「どうだ、美味いか」

「まあ、人間としては上出来じゃな。少々肉に歯ごたえがなさすぎる気がするが」


 ゆっくりと牛肉を咀嚼しつつ、ロクサナは顔をほころばせた。


「魔族というのは、もっと硬い肉が好みなのか?」

「そうじゃな、普通はもっと噛みごたえのあるものを好んでおる」

「これはお前が消化しやすいように作ってあるから、そのへんは我慢してくれ」

「まあ、仕方がないか。うむ、味付けは悪くない」


 不満を並べつつも、ロクサナはまんざらでもなさそうな表情だ。


「ところでおぬし、腹は空いておらぬか?」

「いや、そういうことはないが」

「本当か?何なら私が口移しで食べさせてやってもよいぞ」

「だからなんでそんなに口移しにこだわるんだ」

「おぬしこそ、なぜそんなに口移しを嫌がるのじゃ」

「俺が介護されてたんじゃ意味がないだろうが。無駄口を叩かずにさっさと食べるんだ」

「そんなに照れずともよいであろうに」


 悪戯っぽく微笑むロクサナを見ていると、また主導権を取り返すために角に触ってやろうかという気分になってくる。

 しかし報復を恐れ、ロランドゥスはそのたくらみを実行には移さなかった。


「のう、おかずが一品足りなくはないか?」


 フォークの手を止めると、ロクサナは急にそう問いかけてきた。

 低く抑えた声には、咎めるような響きがある。


昼餉ひるげには人間の肉を持てと、いつも言っているではないか」


 ロランドゥスに向けられた魔王の瞳孔は、怒りに大きく見開かれていた。

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