魔王の弱点

「これ、いつまで背中を洗っておるのじゃ。しっかり他も洗わぬか」


 ロクサナの背の紋様を凝視するうちに、ついロランドゥスは背中ばかりを洗い続けてしまっていた。


「あ、ああ、すまん」


 ミツバからは人間が汗をかきやすい場所は聞いてはいる。

 魔族の身体も人間と同じとは限らないが、ロランドゥスはまず膝の裏を洗うことにした。


「ほう、やはりおぬしは下半身から攻めるのが好きなのじゃな」

「だからそういうことではないと言ってるだろうが」

「では背中をずっと眺めていたいのか」

「それも違う!そもそもわしはお前の介助をしているのであって、睦み合っているのではないんだからな」

「本当にその気がないのか?私はこんなに昂ぶっておるというのに」


 後ろを振り向いたロクサナの頬がほんのりと上気していたが、もうこの魔王の言うことなどいちいち真に受けてはいられない。

 ロランドゥスは努めて何も考えず、淡々と職務に励むことにした。


「腕ならば動くだろう。前は自分で洗ってくれ」

「いやじゃ。おぬしの手で洗って欲しい」

「何が嫌だ。できることを自分でやらなければ、それだけ早く衰えてしまうぞ」


 ロクサナは何も答えず、無言で右手を後ろに差し出して掌を開閉させたので、ロランドゥスは石鹸のついた布を手渡した。


「まったく、わしがここに来なければお前はどうやって生きていくつもりだったんだ」

「のうロラン、そのわし、というのはやめてくれんか?」


 ロクサナの声に、わずかに哀愁が混じった。


「なぜだ?これでももう孫がいるんだぞ」

「年寄りの言葉を使われると、なんだか私まで老いを強く意識してしまうのじゃ。いや、年を取っているのは事実なのじゃが、こんな経験は初めてなのでな」


 ロランドゥスの胃の腑のあたりが重くなった。

 ロクサナは本来不老不死の存在なのだ。

 本来死なないはずの魔王が老いを感じるというのは、人間が老いるのとは比べ物にならないほどの苦痛なのかもしれない。

 ロランドゥスも介護士であるからには、ロクサナの精神の負担を増やしてはいけないのだ。


「──ならば俺、でいいか」

「うむ、そのほうがおぬしらしくて良い。三十年前を思い出すのう」


 人には年寄りの言葉を使うなと言いつつ、ロクサナはそんな年寄り臭いことを言った。しかし、魔王を人間と同じ尺度で測ってはいけない。

 悠久の時を生きる魔王にとって、三十年などまばたきする程度の時間にすぎないのかもしれないのだ。


「奇岩城ではずいぶん苦労したぞ。メテルスの死霊軍を追い払うだけでイリーナはほとんど力を使い果たしてしまったからな。おかげで俺達は治癒術抜きでお前と戦う羽目になってしまった」

「そんな名前で呼ぶでない。あの城にはマールヴァルという立派な名前があるのじゃ」

「どっちにせよ同じことだ。あの戦いで、俺は大切な仲間を失ったんだからな」

「あの大賢者のこと、おぬしはまだ悔いておるのか?」


 ロランドゥスは目を閉じ、しばしの間沈黙した。


「いや、仮にイリーナが魔力を使い果たしていなくても、結果は同じだっただろう。メルクリウスが最後の呪文の詠唱を終えたとき、あいつはすでに事切れていた。あれは禁呪だったんだろうな」

「命と引き換えに発動する呪文か」

「ああ、そうだ。もっとも、それすらお前には通用しなかったわけだが」


 ロランドゥスが目を開けると、ロクサナは念入りに脇の下を洗っていた。


鏖殺おうさつ魔王などと言われたお前を相手に犠牲が一人だけですんだのは、むしろ幸運だったのかもしれん。イリーナもランドルフもムゲンも、皆生きて帰れたんだからな」

「おぬしの仲間たちは、今どうしているのだ」

「イリーナはアルトリス神殿で介護士の育成に励んでいる。ムゲンは修行の旅に出ると言ってこの国を出たが、行方は知れない。ランドルフは今や建設大臣にまで上り詰めた。俺のパーティーの中では一番の出世頭だ」

「あれは機を見るに敏な男だったからのう。あの戦士がオークやミノタウロスを建設作業員に雇ってくれたから、魔族も人の役に立つと証明できたのじゃな」


 ロクサナは感慨深げな声を出した。

 人間と魔族の戦争が終わったとき、復興需要を見越したランドルフはさっそく屈強な魔族を集めて破壊された城壁や家屋の修復に乗り出し、しだいに建設事業を拡大していった。

 魔族をも自在に使いこなす手腕はやがて国王の目にも留まり、やがてランドルフはアルバ王国の再建を担う人材としてロベール2世からも出資を受けるようになった。国王が掲げてきた人間と魔族の宥和ゆうわ政策は、ランドルフの建設事業に影響を受けているともいわれている。


「……おぬしも世が世なら、将軍くらいの地位にはつけていたのかもしれんがな」


 ロクサナの声が湿り気を帯びた。


「よしてくれ。しょせん宮仕えなんて俺の性には合わない。それに……」

「それに?」

「俺が将軍になれるほど戦争の絶えない世の中より、平和な世のほうがいいに決まっているさ」


 過去にアルトリス神殿の加護を受けて勇者となったものの中には、軍人として頭角を現したものもいる。

 魔王を討伐した功績を持つ勇者は味方の士気を鼓舞するうえでは大いに役立つ存在だが、隣国のクロスタニア共和国がアルバ王国の同盟国となってからは軍人が活躍する機会も絶えてなくなっていた。


「おぬし、私の介護士で本当に満足なのか」

「お前の介護役は俺でなければ務まらないんだろう?」

「それはそうじゃが、おぬしが本当に納得しているのかと思ってな」

「三十年前、お前を生かすと決めたのはこの俺だ。なら、お前の世話は最後までこの俺がしてやるしかないだろうさ」

「ふふ、泣かせるセリフを吐くのう。三十年経って、今度は私の心を奪いにきたか」

「そういうつもりで言ったんじゃない」

「そこは嘘でもそうだと言っておけばいいではないか。本当につまらぬ男じゃ」

 

 つまらなくていい、どの道この心にシルヴィア以外の女が入り込む隙間などないのだ──と思っていると、急にロクサナが後ろ手にロランドゥスの手首をつかみ、胸に押し当てた。

 思いのほか豊かな膨らみを手のひらに感じ、ロランドゥスの心臓が跳ねた。


「な、何をしている。前は自分で洗えと言っただろうが」


 慌てて抗議すると、ロクサナは少しうつむき、


「この心の臓はあと何回、打つことができるかのう?」


 そう低くつぶやいた。掌を通じ、ロクサナのどこか頼りない鼓動が伝わってくる。


「くだらんことを考えるな。どうせお前なんかより、この俺のほうが早くくたばるに決まっている。お前みたいに弱気なことを言う奴に限って長生きするんだ。気が弱い奴ほど死なぬように死なぬようにと細心の注意を払うからな。だから心配ない。勇者であるこの俺が殺しても死なないようなお前がそう簡単に死ぬものか。もし死にたくてもこの俺が死なせんぞ。なんなら俺がお前よりも先に呆けてやる。そうなったらお前も俺が心配で死ねなくなるだろう」


 胸の奥から突き上げてくる感情をせき止めるように、ロランドゥスは一気にまくし立てた。


「ふっ……はっ、あはははは」


 こらえきれずに、ロクサナは腹を抑えつつ笑った。


「おぬしは本当にわかりやすい男じゃのう。私が死を恐れていると、本気で思っているのか?」

「違うのか?」

「これでも私は魔王ぞ。魔族の王たる私に、恐怖心などあるはずもあるまい」


 背中越しに嘲笑を浴びせられ、ロランドゥスの頭にさっと血がのぼった。


「お前な……自分の死をダシにして人をもてあそぶなんて、悪魔の所業だぞ」

「だからもともと魔王ではないか」

「いったいどこからそんな悪魔のような知恵が浮かぶ?この角からか」

「ひゃっ」


 きらびやかな金髪から横に伸びる黒い角をロランドゥスがつかむと、ロクサナは急に可愛らしい悲鳴をあげた。


「な、何をする。いきなり乙女の大事なところに触れるやつがあるか」

「なにが乙女だ。悪魔の分際で」

「ここはまだ親にさえ触らせたことがないというのに……」


 ロクサナが細い肩を小刻みに震わせる。

 しかし、すでに何度もからかわれているロランドゥスはまともに相手にする気はなかった。


「裸を見られるのは恥ずかしくないのに、角に触られる程度のことが恥ずかしいわけがあるか。まったく、お前の芝居にはもう付き合いきれん」

「や、やめよ!」


 ロランドゥスが両方の角を握ると、ロクサナは何度も身をよじってその手を振りほどこうとした。しかしその程度のことでロランドゥスの握力は揺るがない。


「ええい無礼者め、さっさと離さぬか!」


 ロクサナが叫ぶと、ロランドゥスの手に痺れが走った。

 慌てて手を離すと、青白い電光が弾けつつ、両の角のまわりを踊っている。


「ロランよ、私の秘所にはじめて触れた責任は取ってもらうぞ」


 死刑宣告を言い渡すかのように厳かな声で言うと、電光が角を離れてロランドゥスの身体にまとわりついた。


電撃緊縛ライトニングバインド・憤怒亢進」


 無情に言い放つと、全身に鋭い痛みが走り、ロランドゥスの全身が痙攣した。


(──魔力はまだまだ健在だ。三十年前と比べてもなんら遜色はない)


 激痛に耐えながら魔王の力量を測り、その力が衰えていないことに安心すると、ロランドゥスの意識は闇に沈んだ。

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