永眠の蓮
音が消えた。
気配の一切が掻き消えて、白銀の王国はまるで雪が降り積もったかのような静けさと寒気で覆われる。
バリスタン・
皆が、寝静まっている。
この混乱と騒ぎの中、非難しようとしていた人々も家の中に隠れようとしていた人も皆、静かに寝息を立てて眠っている。
しかも周囲だけではない。
国中が――王国全体が、深い眠りへと誘われて、寝静まっている。
恐怖と不安の中にあった人々が、とても眠れるはずなどなかった人々が、場所も選ばずに眠っている。
アルフエ自身、眠くて意識を保つのが難しい。
「アルフエ様、今は眠っていてください。ピノーの解毒は、少し荒療治になりますので。蓮様、お願いします」
ガックリと、
ぶつかった衝撃もそうだろうが、ユリが気を失っている原因を、ルンウィスフェルノは理解していた。
「蓮。とうとう力を解放したのね」
蓮は構える。
全身から
同時、蓮の周囲空間が大きく湾曲し、蓮の姿が皆からは歪んで見えた。
「そう……本気で私を倒す気なのね。ルンルンルン。いいわ、来なさい」
蓮の瞳が、真白の光を放つ。
同時、ルンは上から見えない力で押さえ込まれた。
重力負荷である。
通常の数倍――十数倍の重力がルンを押さえつける。
それでも膝をつかないルンの強さは、強靭と言わざるを得ない。
だが蓮が手を前に出して手指揮し始めるとさらに重力が強まり、ルンのいる場所だけが深く沈みこんでついにルンは片膝をつく。
ルンはとっさにフラフープを出し、腕を突っ込んで襲おうとするが、蓮が咄嗟に能力を発揮。
自らを中心とした引力でルンを引き寄せ、漆黒に輝く
この攻撃で初めて、ルンはダメージリアクションを見せる。
腹に拳が減り込むと吐瀉物を撒き散らしながら吹き飛ばされ、召喚した羊のぬいぐるみに受け止められると苦悶の表情で睨んだ。
すぐさま、反撃に映る。
フラフープを大量に召喚すると周囲にバラ撒き、空中で固定。
自らフラフープの中に飛び込んで、フラフープからフラフープへと転移を繰り返して加速していく。
そのまま蓮へと突撃を繰り返し、蹴って殴ってを繰り返しながら止まることなく転移を繰り返して、縦横無尽、神出鬼没の攻撃を繰り返した。
次第に加速された速度に目がついて行けなくなって、ついにすべてのフラフープからルンが飛び出したかのように錯覚する。
「“
蓮が反応し切れない速度で、あらゆる方向から殴る、蹴る。
だが次第に目が慣れた蓮はルンの腕を捕まえると振り回し、重力加速度も加えて凄まじい勢いで叩きつけた。
ルンの体が地中深く埋まり、暗闇の中へと落ちていく。
だがフラフープで転移できるルンに距離などあるようでないもので、すぐさまフラフープを使って飛び込んできたが、蓮は彼女の手段を理解していた。
不意打ちを躱し、再び斥力の塊を叩きつけて殴り飛ばす。
地面に足を減り込ませる形で停止したルンは、連続で殴られている腹を押さえて嗚咽を繰り返す。
「“
口を押さえた手の隙間から、嘔吐した血が溢れ出る。
蓮との攻防で唯一まともに喰らった一撃が、ルンを一気に追い詰めていた。
遊撃のルンウィスフェルノと恐れられた怪物を相手に、一時は劣勢に立たされたものの、今や優勢を取り戻しつつある蓮。
その戦いの様を、
事細かに、記録していく。
「英雄殿の実力、改めねばなりますまい。何がきっかけかはわかりませんが、最初からこれほどならば加勢など必要なかった。一撃も与えられずに引いた私など、意味はなかったのでしょうか」
『そんなことはないぞ、銑十郎』
彼の言葉に応える相手は、そこにはいない。
通信機越しに語りかけ、銑十郎に応えるのは、一番隊隊長の
『おまえが時間を稼いでいたお陰で、その英雄とやらは立て直せたのだろう。時間稼ぎと言ってしまえば確かに聞こえは悪いが、しかし重要な役割であることに間違いはないはずだ』
「ありがとうございます、隊長。そういえば、そちらの敵はどうされたのです?」
『追い詰めたのだがなぁ。途中でよくわからん奴に邪魔され、逃がしてしまった』
「あなたのことです。どうせ適当に遊んでて、取り逃したのでしょう? 国王陛下への言い訳は考えておいてくださいね」
『ハハハ、厳しいなぁ銑十郎は』
と、蓮とルンに動きがあった。
ルンが自ら召喚したテディベアに、自分の体を揉ませている。
粘土のようにこねくり回されたルンの体は若干太くなり、筋肉質に変形した。
若干背も伸びて、腕と脚も長くなる。
「“
見るからに、肉体強化が施されている。
ルンは体勢を低くして、クラウチングスタートの構え。
そして肉薄。
女の力とは思えない怪力によるラリアットが、蓮の胸部を捉える。
肋骨も臓器もすべて叩き潰されそうになりながら、すでに吐血するだけの血もない蓮は何も吐き出せず、体の中に溜まっている空気のみを吐き出す。
そのまま殴り飛ばされた蓮へとフラフープを投げつけ、蓮がフラフープを通ってルンの頭上へと転移させられる。
ルンはすかさず空高く蹴り飛ばして、合掌。
小さな箱を召喚し、開けると中から大量のパズルピースが飛び出してきて、宙を舞う蓮を覆うように球体になる。
自由落下してくる球体目掛けて、ルンは力を溜める。
球体諸共、蓮を殴り飛ばす気だ。
「そのパズルからは逃げられないって、蓮知ってるよねぇ。ルンルルンっ」
蓮は暗闇の中にいた。
目を開けても瞑っても、漆黒の世界に変わりはない。
手を伸ばして手探りで状況を把握しようとする。
指先が目の前の何かに触れると何かがボロボロと崩れ落ちて、鮮やかな青空の下で若草の生い茂る草原が広がる。
その向こうには、女性が一人立っていた。
「蓮」
彼女が誰か、蓮はよく知っていた。
むしろ自分がこそ、彼女のことを理解できているとさえ自負していた。
どれだけの時間が経とうとも、どれだけの間離れていようとも、女性は蓮にとって、とても大事な人であることに変わりない。
そんな人が、自分に優しく声を掛けてくる。
「蓮、おかえり。蓮が大好きなフレンチトースト、あるよ。おいで」
すぅ、っと流れる一筋の涙。
女性の優しく温かな笑顔に対して、蓮は静かに涙する。
ボロボロと、壊れたかのように涙を落とす蓮だったが、彼女が差し出してくれる手をそっと、下ろさせた。
すると女性は小首を傾げて、また寂しそうに笑う。
蓮に背を向けると一人、彼女は風の吹くままに歩き去ってしまった。
蓮は静かに涙を流す。
その涙が凄まじい熱量に燃えて枯れ果てたとき、蓮の目の前に広がっている光景は広大な草原などではなく、狭く閉ざされた、地下牢と言っても過言ではない薄暗い部屋だった。
全体的に埃と
その中で、女性は椅子に座っていた。
何をするでもなく、壁の一点を見つめたままただ座るだけの女性は、蓮に気付くと、壊れた人形のようにぎこちなく、若干の狂気すら感じさせる笑みを浮かべる。
草原の中で見た笑みを見てしまうと、とても同じ人が浮かべた笑みとはとても思えない。
「蓮、おかえり……遅かった、のね。待ってて今……フレンチトースト、を……」
涙を流し続ける蓮の目の前で、中身が破裂したのか、突如溢れる血涙を流す女性。
血に濡れて、血に塗れていく彼女の姿を見せられ続ける蓮は、声音を放てない喉を懸命に震わせて、唇をハッキリと動かした。
おかあさん。
「“
蓮を覆う球体となっていたパズルを貫き、蓮目掛けて拳を叩きつける。
ルンの拳は確実に蓮を捉え、蓮はもはや残り少ない血を噴き出した。
「お母さんには会えた? 蓮……」
自分を殴りつけている腕を捕まえる。
すぐさま離れようとルンはさらに拳を振るうが、それも受け止められる。
脚は自由だが、どれだけ蹴ってもビクともしない。
「ちょっと! 離しなさい!」
ひたすら蓮を蹴り続ける。
だが蓮はビクともしない。
先の一撃で額が切れて、血を流す蓮は絶えずルンを睨んでいた。
逃がさない。
そして、許さない。
瞳は口ほどに、彼の心を語る。
「この、離しなさいって言ってるでしょう?!」
召喚を行なおうにも、両腕を封じられて使えない。
蹴り続けるしか抵抗の術がなく、ルンは休むことなく蹴り続ける。
その抵抗の甲斐あって、蓮は離した。
だが直前に、ルンの両腕をへし折った。
凄まじい重力に両腕を叩き潰されて、ルンは悲鳴を上げる。
「っ! この偽善者! そんなに他人が大事?! 敵であるこの国が大事?! あんたはお父様以上の大馬鹿者よ!」
両腕が封じられると、能力が一切使えない。
遊撃のルンウィスフェルノ、最大にして唯一ともいえる弱点だ。
怒りに燃えるルンは、怒りに任せて声を荒げ、言葉で責める。
「それともこの国に女でもできた?! さてはそこの女?! ついに肉欲も憶えたってわけ。気持ち良すぎて犯し足りないって――!?」
ルンはとうとう、責める言葉すら失った。
怒りに燃えているのは、蓮もまた同じだった。
静かに燃えていた怒りの炎が頂点に達して、蓮の
巨大なエネルギーが一転に集束され、小さな塊となって蓮の手に宿る。
その手に宿った凄まじい引力が、周囲の塵芥を集めて分子レベルにまで分解していく。
ルンの体も徐々に引き寄せられ、踏ん張る抵抗も許さない。
「蓮、あんた憶えておきなさいよ……! 私達だって今が本気じゃない! 真の力を解放して、必ずあんたを殺してやるわ! その女も、みんな、みんなまとめてね! 女の執念が恐ろしいってこと、必ず見せてやるわ!!!」
急激に引き寄せられる。
蓮の拳がルンを捉えると引力は途端に斥力へと反転し、王国の外壁へと叩き込んだ。
全身全霊、渾身の“
「まさかルンを倒すなんてね、蓮」
「……! 蓮、様」
アルフエの解毒を終えたピノーは短い悲鳴を上げる。
そこにはルンなど遠く及ばない、本物の怪物がいたからだ。
「蓮、強くなったわね」
本物の怪物がそこにいた。
五人姉弟の長女、
五人の中でも最強の姉。
「国一つの規模で全員を眠らせるだなんて、今までならできなかったでしょう? 本当に、成長したわね。まぁそれでも、限定解除をしてないルンを相手に善戦するようじゃ、まだまだだけれど」
蘭の率直かつ厳しい意見は、ルンの罵声よりも蓮に響いた。
そちらの方がよっぽど現実味があって、実感すればするほど響く暴力に感じてしまって仕方なかったのだ。
だが蘭は直後、優しく蓮を抱擁した。
あまりにも唐突のことで驚く蓮を、その驚愕ごと包み込むようにして抱き締める。
蘭の抱擁は優しく、温かみがあって、蓮はほんのわずかの
「蓮、あなた本気なのね? 本気で、この世界を救って見せるつもりなのね?」
言葉のない蓮は、姉の背を軽く二度叩く。
それが弟のそうだ、という合図なのだと、蘭は理解していた。
「そう。なら、しっかりやりなさい。私達は、待ってあげないわよ。聖杯は、私が必ず見つけ出す。私の願いを、叶えてもらう」
(なら俺は、俺の願いを叶えてもらうために)
「そうよ。姉弟だからって手を抜かないで。本気で願いを叶えたいと思うなら、他人を蹴落とすくらいの覚悟を決めなさい。だから、私をも超えないと――」
「――犬死よ」
永眠の蓮。
深い眠りの中へと、沈む。
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