第16話 3K
9月の人事異動で同期が昇格した。営業成績に大きな差はない、なぜあいつが昇格するんだ。
家に帰って、そのことを太郎さんに愚痴った。
ねた 「徹、孟子の言葉に、〝自分より優れた者を嫉んだりするな。まず自分の至らないところを反省してそれを補うことをしなさい〟というのがあるのを知っているか?」
「知りませんけど。意味は分かります」
「そいつと徹には何か違いがあるんや。まず、それをよく考えへんと。愚痴ったり、嫉んだりしても何も変わらへんで。まず、自分を変えることを考えへんと」
会社の帰りに、俗に言う成功本を買って帰った。
本を置いて風呂に入って出て来ると、太郎さんが、僕が買って来た〝成功本〟を読んでいる。
「この本、なかなかええ事書いてあるなあ」
「そうですか。読むのが楽しみですね」
「ところで、なぜこういう成功本がいっぱいあるのに、成功する人が少ないか知ってるか?」
「本の内容が良くないんじゃないですか?」
「残念ながら、そうじゃないんや。本の内容はそれなりにええんや。問題はそれを読んだ人のその後なんや」
「読者が悪いってことですか?」
「読者が行動しないから成功せーへんのや。みんな、本読んで満足しているか、本を読んだら何か変化が起きるんじゃないか、って期待しているかのどちらかとちゃうかな。行動しないと何も変わらんからな」
確かに太郎さんの言うとおりだ。行動しないと何も変わらない。
「こういう本を読むと同時に、人間性も高めないとあかんな」
「人間性を高めるって、どういうことですか?」
「そうやなあ。謙虚になる、感謝する、感動する、感動させる人になる。あと、気付く人になることやな」
「謙虚、感謝、感動ですか」
「そや、俺はそれを3Kと呼んでるんや」
「3Kですか。昔3Kと言えば、きつい、汚い、危険でしたね。太郎さんの
3Kはいい意味の3Kですね」
謙虚、感謝、感動、いい言葉だ。太郎さんはただのヘビじゃなさそうだ。
まっ、喋ってる時点でただのヘビじゃないけど。
「なぜ謙虚にならんとあかんか、分かるか?」
「なぜなんです?」
「謙虚の反対は傲慢だろ。傲慢になると人としての成長が止まるんや」
「なぜ人としての成長が止まるのですか?」
「傲慢になると、自らを省みることがなくなる。すなわち、今の自分に満足してしまうので成長が止まるんや」
太郎さんがタバコをくわえている。僕のタバコだ。
「人のタバコ勝手に取らないでくださいよ」
「徹、火つけてくれへん」
太郎さんは自分で火をつけることができない。言いかたに謙虚さがない気がするが。
「仕方ないですね。でもタバコは体に良くないですよ」
「そう言う徹だって吸ってるやんけ」
タバコに火をつけてあげた。太郎さんは美味しそうにタバコを吸っている。
「う〜ん。美味い。久しぶりのタバコはええなあ」
鼻から煙を出している。なんか可笑しい。
「なんで笑ってんねん!」 「だって、ヘビがタバコ吸って、鼻から煙出している姿って結構笑えます よ」
「ふん。笑いたければ笑え。俺は気にせーへんからな」
そう言って太郎さんは美味しそうにタバコを吸っていた。
「そや、3Kを実践するために一番いいのは、トイレ掃除やで」 太郎さんがタバコを吸いながら言った。 「トイレ掃除? どうしてですか?」 「トイレ掃除をするとまず謙虚になれるんや。トイレ掃除って普通嫌がられ るよな。人が嫌がることをするってことは、謙虚にならないとできへんや ろ」
確かに謙虚にならないとできないなあ、特に他人のトイレは。
「感謝、感動は?」
「会社のトイレ、綺麗やろ。それはトイレ掃除のおばちゃんがいるからや。
そのことに気付いて感謝する。それが発展していろいろなことに感謝できるようになるんや。感謝できる心が養われると、一所懸命取り組んでいる人を見ると感動するんや。そして、自分も人に感動を与える人になろうと、すべての事に一所懸命取り組むようになるんや。毎日は大変やろうから、まず土日から始めたらどうや」
本屋で、トイレ掃除をすると金持ちになる、って本を見たことがある。謙虚になって金持ちになれれば一石二鳥。よしっ、やるか!
土曜日。
「ふ〜。トイレって結構汚れていますね。汚したのは自分なんですが」
「トイレ掃除って大変やろ」
「そうですね。でも、なんか謙虚になれる気がします」
「会社のトイレ、掃除のおばちゃんが綺麗にしてくれているから、気持ち良う使えるんやで」
「そうですね。明日から掃除のおばさんにお礼言います」
月曜日。
「おはようございます。いつもありがとうございます」
掃除のおばさんがキョトンとした顔をしている。
「お、おはようございます」
おばさんが返事をした。
いかに誰もお礼や挨拶をしていないかがよく分かる。
たとえ僕しか挨拶しなくても、これから毎日しよう。
家に帰ってトイレ掃除のおばさんに挨拶して「ありがとうございます」って言ったことを太郎さんに報告した。
「なかなか行動が早いやんけ。感心感心。感謝する対象っていっぱいあるんや。例えば、徹が着ている服。徹が作ったんとちゃうやろ。お米だってそう。だから店で買い物した時〝ありがとう〟って言うんやで。店の人が作ったんとちゃうけど〝ありがとう〟って言って、感謝の気持ちを伝えんとあかんのや」
「でも、こっちが客ですよ」 「客とかそんなの関係ないんや。店は買ってくれて〝ありがとう〟、徹は売 ってくれて〝ありがとう〟や」
「徹。飯にしよう、飯」
「自分で獲物捕まえて来たらどうです! いつも、僕から食事もらって。感
謝してますか?」
「感謝してるって」
僕は冷蔵庫から卵を取って太郎さんにあげた。
「ありがとう」
そう言うと、太郎さんは卵を飲み込んだ。
次の日の朝、太郎さんがなかなかトイレから出てこない。 「太郎さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫ちゃう。ひどい下痢や」 ヘビも腹をこわすのか。そう言えば、昨日太郎さんにあげた卵、賞味期限 が切れていたなあ。 「すみません。昨日の卵、賞味期限が切れていたんですよ。ヘビなら大丈夫 かと思って」 「えっ。なんてことすんねん。ヘビだって腐ったもの食べたら、腹こわす わ! この恩しらず!」
まだ喚いている太郎さんをトイレに残して、僕は出かけた。
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