第8話 人の不幸のうえに成り立っている 1

「じっとしていてくださいよ。絶対顔出したりしないでくださいよ」

「分かっているって。大丈夫、心配するな」

今日は、太郎さんと一緒に会社に来ている。

「おはようございます」

そう言って会社に入った。

なぜか緊張する。太郎さんを営業カバンの中に入れているからか。

メールボックスに新しいパンフレットが入れてあった。心不全の予防効果に関する新しいデータが出たので、それの宣伝用パンフレットだ。

データの見かたが分からないので、隣の先輩に聞いていると、離れた席につぶ いた係長が説明してくれた。説明しようとしていた先輩の面目丸潰れである。

係長はよく人の話に割り込んでくる。特に、製品データや臨床データの話をしているとそうだ。

書類作成等の内勤業務を終えて会社を出た。

「さっきの人、自分が知っているということを示したいんだろうな。それで優越感に浸っているのかもしれへんな。思いやりの精神あれば、すなわち先輩に対する思いやりがあれば、彼の面目を潰すこともなかったやろうに。この手の人は高学歴の人が多いという印象があるね」

「いつもなんですよ。ああいうこと。あの人が噂の係長ですよ。でも、どうして係長が高学歴って分かったんですか?」

「高学歴でプライドの高い人に多いんや、ああいう人。会社に入ったら一流大学も三流大学もスタートは一緒だよな。それが頭で分かっていても感情では分からへんのや。おれは受験戦争の勝ち組、負け組のやつらとは違うってね。でも普通、年を重ねるとそういう感覚は薄くなっていくんだけどなあ」

「その点、僕なんか四流大学だから大丈夫ですね」

「そんなことで、いばるな! 普通の人なら分かることも周りの人に聞いて、迷惑かけているんちゃうか?」

「そうかもしれません......。でもなんか、悲しくなってしまいますね。そんなことでしか、自分を主張できないなんて」

助手席で、営業カバンから太郎さんが体を半分くらい出して外を眺めている。

「気持ちええなあ」

「あんまり目立たないでくださいよ。見た人がビックリするでしょう」

「隣の車のおばさん、ハトが豆鉄砲くらったような顔していたで!」

「だめでしょう! 首をもう少し下げてくださいよ」

太郎さんをカバンの中に押し込んだ。

「こら! そんなことしたら、外が見えへんやないけ!」

担当の病院に着いた。

医局前の廊下は各社のMRであふれていた。皆、自分の目当てのドクター

を待っている。この病院では、医局の中にはドクターと一緒でないと入れない規則になっているためだ。

僕は、主力製品の高血圧治療薬の宣伝のために循環器担当のドクターを待っている。

「MRがいっぱいいるなあ。なつかしい光景やなあ」

太郎さんがつぶやいた。

「昔は〝壁のシミ〟って言われてたんや」

「〝壁のシミ〟?」

「そう、壁のシミ。黒いスーツのMRが壁に沿って並んで立っている、まる でシミのように。それで誰が言い出したかは分からへんけど、MRが自分自 身のことを壁のシミって言ってたんや」

「壁のシミ、なんか分かるような気がします。目当てのドクターが来るまで、 ほとんど黙って立ってるだけですからね」

「あのMR、スーツがしわだらけだなあ。『人は見た目が9割』って本、な かったか?」

「ええ、ありましたね」

「若い時は高いスーツは買えへんやろう。でも、しわにならない工夫はでき るで。例えば、車に乗る時は上着は脱ぐとか」

「そうですね。気を付けます」

「だらしない格好をすると、行動までだらしなくなるんや。逆に格好をビシッとすると、行動もビシッとなるんや。スポーツ選手がユニフォームを着ると気持ちが引き締まるっていうだろ。それとおんなじ」

自分のズボンを見ると少し折り目が消えている。今日からズボンプレッサーで折り目を付けよう。

「手を後ろで組んで立っているやつが多いな。手を後ろで組むと、背筋が伸びて姿勢が良く見えるけど、ホントは良くないんやで」

僕もよく手を後ろで組んで立っている。姿勢が良く見えるからそうしているんだが、間違っているのか。

「聞いた話やけどな。戦国時代に相手に殺意がないことを示すために手を前に組んだんや。なぜやと思う? 後ろに小刀を隠し持っているかもしれへんやろ。そんなことしてませんで、ということを示すために手を前で組んだんや。知らんかったやろ」

そうなんだ。知らなかった。


「あいつ携帯でメール見ているな。こんなところで見ないで、他の場所で見ろよな。俺の部下だったら怒鳴っているところや! ドクターが見たらどう

思う?」

「あんまりいい気持ちはしないでしょうね」

小声で答える。

「そうやろう。携帯って便利な分、マナーには気を付けんとあかんな」

目当てのドクターが医局に戻ってきた。

「お疲れ様です。セントラルファーマです」

「やあ。今日は何?」

「はい、弊社のアンチプレスの新しいデータが出まして、その紹介に参りました。少しお時間よろしいでしょうか?」

「ええ、いいですよ」

僕は、ドクターと一緒に医局に入って、今日届いたパンフレットのデータを紹介した。

特に、難しい質問もなく、ドクターは「心不全の心配な患者にむいているってことですね。そういう患者さんがいたらアンチプレスを検討しますよ」

その後も循環器系のドクターに対して同じようにデータの説明をした。太郎さんは何も言わない。

病院を出てから、僕は太郎さんに聞いた。

「どうして黙っているんです? 何かアドバイスくださいよ」

「データの説明はええんちゃう」

「では、何が不足しているんですか?」

「心不全の予防効果があることはよく分かるけど、そもそもさっきのドクターは心不全を気にしてるんかなあ」

「どういうことです」

「心不全を気にしていないドクターに、いくら心不全の予防効果を訴えても効果ないやろう。車を必要としてない人に、車の性能をいくら言っても響けへんのと同じや。まず、車の必要性を訴えへんと」

「そうですね。まず、ドクターが心不全を気にしているかどうか確認しなければならないのですね」

「そのとおり。これは薬の営業に限ったことではなく、すべての営業に共通することやで」

なかなかいいことを言う。僕は感心して太郎さんを見ていると、

「こらっ! 気持ち悪いから見つめるな」

と言われてしまった。

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