第7話 自分の感情への裏切り 2

戎橋から心斎橋に向かって歩いた。

「歩き疲れましたよ。ちょっとマックで一服しますね」

「いいね、いいね。俺ビッグマック」

「またですか?」

マックの中は若者でいっぱいだった。僕は太郎さんの希望のビッグマックとベーコンレタスバーガーセットを買って席についた。バックパックを隣の席に置き、ビッグマックの箱のふたを開けて中に入れた。

「中を汚さないでくださいよ」

「分かってるって」

太郎さんはそう答えながら、もうビッグマックを飲みこんでいるようだった。

心斎橋から地下鉄に乗った。

空いていた席に座り、バックパックを膝の上に置いた。

「疲れましたよ」

小声で太郎さんに話しかける。

「俺は疲れてへんよ」

「そりゃそうですよね。ずっとバックパックの中に居たんだから」

本町からおばあさんが乗ってきた。両手に荷物を持っている。荷物はさほど重そうではない。僕はとても疲れていたので、寝たふりをしていた。

「おい、徹! 寝たふりしているんちゃうか? あのおばあさんに席譲った

れや」

僕は黙っていた。すると向かいの席の人が席を譲った。なんか気まずい気分だった。

「どうして寝たふりするんや。なんか気まずいからやろう」

僕は黙って聞いていた。

「本当は席を譲らないとあかん、って思ってたから、寝たふりをしたんやろう。譲らなくてもええと思ってたら、寝たふりなんかせーへんもんな。だって何も気まずくなかったら、堂々としていたらええわけやし」

太郎さんの言うとおりだ。

「どうして気まずいのか考えてみい。それは前に言った『恐れ』からや。周りの人から〝あいつ、なんで譲れへんのやろう?〟って思われへんか、って恐れているんや」

確かに、僕は周りの目を気にして寝たふりをした。

「別の言い方をすると、自分の感情への裏切りやな」

自分の感情への裏切り?

「自分の心はこうすべきだと思ってるのに、今の徹の場合、席を譲るべきだって思ってるのに、それに反した行動をとることを、自分の感情への裏切りって言うんや。自分の感情への裏切りをすると、それを正当化しようとするんや。あのおばあさんは元気だから席を譲る必要はない、なんて心の中で言い訳してなかったか?」

僕は小さくうなずいた。

「会社の床にゴミが落ちているとしよう。拾ってゴミ箱へ入れようと思ったが、自分が出したゴミではないので〝いいか〟って思うことないか? それも一緒や。だけど、思うだけましだけど。なんにも感じないのが一番問題やな」


「あ〜、腹減った」

太郎さんが冷蔵庫を開けて中を覗いている。今日全く歩いていないのにどうして腹が減るのだろう?

「寒〜」

冷蔵庫の冷気で震えている。

「あっ卵! 卵くれ、卵」

「自分で取ったらいいじゃないですか?」

「寒くて取れないから頼んでいるんやないか! 気が利かねえなあ」

「しょうがないですね〜」

卵を取って、太郎さんの前に差し出すと、パクリと飲み込んだ。太郎さんの体に卵の形がハッキリ出ている。

「う〜ん。美味しかった」

「美味しかったって、まだ溶けてないでしょう」

「気持ちの問題だよ。気持ちの」

太郎さんの目が潤んでいるように見えた。

そんなにおいしいのかなあ?

僕は思わず太郎さんの体の卵を叩いた。ぐちゃっと卵は割れたようだった。

「何すんねん。せっかくの卵が割れてもたやんけ!」

「割らないと味わえないでしょう」

「ゆっくり溶けるのを味わうんや! 殻が溶けて、その中の薄い膜が溶けて、それから中身が出てきて。それが美味しいんや。もう、全く分かってへんなあ。あ〜卵、卵、卵」 太郎さんは仰向けになると白い腹を見せて体をくねくねさせ、だだをこね ている。

「分かりましたよ、分かりましたよ。もうひとつ、卵取りゃいいんでしょ う」

「ひとつじゃない。ふたつ」

「えっ、ふたつもですか?」

「ケチケチすな。人の楽しみを奪った罰や」 しかたなく卵をふたつ差し出すと、ひとつずつパクリと飲みこんだ。太郎 さんの体にふたつ、こぶができている。

「満足、満足」 太郎さんはテレビの前に移動して、テレビを見だした。長澤まさみが出て いるコマーシャルが流れていた。

「まさみちゃ〜ん」

そう言って上半身(?)を起こした瞬間、太郎さんの体の中のふたつの卵

がぶつかって割れた。

「ああ、卵が......」

そう言って僕の方を見た。

「いい年して〝まさみちゃ〜ん〟なんて言っているからですよ。僕は知りませんからね」

「......」

太郎さんはバタンと上半身を床にたおした。さらに卵は割れたようだ。

翌日、僕は会社で床に落ちていたゴミを拾ってゴミ箱に捨てた。なぜか気分が良かった。

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