●2、十年前

 舞台の上で彼女が歌っている。

 マイクに向かい、優しく高鳴るピアノの旋律に歌声を乗せて、穏やかな微笑みを浮かべながら、彼女は歌っている。


 マネージャーであるノエルは、特等席でその練習の風景を見ていた。

 その歌声を耳にするたびに、ノエルの胸はチクチクと痛む。何回聴いても、慣れやしない。

 だからノエルはその歌声から逃れるために、過去の思い出を記憶から掘りおこすことにした。



 ――十年前のクリスマス。

 この日、ノエルはくるみと出逢った。


 その日も雪が降っていた。

 白く冷たい雪は地面に降り積もるだけではなく、彼の体温をこれでもかと奪い去っていく。

 それに抗う気力は、十歳であるノエルには残っていなかった。

 近くの裕福そうな家庭から、家族の楽しそうな談笑が漏れてくる。ノエル――いや、この時は、まだノエルという名前ではなかった。彼は、スラム街で赤ん坊のころから育てられていた。名前は付けられることなく、家族の顔もしらず、六歳になれば彼はスラム街をひとりで生きていく術を身に着けることでしか、この世界を生き延びるすべはなかった。

 ある日、彼はスラム街から抜け出して、近くにあるという噂の街中に向かった。一日経って街に着いたものの、スラム街の小汚い少年はどこに行っても門前払いをされて、口汚く罵られることさえあった。

 ゴミも綺麗に片付けられて、路地裏にも生ごみひとつ落ちていない。本当に綺麗な街には、彼の食べられるものは落ちていなかった。

 けれどもうスラム街には戻れない。彼は、あそこでしてはいけない罪を犯してしまったのだから。荒れ果てたスラム街にも、掟のひとつぐらい存在している。彼はその掟に背いてしまった。だから、スラム街から逃げてきたというのに。

 彼に不相応なこの街にも、どうやら自分の居場所はないみたいだ。

 足がもつれて、倒れて、動けなくなる。

 ここ数日ご飯も水も存分に得られていなかった彼は、もうこれ以上動けないみたいだ。

 手の指先も足の指先も凍り付いたかのようにかじかんで満足に動かせない。唇はもうとっくに真っ青になっている。なんだか頭もボーとしてきたようだ。

 体中が冷え切って凍りついているかのようだ。彼はその瞬間、死期を悟った。


 ――体の一番大切な部分。胸元にある命の灯火ともしびが燃え尽きようとしている。


 十年と、長いようで短い人生だった。百歳まで長生きする人がいるというが、自分はもう一日足りとも生きられないだろう。

 どこか幸福にも似た絶望と共に眠りにつきかけた彼の意識を覚醒させたのは、高く響く少女の声だった。


『どうしたの!? そ、そんなところで、死ぬなんて赦さないんだから!』


 体に毛布が掛けられる。

 温かい、と思った。

 唯一動く、瞼を開く。

 そこには、色素の薄い茶髪を振り乱した少女がいた。真ん丸の瞳が、少年の瞳を覗き込む。


『まだ、生きてる!』


 胸が、高鳴った気がした。

 少年は温かいものが込み上げてくる感覚に、目を閉じる。


『死んじゃダメ!』


 少女の声に、少年は軽く頷いた。


 そのあと、少女の家で暖をとりながら聞かされた話。

 クリスマスの前日、彼女は産まれた頃から連れ添っていた愛犬を亡くしたらしい。年老いた老犬は、雪の降った夜に少女――まだ幼いくるみに看取られて幸せに包まれて天国に旅たった。

 彼女は寂しいと泣いていた。けれど、それもまた犬の人生なのよね。私も、これから一生涯の大切な人を見つけて、一生涯を共にするのだわ。と声を高らかに宣言する強さを見せていた。


 続けて、くるみは言った。


『ねえ、あんた。行き倒れてたってことは、家族とかはいないの? ……そう。それなら、私と一緒に暮らすといいわ』


 ちょっと変わった言葉遣いだと思ったけれど、少年は躊躇いながらも頷いた。

 死なないのなら、彼女の傍にいてもいい。そう思った。

 少年の同意を得たくるみは、嬉しそうに笑うと、むふんとしながら少年を指さした。


『あんたをこの家に住まわせてあげるのだから、これからは私のこと、お嬢さまと呼びなさい! いい?』


 少年は迷ったけれど、ここで暮らすことが赦されるのであればと、頷く。

 くるみは、少年に名前がないことを知ると、「クリスマスに見つけたんだから、ノエルがいいわ」と名付けてくれた。

 暫くしてノエルは、少女が広い家にひとりで住んでいることを知った。両親は共働きで、もう随分と長いあいだ帰ってきていないらしい。



 懐かしい思い出に浸っていたノエルの元に、くるみがやってくる。

 舞台衣装に身を包んでいるくるみは、いつにも増して大人びているように見えた。


「ノエルッ! どうだった!?」


 言葉遣いは、天真爛漫な子供そのものといったところだけど。


「とても素晴らしい歌声だったです」


 おっと、焦って口調がおかしくなってしまった。若干早口にもなってしまったような。上手く取り繕えているだろうか。


「言葉ヘンよ? でも、許してあげる。ありがとう!」


 セーフみたいだ。

 ノエルに向かい、晴れやかに笑うくるみ。ノエルは、ただ顔が引きつらないように、薄い笑みを顔に張りつけることに専念する。


 ああ、でもやっぱり。

 どうしても、これだけは許せない。

 昔とはまったく違う、そのは、ノエルを傷つけるとともに軽く憎悪を掻きたててくる。


 苦しんでいるノエルに気づくことなく、くるみは舞台に戻っていく。


 できることなら、彼女の声から逃れるために、手で耳を塞ぎたかった。

 けれどそれはできない。くるみが傷ついてしまうからだ。

 彼女が、歌わなくなってしまうからだ。

 彼女は、彼女自身のために、観客のために、そしてノエルのために歌ってくれているのだから。


 それを阻止すれば、マネージャーである護衛騎士として失格になる。





 がいつ、この世界に現れたのか。

 それは誰も知らない。もう遥か昔、百年以上前からこの世界に存在していたらしい。

 いつしか、はこの世に在った。

 は、と呼ばれていた。

 異能を得るには、〝使い魔〟と契約をしなければならない。

 〝使い魔〟と契約をしてを手に入れるためには、自らが持つモノを、なにかひとつ〝犠牲〟にしなければならない。

 自らのモノを〝犠牲〟にして、〝使い魔〟と契約をした人間は、同族だと認められて〝異能者〟と呼ばれることになる。

 いまでは、この世界の人口のほとんどを〝異能者〟が占めている。


 そんなことを、ノエルはどこかで誰かから聞いた。

 子供は十二歳になるまでに、自然とそれを教えられる。


 異能を得て、我らと共に過ごしましょう。

 異能それは、誰もが持ち得る力なのです。


 誰から聞いたのかは、覚えていない。くるみもそうだろう。

 その知識は、世界中すべての人間のしるところなのだから。


 異能を持つ人間が増え、異能を持たざる人間が減った世の中で、異能を持たざる人間は、憐れみと蔑みを込められて、〝異端者〟と呼ばれることになる。


 ノエルは〝異端者〟だった。

 そして、くるみは〝異能者〟だ。


 普通に考えれば相いれない関係であるのが、常に自信に満ち溢れているくるみにとって、それは些細なことなのだろう。くるみは、ノエルが〝異端者〟であっても、侮蔑したり、憐憫の情を向けることはなかった。ノエルも、彼女の傍にいられるのなら、それで問題がなかった。どうせ、傷つくのは自分ひとりだけなのだから。


 くるみは、〝使い魔〟と契約をして異能を得ている。

 その能力は、彼女を「歌姫」として見事に君臨させていた。


 けれどその歌声が、ニセモノだということを知っている人間は、どれほどいるのだろうか?


 自らの声を〝犠牲〟にして、〝使い魔〟と契約をした彼女の歌声は、あの頃とはまったく違う響きを魅せているというのに。


 その歌声は、彼女自身を満足させて、観客を幸せのひと時に閉じ込めて、そして容易くノエルを傷つけてくる。

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