声のない歌姫と孤高の騎士

槙村まき

●1、ホワイトクリスマス


 歌とは、彼女にとって人生そのものだった。


 流れるようなピアノの旋律に、自分の歌声を乗せて歌う。

 感情を込めて、観客がいまこのひと時、悲しいことを、苦しいことを、悔しいことを、辛くて嫌で逃げだしたいことを、忘れられるように。

 彼女は、自分の歌声ですべてのひとが幸せになれるようにと願っていた。


 静かに、高らかに、心を、旋律に乗せて。

 この、私の歌声を――。



 彼女は、生きている限り歌い続ける歌姫だった。

 たとえそれが、身近にいる彼に残酷さを知らしめる耳に残る穏やかな歌声だとしても、歌姫として君臨する彼女は、全ての人のために歌い続ける――。





 目を開けると、いつもそこに彼女はいた。

 彼の目を見て、健やかに微笑んだ彼女は「おはよう」と言ってくれた。

 だけど、いまは。

 カーテンの隙間から朝日が差し込み、青年は静かに目を覚ました。


 また、昔の夢を見た。

 まだ彼女が、彼女だった時の夢。


 青年は仕事着に着替えると、自室から出た。一階にある部屋から、三階にある主の寝室に向かって行く。

 護衛である彼の朝一番のお役目は、主である彼女を起こすことから始まる。

 ドアをノックするが、いつもの如く返事はない。

 逡巡することなく、部屋のドアを開けた。

 つかつかと豪奢なベッドに近づいて行き、ネグリジェ姿を視界におさめると、こほん、と咳をしてから口を開く。


「おはようございます、お嬢様。朝です!」


 発生よく、大声で。

 一般的の女性なら、もし男性が無断で部屋に入って朝の挨拶を大声とか関係なく浴びせられたら、というか目を覚ました時点で部屋の中に男性がいたら、騒いだり怒ったりするだろう。枕を投げられるかもしれない。

 だけど彼女は違う。というか長い間いっしょに暮らしているから、そういう羞恥心はとうに忘れ去られているのだろう。

 眠たげな眼をこすりながら、色素の薄い長い茶髪を寝癖まみれにした女性は、青年を咎めることなく一言。


「眠い」

「ただいまの時刻は午前八時です、お嬢様。確か、お嬢様は昨夜は二十二時にご就寝でしたよね? もう、十時間は経っております。寝すぎですよー」

「……でも、眠い」

「朝の用意をいたしましょう」


 少しでも彼女の言葉に耳を傾けてしまえば、彼女はそれを良いことにしてまた眠ってしまうだろう。ほっといたら二十四時間寝ていましたーということにもなりかねない。今日は舞台があるのだから早く起きてもらわねばならない。


「動きたくない」

「それでは、少し失礼」

「やっぱいい。自分でできるわ」


 腰に手をかけて立たせてあげようとしたのだが、彼女は眉を潜めて自ら立ち上がった。

 最初から自分で立てばよろしいのにー、という言葉は飲み込む。

 化粧台の椅子に座った女性が、鏡の中から無言で青年に視線を投げかける。

 意味を汲みとり、青年は彼女の後ろに立った。

 ぼっさぼっさの色素の薄い茶髪を優しくブラッシングする。

 これは、青年が朝起きてから二回目にする役目だ。日課ともいう。

 彼女は一つのこと以外は不器用なので、身の回りの世話は護衛騎士にしてかなぜか執事までやらされている彼の役目だった。

 因みに、護衛騎士も執事も自称である。本当の職業は別にあるが、そういう子供心じみた妄想に浸りたい歳なのである。――というジョークを青年はとりとめもなく考える。


 彼女の髪は少しずつまとまり、次第にはさらさらと小川を流れるせせらぎのように、美しい輝きを取り戻していった。

 せせらぎを流してやるのはあとにして、青年はクローゼットをばーんとあけて、中から今日の洋服を選ぶと、それをベッドにぽいっとして、ネグリジェの背中にあるファスナーを指で掴む。


「まって。自分で着替える」

「大丈夫ですか? 昨日もそうおっしゃって、ただ首からかぶり腕と顔を通すだけで済むワンピースの袖の部分から首を出そうとして窒息寸前となっておりましたが?」

「いいのっ、自分でやるから」

「かしこまりましたー」

「……なにやってるの、部屋から出なさい」


 冷たい目で見られ、青年は慌てて部屋から廊下に出た。

 最近お嬢様はどういうわけか、つい最近まで青年が手伝っていた着替えを、自ら進んで行うようになった。彼女は不器用なので、昨日と同じように三十分はかかるに違いない。彼が手伝えば五分で終わることを、そんなにも時間をかけるのは、正直時間が勿体ないと思うが、それが主の命令なら従うのが執事の役目だ。

 お嬢様も年ごろかな? とか適当な妄想で時間を潰し、青年は考えた。


 ――もう俺たち、二十歳過ぎてるんだなぁ。


 彼女の体は、十年前のあの頃に比べると、すくすく成長して身長も伸び、女性らしい体つきになっている。

 純粋さはそのままに大人になった彼女は、それでもあの頃の彼女とは違う。

 それは長い間一緒に過ごした仲で思い知らされてきた。

 身長が伸び、お洒落を覚えて、お化粧も覚え、自分を隠すことを覚え、自分のために、人のために、彼らのために、青年にとって儚く残酷な歌声を、彼女はそれを知らずに歌っている。

 自分はその傍でただ聴くことしかできない、彼女のマネージャーだというのに。





「えーっと、お嬢様の本日のご予定は、昼から舞台の練習があり、そのあと適当に時間潰してから、夕方の十七時が本番となります」

「……わかったわ」


 腰のところからふんわりとしたスカートが揺れた。スカートの下から覗くすらりとした足を、フリルの付いた白いソックスが優しく可憐に見せている。パンプスはスカートと同じオレンジ色で、コツンコツンと音をたてる音が心地よい。

 それを耳の奥で聴きながら、青年は前に行く女性の背中を眺めていた。


 身長は青年のほうが高く、彼女は頭一つか二つ分低いだろう。スタイルの良い体に、ふっくらとした胸元を控えめに強調するブラウスの上から羽織っている黒いセーターがいい味わいを出している。羽織っている白いコートは特別高価なものではないが、彼女が着ているとなぜかお嬢様じみた美しさを醸し出している。いや、お嬢様か。

 それに比べて青年が着ているのは、シンプルな高級ではないそこらへんに売っている安物のスーツである。マネージャーである彼が、お洒落をする必要はない。

 たが、たまに思うことがある。

 美しく可憐な彼女の横に、お洒落をした自分が立ったらどう見えるのだろうか。

 素敵なカップルに見えるだろうか。

 いまの自分は、ただ彼女に付き従っている、執事的な護衛騎士もといマネージャーでしかないというのに。

 それは自分が望んだことなのだから、仕方がないというのに。


「あ、お嬢様ぁー。そこ左です。いつもの道ですよー。迷わないでくださいませ」

「っ。し、知ってるわ。ちょっとあなたを試してみたのよ。でも大丈夫そうね、あなたが迷子にならなそうで安心したわ」

「お心遣いありがとうございます」


 そういってから右手を下ろしてお辞儀をすると、彼女は眉を潜めた。

 どうしたのだろうか、とその状態をキープしていると、真一文字にしていた口を開く。


「ノエル、お嬢様っていうのやめて。あなたにいわれるのは、なんだかこしょばゆいわ」


 ノエルというのは青年の名前だ。

 名前のない青年が、クリスマスの夜に彼女と出逢い、そう名付けられた。安直かもしれないが、結構気に入っている。


「それでは、ルミ様とお呼びすればよろしいでしょうか?」

「芸名もいや。もう、いつも言ってるじゃない。あなたは私のなんだから、くるみでいいのよ」

「かしこまりました。くるみ様」

「様もいらないっ! 距離があるみたいじゃない」

「そうですね、いま二センチほどの距離がくるみ様との間にありますが」

「そっちの距離じゃないっ! 心の距離よ……。私たち、もう出会って十年は経つのよ。名前で呼んでほしいわ」

「お言葉を返すようで申し訳ありませんが、最初に、あたしのことはお嬢様と呼びなさいっ、とおっしゃったのは、十歳のお嬢様ではありませんでしたか?」


 彼女の口調を真似て、茶化すように言ってみる。


「そ、そそそんな昔のことは、忘れればいいのよ」

「かしこまりました。それでは、くるみ、とお呼びいたしますね」


 すると、ぼっと彼女の頬が赤くなった。

 面白い。

 ノエルは苦笑する。


「な、なにを笑っているのよっ」

「いえ。失礼しました」

「あ、あとね」


 華奢でいまにも折れそうな指をピンと伸ばし、くるみは咎めるような声を出す。


「敬語もやめて。あなた、昔そんなんじゃなかったじゃないっ」

「そーんなことはぁー、あるかもしれませんねえー」


 まあ昔の俺は、非常にやんちゃだったものですから。という言葉を飲み込み、ノエルは苦笑する。


「ですが、最初にお嬢様が」

「あ、またお嬢様て言ったわね! 罰として、今日だけ敬語禁止!」

「……? 今日だけでよろしいのでございますでしょうかなのか?」


 視線が怖かったので、ノエルは途中で修正しながら敬語を回避する。

 くるみはまだ物足りそうな顔をしていたが、少しは満足してもらえたのか、むふんと誇らしげな笑顔を浮かべるとそれを隠すように前を向いた。


「今日だけでもいいわ。今日だけでも」

「ああ、了解っすーだ!」


 またもや言葉がおかしくなってしまったが、とりあえずよしとしよう。

 嬉しそうに揺れる肩から視線を逸らし、ノエルは街中を見渡した。


 クリスマスの今日。真っ白い雪が舞っている。

 空から零れるように落ちてくる白く冷ややかなそれは、くるみとノエルの肩に乗った途端、溶けて消えてしまった。

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