9-5
厚い雲に覆われた真夏の昼間、蝉の鳴き声がそこかしこから
その片方の若者は、次第に崩れるようにして跪き、参道の敷石をじっと見詰め出す。そして、鼻をすする音が聞こえ始める。
雄翔・・・、泣くなよ。雄吉は元気よく飛び立っていったんだ。アメリカの軍艦に突っ込むためじゃなくて、極楽浄土へ向かって飛び立っていったんだ。喜んでやらないでどうする。
そう言ってやりたかった。でも、声を発する勇気が出てこない。例え極楽浄土目指して飛び立っていったとしても、雄吉がこの世界から居なくなってしまったことには変わりないからだ。雄吉との別れを悲しんでいるのは、弟だけじゃなく、自分自身もそうなのだと雄大は感じる。だから声を発する力も勇気も出てこないのだ。もしも声を出して言葉にしてしまえば、きっと自分も雄翔が今していることと同じことをしてしまいそうだと咄嗟に気付いたからだ。
しばらくお互いに何も言えず、じっとそのままの体勢で時間が過っていくのを感じていた。少しずつジメジメとした多湿の風が強く吹くようになってきたと感じ始めた頃、跪いて泣いていた雄翔がゆっくりと立ち上がる。
雄翔「
かすれ声で言ってくる雄翔。それだけ言うのも必死だっただろう。言い終えても、まだ鼻をすする音を立てる雄翔だった。
振り絞るように話してくれた弟には申し訳ないが、今はまだ家に帰る気にはなれなかった。
雄大「ごめん。先に帰っててくれないか?」
雄翔「え? でも・・・。」
雄翔の方を振り返る。頬に一筋の濡れた跡が見え、両目には今にも溢れ出してしまいそうなほどの涙を蓄えている。そして、どこか自分のことを心配するような視線を浴びせてくる。
雄大「少し、一人になりたいんだ。」
黙ったままの雄翔に、雄大は左手で持っていた雄吉から託されたノートを差し出す。レザーで出来たハードカバーが印象的なノートで、生前の雄吉が特攻出撃する直前に女学生たちから寄せ書き入りでもらったものだと言っていた。こっちに来てからは日記帳として使っていたそのノートを、雄吉は自らが消える間際に雄大に託してきた。
雄大「これを持って先に帰ってくれないか?」
雄翔「でも、それは
雄大「だからだ。大切な物だから、先に持って帰って欲しいんだ。」
ジメジメした風が、二人の間を少々乱暴に走り去って行く。
なんとなく、雄翔は雄大の意図を察してくれたのか、黙ったまま頷いて、両目の涙を拭ってからノートを受け取ってくれた。
雄翔「すぐ雨、降って来そうだぞ。」
もう鼻をすすることは無くなっていたが、雄翔の声はまだ微かに震えていた。
雄大「気にするかよ。」
雄大の言葉を聞くと、雄翔はもうそれ以上何か言うことも無く、そのまま身を翻して境内を出て行く。
鳥居の下を潜って、参道の階段を降りていく弟の姿を見届けてから、雄大は大きく深呼吸する。
行くか。
胸の内で号令を掛けて、自分自身の身体へ指令を出してやる。
どこへ行くか? どこへ行こうとしているのか? どこへ行きたいのか?
まるでわからない。頭の中が自分では無いかのようにだ。
それでも、歩き出さずには居られない。
だから、ゆっくり一歩を踏み出す。順々に足を動かして、前へ前へと進んでいく。
やがて鳥居の下を通って、公道に出る。真っ直ぐ進めば参道の階段があって、自宅の方へ向かうことが出来る。先に歩き出した雄翔に追い付くことも容易だろうか。
だが、そこを通りたいとはとても思わないのだ。だとしたら、左右に延びる公道を行くしかない。左を見て、右を見る。右側には、八幡神社の隣にある八幡公園という公園があった。なんとなく、そちらへ誘引されるような感覚に陥る。その感覚に素直に従って、右へ曲がって公園の中へと入っていく。公園の中を歩いて、一段高くなっている所へ上がると、そこから少しばかり眺望が開ける所に出る。導かれるようにして、フェンスの所まで近寄り、灰色に染まる町の様子を見渡す。
遠くに横浜ベイブリッジの二つの白い橋脚が霞んで見える。空一面が黒い雲で包まれ始めていて、普段は真っ白で雄々しく見えるベイブリッジの白さが不気味に浮かび上がって見える。
ここで、
まるで、すぐ隣に彼が居るかのような錯覚を覚える。ふと横を見てみるが、視線の先にはただの植木がモッサリと膨らんでいるのがあるだけだった。
居る訳、無いよな。
ため息を吐き出して、ゆっくりと後ろに振り返る。そして、再び歩き出す。
公園を出てからも、ひたすら歩き続け、やがてこの町を見守るようにして聳え立つ火葬場の煙突が見えてくる。
そういえば、あの煙突を見て、
「どうせ死ぬなら、ここから昇っていきたかった」
「自分の故郷を眺めながらゆっくりと天へと昇っていく。そんな穏やかな最期だったら、とても心地よかったんじゃないかって思うよ。」
項垂れながら、冗談でも言ってくるように発言してきた雄吉の言葉だった。
なぁ雄吉。今度ばかりは、この街から昇っていくことが出来たんだよな?
自分の故郷眺めながら、穏やかに逝けたんだよな?
もう、爆弾積んだ飛行機に乗って戦艦に体当たりして爆発して死んだときのような、壮絶な最期じゃなかったんだよな?
望んだような最期を迎えることが、出来たんだよな?
切望するかのように雄吉に問い続ける。
なぁ雄吉! 答えてくれよ! 満足いく最期を迎えてくれたのか、教えてくれよ!
声が聞きたい。雄吉の穏やかで優しい声を、聞かせてもらいたい。
でも、雄吉からの声が聞こえてくるはずは無いのだ。死んでしまって、この世から居なくなってしまった人の声を直に聞くことなんて、どんなに文明が進もうが、どれほど科学が進歩しようが叶うことなんて有り得ないのだから。
わかっている。そんなことは百も承知なんだ。でも、声が聞きたい。
息が詰まる。そして、動悸がする。こんな感覚、祖父や祖母が死んだときにも感じたことが無いものだ。どうして、こんな気持ちになるのだろうか。
わからぬまま、どうすることもできず、訳も分からずに走り出す。
火葬場の煙突の横を走って過ぎ去り、丘の上の住宅街の中を疾走する。ずっとずっと走っていられるかのような感覚になる。だが、長く走ろうとペース配分を考えて走っている訳でもなく、馬鹿みたいに全速疾走して街中を走っていたため、すぐに息が上がる。下り坂が心地よく、ペースを落としながら角を曲がると、すぐに公園に出た。
スポーツ公園と地元の人は呼んでいるこの公園は、一昨日にも中学の友達と一緒にサッカーをして遊んだ場所だった。
立ち止まって、外から公園の中の様子を眺める。まもなく雨が降りそうだからだろうか。今は誰一人として公園の中に人はいない。静かな様子だった。
あのとき、雄吉がここにやってきて、声掛けてやって一緒にサッカーしたんだよな。
一昨日の出来事なのに、うんと昔の思い出を思い出しているように感じる。まだまだ鮮明な記憶なのに、まるでセピア調に色褪せて映る情景に変わり果ててしまっていた。ついさっきまでは、たぶん鮮明だったはずの思い出が、一瞬にしてセピア調に変わってしまうことが、世の中にはあるなんて。
雄大の呼吸が、再び荒れだす。そして、じっとしているのが堪え切れなくなって、また走り出す。坂を下ってしまえば自宅に近づいてしまうため、忌避反応を感じてしまい、また坂道の上の方へと走る。
丘の上に上がり、尾根伝いに通る道を走り抜ける。ここも、一週間前に雄吉を案内したときに通った道だった。
息が上がって道の真ん中で立ち止まり、呼吸を整える。項垂れたまま、大きく十回くらい息をしてから、少しづつ上体を起こして右側の開けた景色を眺める。丁度良く横浜の中心街の方が見渡せる位置になっていた。みなとみらいに林立する横浜ランドマークタワーやクイーンズスクウェアなどの高層ビル群が、黒雲に襲われるようにして闇色に染まっている。
ここからだったっけ、
隣に雄吉が立って、70年後の故郷を楽しそうに眺めながら歩く様子が、とても懐かしく思う。雄吉と出会ってからの一週間、ほとんどの時間を彼と一緒に過ごし、横を向けばそこには雄吉が居た。少しばかり伸びた坊主刈りの頭。出掛ける時は自分が譲ってやった野球帽を好んで着用してくれていた。そんな彼の頭が一番に視界に入り、そして、「何だい?」「どうしたの?」と、穏やかな声で話しながらこちらを振り向き、和むような眼差しで見上げてくる。
当たり前のようにあった光景が、今は無い。
雄吉、どこに居るんだよ? どこに隠れているんだよ? どうして姿を見せてくれない?
いや、これで、良いんだ。雄吉は、もう居ないんだから。
もう、いない・・・。
本当に、もう、居なくなってしまった・・・。
遠くから、ゴロゴロという雷鳴が空から轟いてくる。ゲリラ豪雨がやってくることは、雲域が怪しくなり出したのを感じてからなんとなく予感していた。むしろ、やっと来たかといった感じだ。
まだ昼間だというのに、夜になり出したかのように暗くなった街中を歩き続ける。
丘から下りて、駅前へ続く道を進んで駅に出てみる。
雷が大きく鳴り響く。近くに居た女子高生たちが、揃ってキャアと叫び声を上げて小走りになって横を通り過ぎていく。
駅の改札口を、駅舎の入口に立って見詰めてみる。まもなく電車がやってくるのか、これから改札口を越えていこうとしていた中年女性が走り出して構内へ消えていく。
初めて、
そう思いながら、その場を立ち去る雄大。
駅から離れ、線路沿いを歩いて行くと、やがてJRの銀ピカの電車がやってきた。緑と黄緑の帯を巻いたステンレス製の車両で、雄吉は終始、この車両を見ては子どものようにはしゃいでいた。
本当に
走り去っていく電車のテールランプの赤い光を見詰めながら、そんなふうに懐古する。
そんなとき、額に刺激を感じた。生温い感触で、咄嗟に拭いたくなるような不快なものだ。アスファルトを見渡すと、ビー玉の絵でも無数に描いたのかと思わせるような黒い斑点がそこかしこに散らばっている。そして、斑点が息を付く間に増殖していく。ピタピタピタという音が聞こえだし、雷鳴が轟く。身体に気持ち悪い生暖かさがまとわりついてくる。
ついに降ってきたか。
あっという間にアスファルトは一面が真っ黒に変わっており、自分の髪からも幾重にも水が滴り落ちてきて顔面を汚していた。呆気なく、雄大は全身ずぶ濡れになっていた。バケツの水をひっくり返したかのような大量の液滴が、空から地上の生き物たちを攻撃するかのように落ちて続けてくる。
着ているTシャツからも水分を大量に含んで水が滴り、短パンもぐしゃぐしゃになって、パンツの中にまで水が浸み込んできて気持ち悪さを感じる。
周りを歩いていた人たちも走りながら雨宿りできる場所へと急行する中、雄大だけは何事もなかったかのようにひたすら歩き続けていた。それでも、まだ家に帰る気にはなれない。ピカっと目の前が煌く。直後に爆音のような雷鳴が轟く。近くに雷が落ちたようだ。
それにも全く動じずに、何かに憑りつかれたようにひたすら歩いて行く。ゲリラ豪雨に襲われた街の中を。
何度雷の音を聞き流してきたのだろう。いったい何十、何百リットルという水を浴び続けたのだろう。身体にまとわりつく水のためか、体温を奪われて寒さを感じ始める。
いつの間にか、雄大は農園ゴルフ場跡のすぐ脇にある丘の上に来ていた。普段はほとんど訪れる事なんて無い場所だったが、ここへはつい先ほど、まだ雄吉が横に居たとき、訪れていた。
この場所から、雄吉は故郷の街並みを見下ろして、自分の愛する故郷の様子を目に焼き付けて、そして、さよならを心に決めたようだった。
先ほど雄吉と共に来た頃には、遠くにみなとみらいのビル群が見えていたのだが、今はゲリラ豪雨による滝のような水柱の影響でそれらは全く無い物のように見えなくなっている。それどころか、直下に広がる故郷の街並みでさえ、朧気に姿を眩ませかけている。わずか半日で、まるで違った世界に移り変わってしまったようだ。
いや、全く違った世界になったのだ。
先ほどまでは見えたものが見えないこの世界に、変わってしまったのだ。
雄吉、どこに居るんだよ?
ここにも居ないのかよ?
なんとなくだが、ここで故郷の様子を眺めている雄吉が居るのではないかと思ったのだ。だが、そんな予感は当たり前に消し去られた。
わかっているんだ。
いや、どこにもいる訳がないってことも、わかっているんだ。
わかっている・・・。
わかっている・・・。
わかって、いる・・・。
暗い色に包まれた故郷の様子が、歪んで見える。ゲリラ豪雨の大粒の雨水に顔面が吹き付けられているからだとも解釈できた。だが、それだけでないことも、わかっている。
その場に立ち尽くしたまま、雄大は俯く。
雄大「雄吉・・・。」
小さくその名を呟く。
腹の底から、一気にダムを決壊させたように思いが込み上がってくる。
そして、霞んだ街並みに向かって大きく息を吸い込む。
雄大「雄吉!!!」
叫んでいた。直後、背後で眩い閃光が煌く。爆音のような音が襲ってくる。
そこからの記憶は、あまりはっきりとしていなかった。
気が付けば、自宅の前にまで足を進めていたのだ。
ここまで、どうやって帰ってきたのか、どのような道程で戻ってきたのかわからない。
身体全体を見渡しても、土砂降りに打たれて全身ずぶ濡れなのと、足が砂や泥にまみれていること以外は特に気になることもなく、ケガをしている箇所があるわけでもなかったのは幸いなところだった。
よく雷に撃たれずに帰ってこれたな。
家の前まで来たときに、ハッと我に返って思ったことだ。はっきりとは憶えていないが、近くに落ちた雷もあったような気がするので、一歩間違えば雷の直撃を受けてしまってもおかしくない状態だったと思う。
危険なこと、してたんかな・・・?
なんとなく懺悔の気持ちが胸に広がる。
雨脚もようやく落ち着きだした中、雄大はひっそりと玄関の扉を開けて、家の中へ入る。そっと玄関の戸を閉めたとき、廊下を歩く人の気配を感じた。
雄翔だった。先に家に戻ってはいたものの、特に何かしていた訳ではないのだろうか。まだ高校の制服姿だったのだ。
雄翔「おかえり。」
雄大「・・・・・」
雄翔「もう、気が済んだのか?」
雄大は黙ったまま、俯く。その様子に、雄大の答えがNoであると解釈したのだろう。
雄翔「とりあえず、風呂、入れよ。そのままじゃ風邪ひくぜ。それに、そんな幽霊みたいな姿じゃさ、きっと天国の雄吉兄も悲しむと思うよ。」
雄大「・・・・・」
返す言葉が無かった。
雄翔「風呂、もう沸かしてあっから。」
それだけ言うと、雄翔はその場から立ち去り、二階へと上がっていった。
もしかしたら、雄翔は自分の帰宅をずっと待っていたのではないか。八幡神社で別れたときにはすでに、まもなくゲリラ豪雨がやってきそうな予感はしていた。もう何回もゲリラ豪雨の襲撃に遭った経験があるから、ゲリラ豪雨が来そうなことを予知する能力はなんとなく身に付いていた。だからこそ、このまま雨宿りできる場所に居ないで、町の中に居続けたらどういうことになるのかは簡単に察しが付くのだ。
きっと雄翔は、ゲリラ豪雨が来ようとも自分がしばらく一人で街中を歩き続け、ずぶ濡れになっても平気で徘徊し続けてしまうことを予想していたのだろう。だから心配で、自分の部屋にも戻れず、いつでも帰ってきたらすぐに風呂に入れるように沸かしておき、すぐに帰宅に気付けるようにリビングに居続けたのだろう。
弟に対して申し訳ない気持ちが胸いっぱいに広がる。
とりあえず、雄大は雄翔が沸かしてくれた風呂に入ろうと、そのまま洗面所へ向かう。鏡に映るぐしゃぐしゃにずぶ濡れの自分の姿を見詰める。こんな自分の姿を初めて見た。こんな姿の人に街中で遭遇したら、本当に幽霊みたいに感じることだろう。
一気に服を全部脱ぎ去り、鳥肌の立つ裸の自分をもう一度鏡に映して見詰めてから、風呂場へと移った。
湯船に浸かり、体の芯から温められる温もりにホッと安心する。
俺、いったい、何してんだろうな。
湯船に反射する自分の間抜けな顔を眺めながら、ふとそんなことを思う。
雄吉が居なくなってしまったことが、それほどまでに信じられない出来事だったのか? 心の底に大穴が開いてしまうほどのショックを受けることだったのか?
こんな感覚、初めてだ。
これが世にいう虚無感と言うやつなのだろうか。
何かがぽっかりと開いてしまう。そういう感覚だった。これまでに経験したことの無い感覚だった。
わからない。何がどういう感情になっているのか、自分でもよくわからない。
雄大「あああああ!!」
湯船に映る自分の顔を揉み消すように、雄大は乱暴に湯船に向かって拳を打つ。そしてお湯から上がり、シャワーを浴びようと蛇口を回す。
そういえば、
流れ出るシャワーのお湯から身を遠ざけるようにして、全裸で怯える雄吉の姿を思い出すと、自然と笑いが零れてしまう。本当に驚いて怖がってしまったようで、雄大が風呂場の扉を開けて中へ入っても、雄吉は一切恥ずかしそうな素振りは見せず、どこも隠しもしなかった。だから余計に間抜けに見えたのだ。
そんな
一時は笑いも滲み出た雄大であったが、そんなことも一瞬の出来事であった。すぐに、雄吉が思い出の人になってしまったことを実感すると、再び心が迷走を始めてしまうのだ。
いっそ、
そんなことも思ってしまうのだが、そんなことをしてみても栓のないことなのもわかっていた。
何も抜け出す方法がないのだろうか。この虚無感とも言える大きく開いたような心の穴を閉じる方法が、何もないのだろうか。
わからないまま、もどかしさを残したまま、シャワーの湯では洗い落とすこともできず、悶々としたまま風呂場を後にする。
自室へ戻った雄大であったが、何かやろうとする気力はとても湧かなかった。だからと言って、じっとしていても、何か探し物が見つからないような感覚になってしまい、とても落ち着かない。
ひとまず、机の椅子に座って一息つく。
ふと机の上を見ると、雄翔が無事に持ち帰ってくれてここへ置いたのであろう、雄吉から託されたノートがあった。
雄大は雄吉のノートを両手で掴んで、しばらくの間ページも開かずに見詰めた。
このノートが残っているってことは、
夢を見ていただけなのではないか。そう信じてみたい気持ちもあったのだ。そうでも思わなければ、とても今のこのもどかしさを乗り越えられる気がしないからだ。でも、このように雄吉の遺品がしっかりと自分の手元に遺されていると知って、夢を見ていただけだったと終わらせることが出来ない現実を突きつけられているような気がしてならない。
ダメだ。今は、見れない。
ノートを開ける勇気が出ない。
息を何度も呑み込みながら、雄大はそっと、雄吉のノートを机の使っていない一番下の引き出しへしまい込む。
ごめんな、雄吉。俺って、こんなに弱い人間だったなんて、知らなかったよ・・・。
肩を落としながら、項垂れる。そして、頭を抱え込んで深呼吸する。
ふと、机の上に置かれたデジタル時計に目をやる。
17:33
あれから、もう4時間も経というとしていたんだな。
特攻出撃したときならば、もうとっくに沖縄近海のアメリカ軍の艦隊にまで達していて、きっと特攻を仕掛けて散華した後の事だろう。
はぁと溜息がでる。
ふと机の上の、祖父から誕生日プレゼントで貰ったプラモデルの戦闘機を見る。迷彩模様を施されたプロペラ機で、三式戦闘機という名だったと思う。飛燕という通称があり、なんと雄吉が搭乗した飛行機でもあった。
この飛行機に乗って、雄吉は、死んだのか・・・。飛行機と一緒に、爆弾として、敵の艦隊に体当たりして、爆発して。
この飛行機のプラモデルを孫へ贈った祖父の気持ちとは、いったいどんなものであったのだろうと思う。特攻出撃して見事御国の為に命を捧げて散華した兄貴のことが誇らしくて、それで孫へプレゼントしたのだろうか。それとも、兄を戦争で失った悲しみを紛らわすためだったのだろうか。もしかしたら、兄の命を奪った国への怒りと恨みが込められていたのだろうか。今となっては、何が真意なのかわからない。
もう一度、雄大は大きく深呼吸する。そして席を立ち、自室を出て行った。
自室に居てもとても落ち着けられそうになかったから、これ以上居たくないと感じたのだ。気晴らしになるのかどうかはわからないが、自室以外で過ごせる場所と言ったら、リビングくらいしかこの家には他になかった。
リビングまで来ると、すでにパートに出掛けていた母が帰宅しており、晩ご飯の支度を始めている様子だった。
美恵子「あら、雄大。」
雄大「おかえり。」
リビングに入る前から気が付いていたのだが、母が流したのだろう、ノートパソコンから松任谷由実の曲が流れていた。母が好きな歌手の一人でもあるユーミンの曲は、時々CDから曲をノートパソコンに取り込んで流していたのだ。何という曲名なのか知らないが、しっとりとしたバラード調の曲だった。
ソファーに腰を下ろしながら、ユーミンの曲に耳を傾けてみる。普段は真面目に聞いてみることはほとんどなかったが、今はなんとなく、このバラード調の曲が心を優しく包み込んでくれているように快く感じるのだ。
3年くらい前に母が買ったアルバムだっただろうか。一度試しにしっかり全曲聞いてみようか。
そんなことを考えていると、美恵子が料理の手を止めて雄大の傍へ寄ってくる。
美恵子「雄吉くんは、行ってしまったの?」
普段のペースで話してくる母の言葉だった。特に深刻そうだったり、心配そうな感情はあまり含まれていないだろう。ちょっと聞いてみようか。そんな口調だ。
雄大「あぁ。」
面倒くさそうに、素っ気なく応えてやる。
美恵子「そう。」
一瞬、母の顔が曇った。それでも、すぐに笑みを浮かべながら話を続けてくる。
美恵子「いい子だったから、きっと神様は天国に導いて下さるわね。」
雄大「・・・・・」
雄大は何も言えなかった。
美恵子はもうそれ以上話すこともなく、台所へと戻っていく。
雄大が何も話せなくなってしまったのは、何も母の言葉に絶句してしまった訳では無かった。たまたま、ノートパソコンから流れてくるユーミンの曲の歌詞に、“あなたに会えてよかった”とあったため、雄吉と出会えてよかったという気持ちと重なってしまい、涙が溢れそうになってしまったからだ。
しばらく黙って気持ちが落ち着くまで待っていると、曲は終わり、次の曲が始められていた。イントロでピアノの軽快な響きが流れたと思ったら、ユーミンの声が響き始める。
この曲は聞き覚えがあった。2年ほど前に上映された有名なアニメ監督作の映画の主題歌だったからだ。しかし、歌詞をしっかりと気にして聞いたことは無かったので、冒頭の歌詞に雄大は引き込まれていく。
その歌詞はまるで、雄吉たちのような飛行兵の出撃を表しているような内容だったのだ。もちろん、ユーミンがその場面を想定して作詞した訳では無いだろう。だが、今の雄大には、その歌の歌詞がどうしても雄吉のことを詠っているようにしか思えなかったのだ。
そうだよ。
聞けば聞くだけ、雄吉のことを想像する。
その時が若すぎただけ。
“けれど幸せ”という言葉が流れてくる。
そう言って、空を駆けていった・・・。空に憧れて、空を駆けて行って、ひこうき雲になったんだ・・・。
曲が終わる頃には、雄大の眼からは燦燦と輝くものが溢れ、流れ落ちていた。
美恵子「ねぇねぇ。今日の晩御飯、お昼の残りでも良いかしら?」
突然美恵子が台所から出てきて雄大に話かけてきた。しかし、様子が変わっている雄大を見て、美恵子も変だとすぐにわかったのだろう。突然口調が変わる。
美恵子「ちょっと、どうしたの?」
自分の涙を発見して心配になったのだろう。
雄大はじっとしていられなくなり、その場から逃げ出すようにしてリビングを出ていく。走って自室の襖を開けて中へ入り、固く襖を閉める。そして、布団のところへと飛び込む。
すぐ横には、雄吉が朝起きてすぐにきちんと畳んだ布団と、彼がこの家で過ごしていた間に使っていた衣服の替えなどがしっかりと折り畳まれた状態で置かれている。その服の上に、雄大が雄吉に譲ってやり、出掛ける際は必ず着用していたあの野球帽が置かれていた。
雄大はその野球帽に手を伸ばし、じっと正面を見詰める。
雄吉が嬉しそうにこの帽子を雄大から受け取る場面や、出先で雄吉と会話する際に見れたこの帽子を被った雄吉の姿が思い出され、雄大の眼にはさらに涙があふれてきた。
そして、雄吉の形見とも言えるこの帽子を胸に強く抱きしめながら、雄大は声を上げて泣き出す。
雄吉!!
お前が出撃の前夜、家族や友達ともう会えなくなるって苦しんだみたいに、残された俺たちだって悲しくて苦しくて、辛いぜ。
残された者が哀しみ傷つき、隊員たちは残す者をそう思わせてしまうことに憂いて苦しみ、また涙することを雄大は知ったのだった。
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