9-3
「ただいま!」
人生が始まってから、何度目の“ただいま”だろうか。
ふと、そんなことを考えてみる。
家に帰ってきたならば、当たり前に発する何の変哲もない言葉なのだが、これがもし、人生において最後のことだと知ってしまったら、いったいどういう気持ちで“ただいま”を言ったのだろう。まだまだそんなことは先の事だろうし、当面はこの家に戻ってきたときに言わなければならなそうだが。しかし、それは自分自身の立場で考えての話だ。
目の前で今、“ただいま!”と元気よく言い切った青年は、そうではない。
本当に、これが最後の“ただいま”になってしまうことだろう。きっと、このあと彼が出掛けることはない。いや、正確には、この家を出てしまったらもう二度と戻ることは無いという意味だ。
雄吉・・・、次にお前がこの家を出るとしたら、きっとそれはあの世へ往くときなんだろうな。
そう雄大は、家の廊下を共に歩く雄吉の背中を見詰めながら思う。
「13時40分。それが、僕が生前、最後にこの日本の大地から飛び立った時間だった。」
彼は昨晩、そう言ってきた。そして、こう続けた。
「だから、きっと僕は、明日往くんだ。ううん、出撃する。13時40分に。」
午前中に地元の町を歩いては、各所に転がる思い出たちを見つけ、丘に登って故郷の姿をしっかりと脳裏に焼き付ける、謂わば出撃前の儀式を済ませた雄吉に付き添って、ようやく自宅に戻ってきた。
厚い雲に空一面が覆われたすっきりしない曇り空で、太陽こそ直接照り付けてはいなかったが、真夏の横浜の街はやはり暑い。お昼前でも気温は30度を優に超えていそうな感じだ。家に帰ったならば、早々にシャワーにでも入って気持ち悪いほど噴き出した汗を洗い流してしまいたい。
だが、それはもう少しお預けになるかもしれない。
雄吉の後を追うようにしてリビングまで来ると、そこには何とも言えぬ食欲を大いに誘ってくるいい香りが漂っていたからだ。
雄吉がサッと振り向いてとても愛らしい笑みを見せてくる。
雄吉「この匂いって、唐揚げの匂いだよね?」
餌を待っている子犬のような笑顔だな。そんなことを感じながら、雄大も食欲を誘ってくるこの香りの正体をしっかりと認知する。
雄大「そのようだな。真昼間っから母さんったら、珍しいな。」
唐揚げと言えば、普段ならば昼食に上がることはほぼ皆無で、むしろ夕食のメインディッシュとして作ってくれる料理であった。それが、この日は珍しく昼食に作っている。
そうかぁ。雄吉の最後の飯のために、作ってやってるってことかな。
それにしても、雄吉の奴、やけに嬉しそうな顔してるな。
雄吉がゆっくりと台所へと歩いて行くのを見守る雄大だったが、すぐに気付いたように雄吉を真似て台所へと急ぐ。
案の定、母の美恵子は唐揚げをせっせと揚げている真っ最中だ。
雄吉「すごい! また唐揚げだ!!」
美恵子「きっと、雄吉くんが喜ぶと思って、たくさん作ってるからね。いっぱい食べていって頂戴ね。」
雄吉「はい! 頂きます!」
美恵子「すぐに出来るから、手を洗って待っていてね。」
雄吉「はい! ありがとうございます!」
元気よく返事をする雄吉だった。すると、雄吉は軍隊の隊列でも組んでいるかのような、とてもきびきびとした鋭敏な動きで回れ右をして、雄大と対面してきた。
雄吉「ほらほら、手を洗いに行きましょう!」
雄大「なんだよ、それ。」
雄吉「いいから、いいから。」
ヘラヘラ笑いながら話す雄吉に雄大も頬が緩み、雄吉に背中を押されながら洗面所へと歩く。
廊下を洗面所に向かって歩いて行く中、雄大には不思議に思うことが湧いてきた。それは、雄吉の好物が唐揚げであることを、どうして母は知っているのだろうか?ということだ。
俺が知らないところで雄吉が唐揚げを食べる機会があったのだろうか。その際には、母も同席していたということなのか?
考え込んでいても仕方ないことなので、雄吉に直接聞いてしまおうと思う。
雄大「唐揚げ、どこかのタイミングで食べたことあったのか?」
洗面所の水道で手を洗いながら雄大が話を切り出した。
雄吉は唐揚げに敏感に反応していた。匂いを嗅いですぐに唐揚げかと笑顔で気付くということは、唐揚げと言う料理を知っており、尚且つ好物でなければ不自然だ。雄吉が生きていた70年前にも唐揚げがあったのなら、もちろん雄吉も何度でも唐揚げを口にしていたことだろうが、雄大のイメージとしては肉よりも魚を多く食べる時代だったように思う。だから、雄吉が唐揚げを知っているということに、どこか違和感を覚えてしまうのだ。
雄吉「うん。3日前のお昼ご飯に出してもらったんだよ。」
雄大「3日前。」
雄吉「ちょうど雄大が大学で授業がある日だよ。」
雄大「あぁ。」
なるほど。だから自分の知らないところで雄吉が唐揚げを食す機会があって、それで唐揚げのことを知っていたということか。
そう雄大は解釈して、腑に落ちた感触を覚える。
雄吉「けど、この時代にやってくる前にも、一度食べたことがあったよ。」
雄大「へぇ~。唐揚げって、70年も前からあったんだ。」
雄吉「うん。でも、この時代ほど当たり前に食べられるものじゃなかったけどね。家で食べられるなんて、到底信じられないことだったよ。」
雄大「そうだったのかぁ。この70年の間に、食の文化も大きく変わっていったんだな。」
頷きながらゆっくりと手元で膨らんだ泡を流していく。
雄吉「それより、早く代わってくれよ~。唐揚げ冷めちゃうだろ~。」
雄大「わかったよ…。」
苦笑いしながら水を切る。雄大が洗面台の前から退くと、雄吉はニコニコと笑いながら手を洗い出す。
そんなにすぐ唐揚げ食べたいのかよ?
子どもが好物の料理を前にしたときの、澄み切ったほどの純粋無垢な笑顔だ。見ているこちらまで情けなく頬が綻んでしまいそうなほどだ。
思えば、雄吉と一緒にいたこの9日間、ことあるごとにこの真っ直ぐな雄吉の笑顔を見てきたように感じる。実直に、ひたむきに生きてきた雄吉らしさが溢れているような感じだ。
この笑顔も、今日を最後に見られなくなってしまうなんて…。
午後の頭上から差し込んでくる日差しを燦々と受けたお昼ごはんが並ぶ食卓を、雄大は雄吉と美恵子の3人で囲む。
お昼ごはんからこんなに盛り沢山なこと、自分の経験の中でどれほどあっただろう。
雄吉を無邪気な笑顔にさせた唐揚げの山を中心に、他にも鯛とマグロの大トロの刺身、野菜の煮物、海老とインゲンとニンジンの天ぷら、キュウリとナスの漬物、鰻の蒲焼き、これまた雄吉が好物だと言っていた鯖の塩焼きと茹でたトウモロコシがどっさりと並ぶ。それに加えて、お櫃に盛られたちらし寿司にお吸物まである。
雄吉「こんなに、たくさんも…。」
あまりにも料理の品数が多すぎたためだろうか。それとも料理の豪華さに圧倒されたからだろうか。
雄吉はリビングに戻ってテーブルの上の料理を見た瞬間、呆然と立ち尽くしてしまったのだ。
雄吉「本当に、ありがとうございます!」
そう言いながら、雄吉は頭を下げていた。
普通であれば、無邪気な笑みで笑いながら弾んだような声でお礼を言ってたであろう雄吉が、この時は真顔で真剣そのものの勢いが溢れていたように、雄大には思えた。
きっと、最後にここまでの料理を振る舞ってくれた想いに感無量であったと言ったところなのだろう。
美恵子「どういたしまして。さ、早く、冷めないうちに食べましょう。」
雄吉「はい。」
雄吉が小さく返事したのを聞いてから、雄大はゆっくりと席に着いた。雄吉も、すぐに隣の椅子に座る。そんな様子を眺めるように見ていた美恵子も着席すると、率先して唐揚げに手を伸ばしてきた。そうすることで、雄吉に自分のペースで箸を付けてもらおうとしたのだろう。雄吉に先を譲れば、色々な想いに浸っている雄吉に気を遣わせることになるからだ。そう解釈した雄大も、遠慮しないでインゲンの天ぷらへと箸を進める。本当はエビ天を食べたかったのだが、そこは遠慮した。
とても全部食べ切ることは無理だということを実感させられながら、箸を進ませてから早くも10分ほどしただろうか。
未だにテーブルの上の彩り豊かな皿に盛られた料理は底を見せることなく、尚も見る者の食欲を誘惑してくるほどに残っている。雄吉が大好物だという鶏の唐揚げですら、まだまだ山盛りの状態を維持していた。
あんまり、箸が進んでいないみたいだな。
隣に座わる、やけにゆっくりと食べ続ける雄吉が手にした茶碗に視線を送りながら、そうなことを思う。
まぁ、無理も無いよな。きっとこれが、この世で食べる最後の食事なんだろうし・・・。食が進まないのは当たり前か。
先に雄大は茶碗によそられたちらし寿司を全て平らげ、麦茶を一杯飲み干した。隣では、雄吉が動画のスロー再生のようなペースで鰻の蒲焼きを一切れ、口へと運んでいる。
そうな様子を、母と共に凝視してしまった。
美恵子「雄吉くん。」
美恵子に声を掛けられて、雄吉は我に返ったようにビクンと驚き、美恵子の方を慌てた様子で見る。
雄吉「は、はい!」
美恵子「もし、お腹いっぱいだったら、無理して食べなくても良いのよ。」
雄吉「い、いえ・・・。無理だなんて、そんなことないです。」
困った顔を見せながら雄吉は話していた。そんな様子から、雄吉が最後の食事にどこか心を詰まらせていることが雄大にははっきりとわかった。きっと母も同じなのだろう。困惑する雄吉に、優しげな笑みを送っている。
美恵子「少ししか食べられないかもしれない。だから、雄吉くんが好きな物だけをいっぱい作って揃えようとしたのよ。最後に好きな物を、ちょっとでも食べられたら、最後にあれ食べたかった、なんて思うこともなくなるじゃない?」
雄吉「そんなことまで考えて、作ってくれてたんですね・・・。」
雄吉は美恵子の思いやりに感極まったのか、俯いてしまった。それでも、ほんの数秒間ほどで頭を上げて、満面の笑みを湛えて美恵子のことを見つめる。
雄吉「本当に、ありがとうございます! すごく嬉しいです。」
美恵子「どういたしまして。食べたいだけ、好きに食べてね。」
雄吉「はい!」
元気よく言い放った雄吉は、先ほどまでの重々しいペースを忘れさせるほどに、ガツガツと唐揚げや天ぷらを頬張り始めた。美恵子の気持ちを全力で受け止めているつもりなのだろう。
雄吉「こんなに美味しい鯖の塩焼きは、初めてかも。」
ふとそんなことを零していた。
最後に一番美味い鯖が食えて良かったな。
心の内で、ホッとするように呟いていた。
結局、それからの雄吉は、この9日間の中で最高の食いっぷりを見せていた。
鯖の塩焼きに鰻の蒲焼き、刺身に天ぷらは完食しており、盛り盛りにいっぱいに積み上げられていた鶏の唐揚げについても残すところあと五つだけといった具合だ。その大部分が雄吉によって食されたとあっては、華奢な身体の雄吉の胃袋とやらはなかなかに恐ろしいものである。
食後のお茶もしっかりと一服してから、一息。そして、「ご馳走様でした!」と美恵子に言う雄吉。そんな雄吉の様子に、美恵子はどこか満足そうな表情を見せている。自分でこさえた馳走を元気よく「美味しい」「美味しい」と言いながらたくさん食べてくれれば、それはそれは嬉しいことこの上ないだろう。だが、雄大にはそれに加えて、ある人の人生における最後の食事を作り、満足行くまで食べてくれたことに感激しているからだと思えるのだ。
もしかしたら、70年前の戦時中の、出撃前に特攻隊員をお祝いしてあげた人たち、見送る側の人の気持ちと同じかもしれないな。
そんなことを雄大が感じているときだった。
美恵子が「さてと」と言いながら席を立ったのだ。
そろそろパートに出なければいけない時間だろうか。
美恵子「そろそろ支度しないとね。」
やっぱりそうか。こんなときくらい、休んでも良いのに。
その気持ちが正直に口から放たれる。
雄大「今日くらい、誰かと代われないのかよ? 雄吉の門出だぞ。」
美恵子「わかってるわ。でも、中野さんのピンチヒッターで入れたシフトだから、もう変えられないのよ。」
雄大「・・・・・」
あまり見たことも無いくらいの切なさと哀しさが滲み出た母の顔を、初めて見たような気がする。だから、もう一言二言言おうとしたのを寸前のところでやめたのだった。
目の前に並べられていた食器たちが、みるみるうちに美恵子によって片付けられていく。気付けば、あれだけたくさんのメニューを飾っていた皿がテーブルの上から消えており、それと同じくして美恵子の姿も台所へと移っていた。
雄吉「忙しいのに、あんなにたくさんのご飯を作ってくれたなんて。」
椅子に座ったまま、台所で食器を流しに置きつつ汚れを水で落とす美恵子の様子を眺めながら、雄吉は独り言のように呟いてきた。
きっとそれが、
雄吉「優しいお母さんだよ。本当に、優しいよ。」
雄大も雄吉を真似て母の姿を目で追ってみる。忙しなく皿をシンクへ置く作業を進めている。その作業も終えたようで、今度はそそくさと台所から出てきては、雄大と雄吉の横をすり抜けてリビングを出て行ってしまった。
母が横を通り過ぎるとき、「なにジロジロ見てるのよ。」と言われ、雄吉と二人で笑ってやった。
眩しくて、思わず目を閉じてしまいたくなるほどの陽光が射し込んでくる12時のリビング。
点けっ放しにしてあるNHKのテレビ放送から、正午を告げるニュースが流れ出す。
雄大が視線をテレビの画面に向けると、画面の左上には間違いなく12時を表す0:00の文字の羅列があった。
もう、12時か・・・。あと、1時間半くらいで、雄吉は、旅立ってしまう・・・。
隣の椅子に座ったまま、雄大と同じようにテレビのニュースに視線をやっている雄吉の方を見て、ふと思う。
きっとそれは、雄吉にしかわからないことなのかもしれない。自分の終わりが決められて、その時をまもなく迎える瞬間を経験しなければならなかった、特攻隊員にしか、はっきりとしたものは掴めないのだろう。
テレビ画面に釘付けだった雄吉の視線が雄大へと向けられ、そして少しはにかむ笑みを浮かべてくる。
雄吉「お母さんとも、もうお別れなんだね。」
はにかんだ笑顔の中に見せる、雄吉の寂しそうな瞳は、間違いなくこれから訪れる死そのものに対する恐怖と哀愁、憂いに
何も言えずに黙っていると、雄吉は視線を雄大から日差しがコンコンと入ってくる窓へと向ける。
何も、言えねぇよ。何も・・・。
こんなとき、何て雄吉に返してやれば良かったのか、雄大には分からなかった。まだまだ、ようやく大人になれたばかりの若造には考え至らないものなのだろうか。それとも、死を直前に迎えた者でなければ解せないものなのか。むしろ、雄吉と同じくして飛び立つ運命にあった特攻隊員でなければ通じ合えないことなのかもしれない。
たった一歳しか離れていないのに、どうしてこんなにわかってあげられないことばかりなのだろう。雄吉だって、俺と同じくらいしか生きてないはずなのに、どうしてこんなにわからないことばかり抱え込んでいるのだろう。
何も声を掛けられないもどかしい気持ちを抱えたまま、無機質に流れてくるニュースキャスターの言葉を聞き流す。
間もなく、リビングへやって来る足音が聞こえだす。美恵子が外行きの支度を済ませて、リビングのソファーの上に置き去りにされていたカバンを取りに来たのだろう。
母さんのパートに出掛ける合図だ。
そう咄嗟に感じながら、リビングの中を歩く母の姿を目で追ってみる。
案の定、母はどこへも寄り道することなくソファーへと向かい、カバンを手にしてから再びこちらへと歩み寄ってくる。
雄大「出発するの?」
美恵子「そうね。」
美恵子の声を聞いて、雄吉が機敏に反応する。
雄吉「見送ります!」
どこか必死な形相の雄吉に対し、美恵子は穏やかに笑いながら返してくる。
美恵子「ありがとう。」
そのまま雄大も雄吉に釣られるようにして、玄関まで美恵子の見送りに出ていた。
玄関の扉に手を掛けた美恵子は、その手を一度離して振り返って見送る雄吉のことを見上げてくる。
美恵子「雄吉くん。一緒に居れた日々、楽しかったわ。ありがとうね。」
雄吉「はい。僕の方こそ、突然やって来てしまったのを温かく受け入れて下さって、その上親切にしてくれて。ありがとうございました!」
きれいなほど背筋がまっすぐに伸びた礼を雄吉はしていた。
雄吉「お料理もたくさん作って頂いて、美味しかったです。」
美恵子の頬が
美恵子「ありがとう。雄吉くんのお陰で、いろいろ私も気が付くことがあったわ。家族みんなが平和に暮らせることの有難みを、気が付かせてくれた。本当に感謝してるわ。」
雄吉「そんな・・・、僕は、ただ・・・」
そのとき、美恵子は一歩踏み出してきた。そして、そのまま雄吉のことを抱き締めていた。最初は何事か解せぬ様子で困惑の表情を見せていた雄吉だったが、すぐに返すように美恵子の肩を抱き締める。
美恵子「本当は、今日でお別れなんて、信じたくなんて無いわ。あなたのことも私の子どもみたいに。ううん、あなたも私の子どもにしたいくらいだわ。」
雄吉の腕に力が篭もるのが分かる。
雄吉「お母さん・・・。」
両目を瞑りながら呟く雄吉だった。
実際の特攻出撃の前に、実の母と抱擁を交わすことは叶わなかったが、きっと今、雄吉は母との別れの礼を果たしたのだろう。
そんな雄吉の背中を、二、三度優しく叩くと、美恵子は雄吉から離れて向き合う。
美恵子「お盆休みには、絶対に帰って来なさいね。また鶏の唐揚げ作って、待っているから。」
雄吉「ありがとうございます。絶対に、ここへ帰ります。」
雄吉の返事を聞き届けてから、美恵子は「うん」と呟く。
美恵子「じゃあね。」
目元を軽く押さえながら、美恵子は翻って歩き出した。
玄関を出て行った美恵子の後を追うように、雄吉が二、三歩前へ出る。そして、深く頭を下げる。
雄吉「ありがとうございました。」
思った以上に静かに言い放っていた。
美恵子が自転車に跨がった状態で、またこちらをちらりと見てくる。雄吉がその姿を見るのを確認するかのように、美恵子は頷いて、自転車を漕いで公道へと消えた。
見送る相手が居なくなり、それでも尚、雄吉はじっと外を見つめている。
雄大「そろそろ、中、入るか?」
もう少しここで、雄吉の気が済むまで一緒に居ようかとも思ったのだが、今は真夏の正午で、外気は気持ち悪いほど纏わり付く湿気のジメジメした感触と焼けるような暑さを込めており、雄大はとても長居したくない気持ちが大きくなっていたのだ。
雄大の問いを拒否してくるかとも思ったが、雄吉は黙ったままだが意外にもすんなりと頷いてきた。
玄関の扉を固く閉ざす。
廊下へと上がろうとしたとき、雄吉は玄関に置かれた雄亮と美恵子のサンダルを眺めながら呟くように話してきた。
雄吉「最期に、もう一度、叶うことがあったとしたら・・・。」
雄大「うん?」
雄吉「母さんや父さんに、直接お会いして、お礼を言いたかった。これまでずっと、育ててくれてありがとうと。」
雄大「・・・・・」
雄吉「それから、謝りたかった。勝手に、特攻隊に行くと決めて、その報告が出来なかったことを。親より先に死に逝く親不孝を。」
雄大「・・・そうだったのか。」
だから、雄吉は最後、母に向かって“ありがとうございました”と、静かに言った訳か。きっと、母を自分の母親や父親の姿に重ねていたのだろう。そうして、生前の願いを叶えようとしたに違いない。
雄吉。お前は、特攻隊に行くと決めたときから最期のときまで、ずっと一人だったんだな。家族に会えることも、囲まれることも、一緒に過ごすことも、何もかも出来ずに、たった一人で、自分の死に向かい合って、そして、死んでいった・・・。
こんなに悲しいことってあるのだろうか。
居ても立っても居られなくなって、気が付いたら、雄大は雄吉の両手を握り締めて迫っていた。
雄大「俺は、ずっと
困惑する雄吉の顔が、すぐそこにあった。
そのとき、雄大は一気に正気に戻り、握り締めた雄吉の両手を離して一歩雄吉から引き下がる。
雄大「悪い、変なこと言った。」
何を言っているんだ、俺は。
そう後悔と反省の念に浸る。
雄吉はというと、穏やかに笑っている。気分を害してはいないのだろうか。
雄吉「ありがとう。そう言ってくれて、嬉しいよ。」
雄大「いや、まぁ、その、何だ?」
取り繕うこともまともに出来ずにいると、雄吉の眼差しが真面目なものに変わる。
雄吉「一緒に、居てくれるのかい? 僕の、最期のときまで。」
その目に切望の念を感じる。
雄大「もちろん。当たり前だろ。」
雄吉は頷いてきた。
雄吉「うん、ありがとう。さぁ、いよいよだ。」
いよいよだ。
そうだな、いよいよ、だな。
あと、1時間半もすればその時が来る。来てしまう。
いよいよだ。
雄吉「最後にさ、風呂入ってきても、良い? 町歩いて汗すごいからさ。」
雄大「もちろん。気持ち良い状態で、行こう。」
雄吉「うん。」
どこへ行こうとしてるのかは、敢えて考えない。だが、自然とその言葉が出てきてしまったのだ。
雄大「風呂沸かしてやるから、ピーピー音がしたら入れよ。」
雄吉「了解! ありがと。」
雄吉が風呂場へと向かって歩く後ろ姿を見詰めながら、雄大は思う。
禊ぎ落としのつもりかな?
今度こそ、納得のいく最期になるように、全力で協力しよう。
そう、雄吉の背中に向かって誓った。
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