1-2
家の中に入ると、雄吉は室内の様子をキョロキョロと見まわし始めた。
雄大「どうした?」
雄吉「いや、中も、記憶しているものと違うなと思ってしまって。」
美恵子「確か・・・、この家は、前の家が空襲で焼けたあと、終戦からしばらくしてこっちに戻って来てから建て直したって聞いているわ。」
雄吉「空襲って?!」
また驚愕の表情を見せていた。
美恵子「え、えぇ。」
美恵子は一瞬、雄大と顔を見合わせた。
横浜大空襲。
1945年、昭和20年の5月29日。
昼頃、アメリカ軍の大型爆撃機B-29が横浜の上空に突如現れ、市街地を爆撃した。当時栄えていた場所を集中的に爆撃されたため、1万人近くの市民が死亡したほか、横浜市沿岸部のほぼ全域が焼け野原へと化した。
雄大「昭和20年の5月29日に、横浜はB-29に爆撃されたんだ。この辺りも爆撃されたみたいで、それまで住んでた家は全部焼けてしまったって聞いているぞ。」
雄吉「5月29日・・・。そっか! 横浜の方で大変な空襲があったって言ってたやつか! この辺りも被害が出てしまっていたなんて・・・。わかっていたら、手紙の一つでも書けたのに・・・。でも、もうそんな時間も、僕には残されていなかった・・・。それが、悔しい。」
右手を額に当てながら、雄吉は項垂れた。相当なショックだったのだろう。横浜が空襲された事実は聞いておきながら、その詳細については知れずに過ごしてしまった行いに憤りを感じているのだろうか。
雄大「アンタが特攻したのって、いつだって言った?」
雄吉「6月6日です。」
ライバルとの試合に僅差で負けたような、強い悔恨を滲ませた視線のまま雄吉が見上げてきた。
雄大「もうほとんど直前だったんだな。空襲されたのと、アンタが特攻したの。」
雄吉「・・・・・」
雄大「きっと、アンタが特攻して敵の軍艦を沈めたっていう報せが届いて、空襲された恨みが晴らせたって、みんな喜んでたんじゃないか?」
雄吉「・・・そうだったら、良いんですけど・・・。」
美恵子「幸い、誰も死なずに、怪我することもなく、空襲を乗り切ったみたいだったわよ。」
雄吉「そうですか。それなら、良かったです。」
雄吉はまだどこか心穏やかな様子にはなれそうになかった。やはり故郷が空襲されて家を焼かれたという事実に、ショックを隠せなかったのだろう。
そんな様子の雄吉であったが、ハッと思いついたように顔を上げた。
雄吉「そうだ! 雄造! 雄造は、どうしてます?」
雄大と美恵子はもう一度顔を見合わせた。
話しても良いことなのだろうか。しかし、こればかりはすぐに知れてしまう事だ。コソコソ隠すことの方が、彼を傷つけるかもしれない。
雄大「じいちゃん、海村雄造は、10年前の2005年に、74歳で亡くなったよ。」
雄吉「亡くなった・・・。」
雄吉の肩が下がるのを、雄大と美恵子はしっかりと見ていた。
雄吉は視線を下に向けたまま、小さな声で話し出した。
雄吉「それも、そうか。可笑しなことでもない。70年も経ってしまっているんだから、あの頃14だった雄造も、天寿を全うしていても何も可笑しくはないんだ。それより、74歳まで生きられたことの方が、喜ばしいこと、だよね。」
雄吉は明るい顔を見せながら頭を上げてきた。その表情はまるで、70年という長い時の流れを実感しつつも、本来ならば存在し得ない自分自身の中にある時間の感覚に対し皮肉を感じているかのようであった。
美恵子「向こうに仏壇があるから、良かったら手を合わせてあげて頂戴ね。」
雄吉「はい、そうします。」
雄大「案内、するよ。」
玄関を上がると、雄大は雄吉を仏壇の置かれた奥の和室へ案内した。
その仏壇には、祖父と祖母、それから他にも何人かの遺影と位牌が安置されている。
あまり気にして見たことは無かったが、もしかしたら雄吉の位牌や遺影が飾られているかもしれない。普段はあまりこの仏壇の前に座して手を合わせて拝むようなことの無かった雄大は、久々に仏壇の前に膝を付いた。そして、遺影の中から雄吉の物であろうものを探す。
んん! あの写真だけ、なんだか若い人が写ってるな。
じっと見つめているうちに、その写真の被写体が今まさに隣に正座している青年の顔にそっくりであったことに気が付いた。
雄大「あ!」
そう言って、雄大はその遺影を手に取って背中へと隠す。
雄吉「なんでそんなことしてるんですか?」
雄大「いや、なんていうか、この写真の人物をここに置いておくことが、不適切というか。」
なんとなく言葉の意味を悟ってくれたようで、雄吉は苦笑いしてきた。
雄吉「気にしないでください。僕はもう、とっくに死んでいることになっているはずですからね。それよりか、長年ずっと僕のことも供養して下さって、嬉しいです。」
雄大「あ、はい。」
まさか、遺影の人物から供養されていることを直々に感謝されることになるとは。
こんなこと、有り得ないことだよな、普通。死んだ人間を供養してるのに、供養の対象になっている人から直接喜びの声を聞くなんて。
雄吉「それにしても、自分のことを供養して下さって嬉しいですって言葉、自分で言っておいて難ですけど、可笑しな言葉ですよね。」
雄大「全くだよ。」
雄吉が明るく笑い出したのにつられるようにして、雄大も笑っていた。
まもなく雄吉は、いくつかある遺影の中から3つほど手に取ってまじまじと見つめ出した。
一つは、白黒写真で老婆が写っている。
この写真、確か曽おばあちゃんのものだよな。つまり、雄吉の母親ってことか!
雄吉「お母さん・・・。」
笑っていた顔から一変、急に雄吉は涙を滲ませ始めた。
もう一枚の写真は、これは曽爺さんのものだった。
雄吉「お父さん。・・・ずっと、最期に一度お会いしたいって思っていました。叶わぬ夢だと諦めていましたけど、まさかまた再び、二人の顔を見ることが出来て、雄吉は幸せにございます。」
両親の遺影を見詰めながら涙を浮かべる雄吉の様子を眺めながら、雄大は思うことがあった。
この自分と同じくらいの年の青年は、どんな覚悟をして特攻出撃したのだろうか。出撃してしまえばもう、二度と戻ることはない特攻隊の一員として、機上の人になる。まだまだ先が続くはずだった人生の終わりがすぐそこに見えておきながら、最期に一度会いたいと思う人にも会えず、御国の為と心得て離陸するその覚悟とは、いったいどれほどのことだったのだろう。
俺には、真似できないよ・・・、そんなこと。
雄大は真っ先にそう感じた。
そう感じてさらに思うことがあった。
コイツは、すげぇな。俺とほとんど年が同じなのに、俺以上の覚悟と意志と、強さを持っている。勇敢に敵の艦隊に突っ込んでいく、死ぬのがわかっていながら飛行機に乗って飛び立っていったコイツは、本当にすげぇな。
怖さとか、哀しさとか、こんな時代に生きていたことへの虚しさとか恨みとか、そういうものって、無かったのかな?
そんな諸々の想いが溢れてきたとき、雄吉は右の袖で両目の涙を拭い去った。
そして、穏やかな笑みを浮かべながら雄大のことを見てきた。
雄吉「ごめん、ちょっと、堪えきれなくて。」
雄大「別に、謝らなくても。やっと会いたかった両親の顔を見ることが出来たんだろ。泣きたいだけ泣いたっていいんだぞ。難なら、俺、出てくよ。」
雄吉は笑みを見せたまま首を横に振ってきた。
雄吉「男たるもの、涙は他人に見せぬもの。もう、大丈夫だ。」
雄大「それなら、いいけど。」
雄吉は両親の遺影を元の位置に戻し、最後の一枚を見詰めた。
雄吉「雄造も、最後はすごい貫禄あるジジイになっていたんだな。」
思わず雄大は笑ってしまった。
雄大「それはそうだぜ。この写真、たしか70歳のときの誕生日の日に撮った奴だったしな。」
雄吉「そうだったのかぁ。」
雄吉は雄造の遺影も元の位置に戻すと、ようやく線香に火を点けた。
手を合わせながら黙祷する雄吉を横目で見ながら、雄大は思う。
今、コイツはどんな思いで手を合わせているのだろう。
生前に叶わず再会することも出来なかった家族の魂に向けて手を合わせる。
おそらく一番先に亡くなってしまった家族の一員だったのに、そんな彼が家族の御霊を供養する。そんな矛盾を、どう受け止めているのだろうか。
そんなことを気にしながら、雄大も久しぶりに先祖の御霊を拝んだ。目前の仏壇に並んだ位牌に魂が込められたはずの人物と一緒に。
家族への挨拶が済んだ雄吉を、雄大はリビングへ連れて行った。
すると・・・。
雄吉「何ですか、あれは?」
部屋の奥にどっしりと構える大画面の液晶テレビを指差しながら、雄吉は驚きよりも興味関心を前面に出したような、無邪気な笑みを浮かべながら話してきた。
雄大「あぁ、あれはテレビだよ。」
雄吉「テレビ? テレビって、もしかして映像が映るっていう、あの噂の箱ですか?」
雄大「よくわからんけど、映像が映る機械なのは確かだよ。付けてみるか?」
雄吉「はい! ぜひ、お願いします!」
子どもがお菓子を貰えるのを喜んでいるような、キラキラとした眼差しだった。
雄大「それよりさ。さっきからずっとアンタ、言葉が堅いぜ。」
雄吉「え?」
あまり堅苦しい言葉でのやり取りには慣れていなかった。慣れていないというよりも、会話する度に疲労感を感じてしまう。出来ることなら普通に話がしたかった。仮にも、この青年とは自分とほとんど年が変わらない訳だ。“タメ語”で話しても許されるだろう。
雄大「俺とほとんど年は変わらないんだろ?」
雄吉「え、まぁ、たぶん。」
雄大「俺は今年で21だ。アンタは22だろ。だったら、そんな堅苦しい言葉で話さなくてもいいんだぞ。たとえ俺のじいちゃんのお兄さんだったとしても、俺と同じくらいならもっと友達のような感覚で話せるほうが気が楽なんだけどさ。」
雄吉「わかったよ。じゃあ、普通に話すよ。」
雄吉の表情から緊張感が消えたような気がした。
雄大「俺のことは呼び捨てで、雄大でいいから。俺もアンタを雄吉っていうからさ。」
微笑みながら言ってやった。すると、雄吉もニコッと笑って答える。
雄吉「わかったよ、雄大。」
雄大「頼んだぜ、雄吉。」
お互い、照れながら微笑んでいた。
雄吉「それより、早くテレビつけてよ。」
雄大「そうだった。」
雄大はテレビの手前に置かれたこたつの上にあったリモコンを取ると、早速テレビの電源を入れた。
すぐにテレビの画面が光り出し、夕方のニュース番組が映し出された。公共放送という枠組みからか、しっかりと正装した男女のキャスターがデスクの前に並びながら、とあるニュースの件について話をしている様子がそこに現れたのだ。
雄吉はそんなテレビに近付いて、舐めるように画面を見ていた。
雄吉「すげぇ。色も付いてるし、動いているし、音も聞こえてくる! すげぇ!」
そんな純粋にテレビの機能について感服している雄吉を傍から見ていると、どこか滑稽に見えてしまう雄大であった。
まだテレビが普及する前の時代を生きていた人が、突然この世界へやって来てしまったら、まずはこの間に起こった文明の進化の激流に呑まれて、何に対しても驚愕することだろう。
そうしていると、美恵子がリビングへやってきた。どうやら風呂を沸かしていたようだ。
美恵子「もうすぐお風呂が沸くから、雄吉さん、先に入っていらっしゃい。」
雄吉「え? いいんですか?」
テレビに向かい合った姿勢のまま、頭だけ美恵子の方へ向けて話していた。
美恵子「大変なお勤めをされてきた訳でしょ。一番先に入れてあげるのがせめてものもてなしだと思って。それに、いつまでもその服装じゃ大変でしょ。」
言われて気が付いたように、雄吉は自身の着ている服装をまじまじと見つめ出した。
きっと、特攻出撃をしたときの恰好のままなのだろう。戦闘機乗りの恰好で、小豆色と呼ばれる薄茶色のつなぎのような形状の服に、オリーブ色の救命胴衣を着けて、至る所が焼け焦げたような跡が出来ている。きっと突入の時の爆発で出来たものなのだろう。
雄吉「ありがとうございます! では、お言葉に甘えて。」
またまたいい笑顔を見せながら雄吉は礼を言っていた。
こいつは、なんだか真っ直ぐなんだな。
なんとなく雄大はそう思った。
美恵子「もう沸くと思うから、すぐに入れるわよ。」
雄大「風呂場はこっちだぞ。」
雄吉「うん。」
今度は風呂場へと雄吉を案内する。風呂場までの廊下を歩いているときだった。
雄吉「この時代だと、風呂はみんな自分の家に付いているものなのか?」
言われてみると、70年前の人が気にしそうな質問だと思う。
雄大「まぁ、それが普通だなぁ。雄吉の時代は、銭湯に行くのが普通か?」
雄吉「うん。」
雄大「今でも銭湯はあるけどな。中には温泉とかを掘って、温泉にも入れる銭湯とかも出来ているぜ。」
雄吉「温泉に入れる銭湯なんてあるのかぁ。温泉なんて、子どもの頃に綱島の温泉に連れて行ってもらったきり入ったことなんてないなぁ。」
懐かしい思い出に浸るような穏やかな眼差しになりながら雄吉は話していた。
雄大「今だと温泉は結構そこら中にあるな。」
雄吉「そうなのかぁ。」
風呂場の入り口まで来て、ドアを開ける。
雄大「ここが風呂場だよ。」
雄吉「うん、ありがとう。」
雄大「とりあえず、着替えは俺の物でもいいよな?」
雄吉「あ、うん。お願いするよ。」
雄吉を風呂場へ残し、雄大はひとまずリビングへと戻った。
アイツのサイズに合うかな? 俺の服で。
そう思いながら、雄大は自室のある二階への階段を上がりだした。
一方、雄吉はゆっくりと服装を解いていく。
なんだか、この救命胴衣を外すのも、久々な気がするなぁ。もう絶対外すことなんて無いだろうと確信していたのにな。
自然と笑みが零れてきてしまう。
至る所が焼け焦げてしまっている戦闘服を脱ぎ去り、じっと見つめる。
こんなに傷んでしまっていたなんて。それも、そうだな。機ごと爆発したんだし、焼けないでいる方が不思議だな。
風呂場へ入り、掛け湯をする。
そして、湯船へと浸かると、ホッとしてきた。
もう、敵の襲撃とか、時間とか、そういうこと気にしないで風呂に入れたのって、すごく昔のことだったよな。こんなに安心して風呂に浸かれたのは、戦争が始まる前の時以来だったかも。
思わず、はぁ~という溜息が出てしまった。
ゆっくりと、のんびりと湯に浸かっていられる幸福感が、とても新鮮だった。
この時代は、もう戦争なんてことはしていないのだろうか?
雄大と話している限りじゃ、あまり戦争に関連したそのようなことは無かったような感じがする。
平和になった日本、なのかな?
それとも、僕が生きていた頃ほど激戦になっていないだけで、まだ戦うこともあるのかな?
そういえば、雄大は今、何をしているんだろう?
僕と同じくらいの年だってことは、もう働いたりしているのかな?
それとも、大学へ行って、勉強しているのかな?
大学、かぁ・・・。
戦争さえなかったら、もっとしっかり、大学で勉強することだってできたのにな・・・。
募る思いを汗と共に流しながら、雄吉はまるで長旅の末にたどり着いた宿で疲れを癒すが如く、しっかりと風呂を堪能していた。
しかし、さすがに逆上せてきてしまったので、一度湯から上がって身体を洗うことにした。
雄吉「ん?」
視線の先に蛇口のようなものが並んでいる。
これは、この水道の蛇口かな?
もしかして、ここから直接お湯が出てくるのかな?
有り得るよ! だって、70年後の日本なんだもの!
そう期待を込めて、雄吉は蛇口を握りしめた。
その頃、リビングでは雄大と美恵子の親子で軽いやり取りをしていた。
美恵子「どう思う?」
雄大「どう思うって聞かれてもなぁ。」
美恵子「戦時中と今とじゃ、絶対に食べてた物も違うじゃない。」
雄大「確かに、当時は今ほど肉は食べられていなかったとは思うけど。」
今晩の夕飯について、美恵子が意見を呈してきたのだ。“今よりも肉を食べる習慣がなく、むしろ野菜や魚を中心にした料理にしてあげた方が雄吉にとっては食べ易いのではないか?”というものだった。
美恵子「それに、軍人さんな訳じゃない。きっとしっかり食べれる物の方が喜ぶかと思って。」
雄大「そこは気にする必要ないような気もするけどな。」
美恵子「どうしてよ?」
美恵子の訝しむような視線を受ける。何でわかるのかと言わんばかりの気迫すら感じる。
雄大「だって、確かにアイツは軍人だったけど、もう特攻して戦死してる訳だろ。もう軍人やってくことも無いんだし、無理にたくさん食べれるようにしなくても良いんじゃないかって思ってさ。」
納得がいったのか、美恵子の表情に穏やかさが戻る。
美恵子「そう言われてみるとそうねぇ。もう軍人でも無い訳だし、好きにしていても良い訳よね。だったら、好きなものを好きなだけ食べれるようにしてあげたいわね。」
元々面倒見の良い母親だった。だから、今回も雄吉のことをよく考えて思い付いた意見を言ってきた訳だ。それを否定するためには、必ず納得できる理由を付けてやらねばこの母親を説得することはできない。それは、長年生活を共にしてきた雄大にとってみたらよく知っている母の特性であり、時折その特性を利用して自分の思う通りに母の行動を誘導したりしたこともあったほどだ。とはいえ、雄大は母のこんな特性について嫌いではなかった。
雄大「後で着替え持って行くから、そのとき好物が何か聞いてみるよ。」
美恵子「お願いね。」
そんなときだった。
「ぎゃああああぁぁぁぁ!!!!!」
雄吉の声で絶叫が聞こえてきたのだ。
雄大「何だ!?」
美恵子「どうしたのかしら!?」
風呂場へと足を急がせる雄大だった。
風呂場の扉を開けると、白い世界がそこに広がっていた。そして、すぐにその白い熱気が身を包んで不快な感触を与えてくる。少しずつ、まるで真冬の野天の温泉の中にいるような熱気と湯けむりに満ちた空気が淡くなり、やがてシャワーの湯を避けるように、壁にピタリと張り付いている雄吉の姿がはっきりとわかるようになってきた。
雄大「大丈夫か?」
なんとなく、何がこの浴室で起こっていたのか想像できたが、雄吉はしっかりと事の詳細を話して来る。
雄吉「水道の蛇口をひねったら、最初は何も出てこなくて、隣の蛇口ひねったら突然頭の上から水が降ってきて、少ししたら水が熱くなっていて・・・。」
怯えながらも真剣な眼差しで雄大に訴えてくる雄吉だが、そんな真面目な姿とは裏腹に、どこも隠すこともなく無防備に全裸を晒してしまっている姿とのギャップに、雄大は笑いそうになるのを必死で堪えていた。股間を隠すことを忘れるほどに、雄吉は動揺しているということだろうか。それとも、普段から銭湯に通う生活をしていて、更に軍隊という共同生活の中に身を置いた者ゆえに、全身をさらけ出すことに慣れていて、そもそも男子同士ならばたとえ股間が見られようとも気にしない性格なのだろうか。いずれにしても、雄吉本人は裸(特に股間)を晒す恥ずかしさ以上に、初めて経験した現象を垣間見て戸惑っている訳だから、彼の立場を思えば笑うに笑えなかったのだ。
とりあえず、雄吉の訴えに沿って蛇口があるところを見てみると、確かに水の量を調節する蛇口が全開になっており、さらにその蛇口の隣にある、温度を調節するところも最高値になっていた。
これじゃあ熱いのは当たり前だ・・・。
とりあえず、シャワーを止めよう。
雄大はシャワーの湯を浴びないように風呂場の中へ入り、蛇口を閉じた。
シャワーの湯が止まり、雄吉は少しばかり安心した様子だった。
雄吉「すまない、こんなことになってしまって。」
雄大「いや、悪いのは俺だ。まともに使い方教えなかった。」
それから雄大は雄吉にシャワーと水道の使い方や、石鹸やシャンプーのことについて説明してやると、いちいち目を丸くさせながら雄吉は聞いていた。
風呂に入ってから行われている行動も、この70年の間に随分と変わっていたんだな。
改めて、雄大はそう感じだ。
最後にもう一度湯船に浸かっていた。
雄大に教えてもらったシャンプーやボディソープを使って身を清め、なんとなく未来の日本にやってきたことに実感を覚える雄吉だった。
僕は、本当に70年後の世界に来てしまったんだなぁ。
つくづくそう感じる。目覚めたら突然、この家の前に立っていた。辺りの光景も記憶のものとは全く異なっていたが、どことなく心の奥底で帰りたいと願っていた実家の前に立っていることだけははっきりと認知できた。だから玄関の前まで歩き、戸を開こうとまでした。そこで手が止まったのだ。
有り得ない。ここは故郷に似ているだけで、この家は実家なんかじゃない。
そう思う自分がいたからだ。
何故なら・・・
もう、僕は死んでいるはずだから。
敵の戦艦目掛けて、体当たりを決行した。
それは確かな記憶として、死ぬ寸前に強く刻まれたことだった。
しかし、だからと言ってこの家の前から立ち去るのも気が引けた。
無性に、この場所からもう離れたくないという気持ちが湧いてきたのだ。
もうどこにも行きたくない。ずっともう一度帰ってみたいと思って叶わなかった場所へ帰れたからだろうか。それとも、死んだ後くらい、自分の思うように過ごしたい場所で過ごしたいと感じるからだろうか。
悩むうちに、玄関の扉に背中を預けるようにしながら座り込み、項垂れていた。
去る決心も、玄関を開ける決心も付かぬまま時間だけが過ぎていくうちに、やがてこの家の住人が帰ってきてしまった。
雄大に声を掛けてもらった時、なんとホッとしたことだろうか。
お互い、自分の存在については完全に納得は出来ていないことだろう。それでも、70年後の世界を生きる子孫たちは、自分のことを受け入れてくれて、住まわせてくれると言ってくれた。
本当に、感謝しないとな。雄大にも、お母さんにも。
そう思いながら、雄吉は幸福感が胸いっぱいに広がるのを感じる。
いいのかな? もう死んでしまっている身の上なのに、十日近くもこの世に滞在させてもらっても。
湯船に揺らめく自分の顔を見詰めながら、そんなことを思ってみる。
せっかく70年後の世界にやってこれたんだから、この間に、この時代になってから出来たこととか知りたいな。未来の日本がどんな感じになっているのか、しっかり見聞してからあの世へ帰ろう。それで、戦友たちに伝えてやるんだ。きっとアイツら、聞いて驚くだろうな。
湯船に写る自分の顔に、自然と笑みが零れていた。
まずは、そうだな。70年後の日本だと、石鹸で身体も頭も洗わない。ボディソープっていう液体の石鹸を使って身体を洗うし、髪を洗うために適した作りになっているシャンプーっていう石鹸を使う。お湯だって蛇口をひねるだけで出てくる。ボタンを押すだけで風呂に湯が張れて、冷たくなった水を沸かすことも出来るようになっているんだぜ。すごいだろ!
そんな土産話を、かつて一緒に飛び立った仲間たちの顔を思い浮かべながら、雄吉は心の中で語り掛けていた。
愉快なもんだな。
そう思う。
思わず、笑顔になった自分の顔が反射する湯船を両手で掻き回した。
さてと、そろそろ出ようかな。
時間に追われずに、こんなにゆっくり風呂に入ったのって、いつだったかな?
そう思いながら、雄吉は風呂を上がった。
脱衣室に移り、身体を拭い終えた雄吉は、雄大が置いていってくれた着替えに視線を移していた。
せっかく身を清めたのに汚れた軍の服を着るのも気分が悪いだろと、雄大が着替えを貸してくれると言ってくれたのだ。
そこにあったのは、現代では何でもない、ただのジャージと下着であった。
しかし、雄吉にとっては見慣れない着物ばかりであった。
雄吉「・・・う~ん。」
綺麗に折りたたまれた着替えの一番上に置かれていた布を手に取り、広げてみたときに口から零れた言葉だった。
これは、この時代の猿股なのかな?
雄吉がこのとき広げている布、それは現代でこそ何の変哲もないボクサーパンツであった。
猿股なんてなぁ、子どものとき以来だなぁ。
戦前は、大人の男性の下着と言えば褌が当たり前だった時代だ。大人の男になった印として褌を着用する慣例が、当時の日本にはあった。雄吉もまた、当時の慣例にしっかり浸透しており、褌以外のものを下着として着用することは抵抗を感じていた。なにせ、猿股など子どもが着けるものという概念が真っ先にあったため、雄大が自分のことを子ども扱いして
とはいえ、先ほどまでずっと身に付けっ放しにしていたものをまた着用するのも気が引ける。
ここは、大人しく与えられた物を素直にありがたく着させてもらった方がいいな。
突然やってきた僕のことを受け入れてくれた訳だ。有難いことだよ。
猿股履くことくらい、小さなことだ。
そう決心して、雄吉は現代の猿股に袖を通した。
―――この後、雄吉は雄大も同じ形状の下着を着用しているところを目撃する機会を得て、そこでこの時代の男子は大人になっても褌を着用しないのだということを知り、自分たちの下着に対する概念が既に過去の物に変わっていたことを悟るのだった。
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