一輪のハナ

七志乃もへじ

ひとさし


   prologue


 間違えた、と思った。

 私がやっとの思いで咲いたその場所は、四方をやたらと背の高いビルに囲まれた、酷く薄暗い空間だった。

 木には土、ビルにはアスファルト。それがさも当然の道理であるかのように、地面は硬く冷たいアスファルトに覆われている。

 そこには私の他に草花のひとつも自生しておらず、まるで孤独の中心のようであった。いて言うならば、ここは暗がりと湿気のよどみといったところか。

 人が住まう為に作り出した、利便性に富んだ広大な面積。その中に生じた、必要とされない空間。つまり、副産物として切り取られた世界である。

 何故、私はこんな所に。

 ジメジメと湿った空気をまとい、私は自らを責めた。こんな所では、人目どころか太陽光でさえ浴びられないだろう。おりしも空は曇天。四角く切り取られた空が今にも泣き出しそうで、更に私を陰鬱いんうつな気持ちにさせた。

 きっとこの悲しみは、アスファルトの地面から吸い上げたものだ。もはや天を仰ぎ見るのが、馬鹿らしくすら感じられる。

 溜め息混じりにうつむき、ふと手元を見ると、私は自分がかなり痛々しい状態であることがわかった。多分、硬いアスファルトを割って芽を出した結果である。

 しかし、私は特になんとも思わなかった。そんなこと、とさえ思った。すなわち、どうでもよかったのである。

 私の体は、どうやら手元だけでなく、至る所が弱っているらしかった。時折、そよ風よりもゆっくりと通りすがる微風に散ってしまいそうだった。今や、すべてが私の脅威となりうる。

 私を囲むビルが、巨大なコンクリートの化け物に見えた。同じく、眼下に広がるアスファルトが、大地を抑えつけ支配する、怪物に見えた。きっとこの調子では、雨でさえ、私を腐らせる為に空から放たれた、無数の矢と感じることだろう。

 それでも私は、ことに怯えるでもなく、じっとしていた。最初から動けるわけではないから、そうする他ないのだが、そうしたのだ。表現でいうところの、立ち尽くす、という言葉がしっくりくる。

 その日、私は絶望なんかてようと思った。それしか、私がこの先やっていけるすべがないように思えたのだ。


  monologue


 やはり私の思った通り、ここは影と湿気のよどみであった。一日中いちにちじゅう空を見上げていても、そびえ立つ巨大な化け物に、日差しをさえぎられる。

 日差しが届かないということは、私が思った以上にかんばしくなく、絶望的であった。

 というのも、私がここに咲いてから、一度だけ雨が降ったのである。

 大粒で、とても強い雨だった。昼夜問わず暗いことに加え、鈍色にびいろで重たい雲がずっと空を覆っていたため、どれだけのあいだ降っていたのかはわからないが、私の体内時計が狂っていなければ、あれは多分三日三晩降り続けたようだった。

 その長い時間、四方を塞ぐくせに空だけはぽっかりとひらけているせいで、雨は容赦なく私を射た。

 それだけならまだましであったが、水はけの悪いアスファルトは、その激しく降る雨で水浸しになった。そしてそれは、数日間渇くことなく、また、私の根に浸透するでもなく、そこにあり続けた。

 仕方がないのだ。何かの間違いなのだ。どうしたって私は、ここから動くことなどできないのだ。

 もしかしてこのアスファルトは、私が動けないように、私の根をきつく縛り上げているのではないだろうか。

 時々、四角い画面を数羽の鳥が横切る。ここからでは米粒ぐらいにしか見えないが、自由に、じゃれつきながら飛ぶ様は、とても羨ましかった。

 そんな空を、太陽が見えたことなんて一度もないくせに、私は一日中ながめてしまうのだ。

 何故かは分からない。もしかしたら、花の性分しょうぶんというやつなのかも知れない。だとしたら、なんと悲しいさがだろうと、この状況下にいる私はそう思う。

 青く澄んだ空は、高く高く抜けていて、私との距離を十二分に思い知らせてくる。しかし、どんよりと重たそうな雲が濁らせた鈍色にびいろの空の時は、わずかに距離が縮まった気がして、ぼおっと眺めてしまう。

 このように、太陽は見えなくとも、空の表情はなかなか観察し甲斐がいのあるもので、いつの間にか四角く切り取られた画面が見慣れたものとなった。

 それが孤独感と相俟あいまって私を襲うとき、割り切った感情を凌駕りょうがする別の感情が私の中を駆け巡り、全身の力が抜けていくような感覚になる。

 そんなとき、決まって私は「アスファルトに吸い取られた」なんていう想いが頭をよぎって、枯れてしまいたくなるのだ。


   dialogue


「何をそんなにしょげているんだい?」

「驚いたな、こんなところで私以外の生き物を見るのは初めてだ」

「そりゃあそうだろうね。それにしても痛々しい体だ」

「ああ……むりやり芽を出したせいでね」

「それはそれは……。……大丈夫かい?」

「なんとか、ね。ちるのを待つよ。……この分なら、きっと早いだろう」

「何を言ってるんだい? まったく、辛気しんきくさいところに咲くと、花の性分しょうぶんも忘れてしまうのか」

「確かに私は花だが、私が花である意味なんて、もとからないんだよ」

「……どういうことなのか、さっぱりだね」

「ここは日差しが届かなければ、私を見て安らぐ者もいない。甘い蜜を求める者達でさえね。……だから私は、私が花であることなんて、どうでもいいんだ」

あきれた。本当に辛気しんきくさい花だ。まったく、そんなことを言ってると、来世で変な色になってしまうぞ」

「来世? おかしなことを言うもんだ。でも私は、それでも構いやしないよ」

「はぁ……。あきれたあきれた。まったく、君にはまいったよ」

「すまないね……ずっと孤独だったんだ。どうか許してほしい」

「……胸中きょうちゅう、お察しするよ」

有難ありがとう。ところでキミ、お腹はいてないかい」

「腹ペコさ。昼夜問わず歩き詰め。加えて、今日はまだ何も口にしていないからね」

「そうかい、それはちょうどよかった。口に合うかどうかは分からないが……」

「……? おいおい、嫌な予感がするなあ。悪い冗談なら、聞きたくないのだけれど」

「……こんな状態では気が進まないかも知れないが、どうか……。どうか私の願いを聞いて欲しい」

「……本気なのかい?」

「ああ。もう、充分だと思っているんだ」

「……そうか。わかった。こちらこそ、すまないね」

「いいんだ。本望だよ」

「相当、つらかったんだね?」

「さあ? 何がなんだかさっぱりだよ。目覚めたら、こういうことだったんだから」

「君……」

「なんだい?」

「いや、いいんだ。何でもない」

「そうか。なら……頼むよ」

「……わかった。それじゃあ……君の願い、聞き届けたよ」

有難ありがとう、有難ありがとう。感謝するよ。それと、さようなら」

「……うん。またね」


  epilogue


 段々と意識が遠のいていくのを感じる。

 その最中さなかで、自分はもともと限界だったのだと、不意に私はそう思った。それが正解だとしたら、今日という日に彼に出会えたことは、生まれて初めての幸運であると思えた。

 もしも私が、もっと豊かな土地に咲いていたら。

 もしも私が、孤独ではなかったら。

 苦痛でしかなかったことが、今ではいくらか穏やかな心持ちで考えられる。私はそれに、今までにない安らぎを感じている。

 ぽとっ、と、重みに耐えきれなくなった頭が地面についた。硬いアスファルトは酷く冷たい。よくもこれを割って出たものだと、絶望を知る前の私に敬意を隠せなかった。

 次第に視界がせばまり、そして暗くなっていく。私がずっと望んでやまなかったことが、すぐそこにある。

 こういうときはなんと言ったらいいのだろう。なんと言うべきなのだろう。彼には悪いことをした。ということは、きっと口にするべきは、謝罪の言葉なのだろう。

 走馬灯というのは、確か、今私が直面しているような場面で見えるらしいのだが、私には一片の映像も出てこない。

 大した思い出なんてないから当たり前なのだろうが、数少ない経験として、体験してみたかったなあ、なんて思う。

 例えば、四角い空をよぎる鳥達。青い空。鈍色にびいろの雲や、茜色の雲。私が今まで見てきた、それら全部をかき集めて、大切につなぎ合わせれば、なかなかそれっぽいものになるんじゃないだろうか。

 ああ、もう意識がもたない。その時がきたようだ。誰かに向けた挨拶ではないが、さようなら。そう言っておこう。

 しかし、彼は相当空腹だったようだ。私のほうが、彼よりも数倍大きいのに。

 そうだ。言うべきことを思いついた。きっと聞こえないだろうが、せっかく話し相手がいるのだ。言っておくことにするよ。

 君に出会えて本当によかった。そして、出会えたのが君でよかった。身勝手な頼みを聞いてもらったことも、感謝している。本当に申し訳ないね。

 こんなところかな。

 なんだ、私にだって相手さえいれば、言うべきことなんていくらでもあるんじゃないか。

 ああ、ああ。なんだろう。絶望だとか、そういうたぐいではないけれど、本当にそんなわけではないのに、実に悲しい気持ちだ。

 私に向かって、またね、だなんて。

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