第七章:争うこと

 この日のお昼も、オレはたまに全速力で屋上へ通じる踊り場へ連れ出された。

「なあ、これ、いい加減、手加減できないのか!」

「加減という言葉を二回繰り返そうが、このやり方を変えるつもりはないわよ!」

「でも、オレ、これもらってるし……」

 オレはポケットから取り出した紙を広げた。たまはそれを取ったが、数秒見ただけでビリビリに破いてしまった。


「ちょっと!?」

「『また一緒にお昼しましょう 佐野浦愛海より』って書いてあったわ。読む価値なし」

「一字一句逃さず読んでたじゃん」

「これごときで紙一枚を鉛筆かシャーペンの芯かで汚すとは、紙が可哀想」

「破るのはもっと可哀想な気がするんだけど」


「そこにゴミ箱がある。丁度良かったわ。捨てなよ」

 たまは軽いノリでオレの手のひらに細かく破られた紙を乗せた。ご丁寧に一枚もこぼれ落とさない。後ろを振り向けば、確かに踊り場の隅には、大きめの青いゴミ箱がフタ付きで置かれている。


「しょうがないな。じゃあ、弁当持ってて」

 オレはたまに弁当を託すと、大きめの青いゴミ箱のフタをちょっとだけ開け、微塵と化した紙を一気に放り込んだ。しかし、ゴミ箱の底からささやかながら奇妙な音が聞こえた。オレはそれに吸い寄せられるように中を覗き込んだ。すると、ゴミ箱の底が、オレをこの世界に呑み込んだ穴と同じ妖しい光を帯びていた。


「うわあ!」

 突然の出来事に俺は驚いて尻もちをついた。

「どうしたの?」

「ゴミ箱が、ゴミ箱が!」

 たまは訝しげにゴミ箱の中を覗き込む。


「何もないけど?」

 たまは振り向かぬまま俺にそう告げた。

「でも、確かに、今、ゴミ箱の底がゆらゆら光っていて」

 オレは呟きながらゴミ箱の中に目を向けた。でも、そこには何もない。ゴミそのものさえもない。と言うより、捨てたはずの紙きれさえも見当たらない。


「何よ、ただ紙を捨てただけじゃん。早く行くわよ」

「まあ、そうだな」

 たまが扉に手をかけたその時だった。


「でもちょっと待って」

 たまが急にシリアスな口調になった。オレは何事かとさらに困惑する。

「紙、捨てたんだよね?」

「そうだよ、確かに捨てたよ」

 たまは慌てた風にゴミ箱の中を再確認する。


「ない」

 たまはゴミ箱を掴み、周辺も確かめた。

「こぼしたわけでもないみたい。てことは」

「本当にゴミ箱の底が妖しく光ってたんだよ」


「じゃあ、その光にでも吸い込まれた?」

「オレがグロウファード国ではまった落とし穴と同じ輝き方をしていた」

「落とし穴にはまってここにトリップしたって言ってたわよね?」

 たまが食い気味に俺に確認してきた。オレは圧倒されるように小刻みに頷いた。


「じゃあ、底が光っている時にあのゴミ箱の中に入っていたとしたら?」

「グロウファード国に戻れていたってことかな? だとしたら、俺、何かもったいないことした?」

「まあまあ、とりあえずお昼としようじゃない。確かにちょっと今の件(くだり)には驚かされたけど」


 たまは改めて弁当を持った手で扉のノブをも掴み、器用にそれを開いて外へと繰り出した。

「さあ、お昼の時間……」

 歌い出したたまだが、目の前の信じられない現実に思いっきり息を呑んだ。


「お待たせしました」

 愛海の相変わらず無感情な声にドキッとしながらも、オレたちはとりあえず段差から降りる。

「アンタ、一体何なの?」

「もうあなたには何度も告げているはずですよ」


 愛海はドライにたまをいなす。

「さあみんなで飛び込もう、愛が溢れる海へザッブーン! 一年A組、佐野浦愛海で~す!」

 普段とは温度差あり過ぎの可愛さアピールを決め込んだ愛海は、再び元の凍てついた表情に戻った。


「日本史の先生が少し早めに授業を切り上げてくれたことは実に幸運なことでした。それゆえに私は真平くんと一緒にお弁当を食べるために先に屋上にたどり着き、彼を待っていました」

「英語の堅苦しい和訳みたいに何を言ってるの」

 たまはすっかり呆れた様子だった。


「真平くん、随分遅かったですね」

 オレに不用意に近づく愛海の顔にたまが手を押し当てる。

「あの、それはちょっと」

 オレの声も聞かず、愛海もたまの顔に手を押し当て返した。オレは慌てて二人の間に割って入らんとした。

「はいはい、もうケンカしない、ケンカしない!」


 何とか二人の諍いが一段落した末、オレは左にたま、右側に愛海という形で、間に座って昼食を食べていた。

「君たちさ、そろそろ仲直りしたらどうだ? 何かもう、顔を合わせたらとりあえずケンカみたいになってるから、その感じはさすがにどうかな、と思うんだけど」

「できるわけないじゃん。だって、フウタを持ってかれたのよ」


「私だって、本気でフウタくんを好きでした。しかし、フラれてしまいました。フウタくんをモノにできれば私の勝ちでしたが」

「勝ちも負けもないのよ、この泥棒猫! 泥棒アンドロイド! 人から彼氏を奪うのは泥棒! お金を奪うのも泥棒! モンスターを奪うのも泥棒! 私からフウタを奪うのも泥棒よ!」


 たまは不機嫌を晒しまくりながら箸でハンバーグを刺しては豪快にかじり取った。すると、たまが口を押さえて呻き声を上げた。

「口の裏噛んだ、口の裏噛んだ……」

「落ち付いて食べないからそんなことになるんですよ、バカたま」


 俺は咄嗟に立ち上がり、「まあまあまあ」と、鬼の形相でスタンダップしたたまをなだめた。

「気を取り直して、食べようよ。あんまりケンカすると、旨い飯もマズくなっちゃうって言うかさ」


 たまはひとまず納得したようで、再び腰を落ち着けた。俺も安堵してチキンナゲットを一口で味わう。そのとき、今度は俺の右側から「痛い」という声が聞こえた。

「愛海、どうした? 君も噛んじゃった?」

「違います。フライドポテトの塩が口内炎に染みるのです」


「いつからそうなったんだ?」

「昨日からです」

「そうか、あれ、確かに痛いんだよな。できてから三日目からは傷口を見る度に血がにじみ出て、デカさによっては、まともに喋るのも辛いほどに疼くんだよな。そこから二日間ぐらいが痛みのピークというかさ」


「喋っていないでさっさと食べましょう」

 愛海が急に俺をたしなめてきた?

「ごめん」


「そうではありません」

 謎の一言に俺は戸惑った。

「私がこれから『あ~ん』するものを食べましょうという意味です。あ~ん」


 愛海はいきなり、フォークに刺さった一切れのキウイを差し出してきた。え、こういう時どうするの? そのまま受け入れちゃっていいの? オレは妙な空気に操られるかのように、口をゆっくりとキウイに向かって開き始めたが、その途中で背後に愛海の普段の佇まい以上に冷たい気配を感じた。たまが、俺の後ろから愛海にヤバい視線を注いでいるに違いない。


 愛海が僅かに視線を逸らす。オレが見ずして危険だと悟るような彼女の目に気付いたのか。しかし愛海はメドゥーサに睨まれた者のように石に代わるわけでもなく、大人しくキウイを自分の口に「あ~ん」した。一応、観念はしたってことか。その瞬間、オレの背後の氷点下レベルの気配も消え去り、オレの背中の強張りも緩んだ。オレは安心したかのように自分の弁当に戻った。


「あ、そうだ」

 左側からの唐突な声にオレは振り向かされる。

「今度は何?」


 たまはただ口を開いているだけだった。オレは不思議に思いながら、たまに合わせて口を開いてみる。そのとき、彼女が指でつまんだイチゴを一瞬見せるや否や、即座にオレの口に入れた。オレが流れのままにいちごを味わい出すや否や、たまがしてやったりの顔でピースサインを見せている。オレは一つの峠を図らずも越えてしまった自分が信じられず、イチゴの清純な甘味に加え、ただただ顔の内側の温度がちょっと上がるのを感じていた。


「どう?」

「いやあ、何て甘くて美味しいイチゴなんだろうって」

「でしょう?」

「ど、どうもありがとう」


 オレは照れながらもひとまずたまに感謝を述べた。直後に、オレは背後から、たまが愛海に見せた特別なヤバい視線以上に背筋が凍るような気配を感じた。きっと愛海が、普段よりもさらに一段と冷たい眼差しでたまを睨んでいると思うと、オレはたまの方から目を逸らせなかった。たまも、オレを不思議そうに見返しながらも、同時にその後ろ側の現実に気付いていたようだった。


「べえ」

 何とたまは愛海に向かって舌を突き出し、黙々と箸を進めていく。恐るべき精神力だ。その瞬間、俺は強張った背筋が緩んだことで、サタンの到来のような緊張感が消え去ったことを悟り、自分も弁当を平らげることに専念するのだった。


 しかし、女の子二人に挟まれてのランチって、こんなに緊迫するもの? 本来は、単純に舞い上がっちゃうくらい楽しいはずなんだけどな。でも、今日はこれだけじゃ済まなかった。


「ちょっと待てえええええいっ!」

 俺はたまに左手を、愛海に右手を掴まれ、教室までマッハで引き回されたので、一年C組の教室のある二階に来たところでたまらず絶叫した。教室の前に来たところで、俺はいきなり、両腕を別々の方向に引っ張られた。両腕どころか、全身がド真ん中から引きちぎれそうな重力を体感するハメになった。


「ちょっと、真平はC組よ!」

「もうちょっとA組にいさせてもらってもいいでしょう」

 正論を放つたまに愛海は淡々と不条理な主張を語るが、驚きなのは、あんな寡黙なナリをしている女子なのに、人を引っ張る力はたまと対等であるという事実だ。


 そのとき、牧歌的なエコーがこもったあの鐘の音が鳴り響いた。

「はいはい、お昼休み終了。さっさとA組に戻りなさい」

 たまが愛海に向かい、手で払い除けるサインをした。

「先生でもないのに偉そうに言わないでください」

 愛海が丁寧に言い返す。


「この続きは放課後、また屋上でやりましょう。放課後には昼休みのようなタイムリミットはありませんから。あと、彼に授業中にこっそりとチューするなどの卑劣な真似をしたら承知しませんから」


 愛海は物騒な捨て台詞を淡々と連ねてから、去って行った。

「それこそ、先生でもないのに偉そうに言わないでよ」

たまも愛海には聞こえないように憎まれ口をこぼした。これで晴れてと言うべきか、オレはたまの手で教室の中へ引かれて行った。


 そして放課後、オレとたまは再び屋上へつながる踊り場に立っていた。オレはふと気になって、再びゴミ箱を開ける。中には何もない。

「どうしたの?」

「いや、何でもないよ」

 オレは慌ててゴミ箱のフタを閉じた。たまが俺の手首を掴んでこちらに引き寄せる。

「さあ、行くわよ」


 たまが意を決して扉を開くと、先ほどと同じように愛海が待ち構えていた。たまは愛海を睨んだまま扉を閉めるなり、背負っていたカバンを降ろす。オレもそれにつられてリュックを段差の上に置き、彼女とともにそこから降りる。

「真平くんを私によこしてください」

 愛海が単刀直入に大胆な言葉を仕掛けてきた。


「ダ、ダメに決まってるでしょ! アンタに真平任せたら、ロクなことにならないんだから!」

「心配無用です、今度は彼をちゃんと不良に絡まれないようにしますから」

「そういう問題じゃないのよ!」

「何故許されないのでしょうか? 彼はあなたの新しい恋人なんかではなく、ただのいとこでしょう?」


「彼氏を奪われた相手におめおめといとこを託そうなんて、気持ち悪すぎて仕方がないの! この際、はっきり言うわ! 二度と私の目の前に現れないで頂戴!」

「無理です、真平くんが気になって仕方がありませんから」

 愛海がそう言いながらオレに歩み寄ってくる。その時、たまがオレの体をひらりと操って愛海の接近をかわした。今、オレ、女子にリードされた? 舞踏会で言うと絶対そうだよね? 何か、それはそれでドキドキするんだけど。


 なおも愛海はなおも無表情のまま俺に手を伸ばすが、たまはその度に「ダメ!」と言いながら俺の体を引いていく。やがてオレはたまに踊らされながら、黙々と追い続けてくる愛海の不気味なまでの無表情を拝み続ける。この状態でオレは八の字の軌道を描き続けた。

「目が回ってきた、二人ともストップ、ストップ、ストップ!」

 オレの咄嗟の言葉には二人とも素直に従ってくれた。


「あのさ、もうそろそろいがみ合うのヤメにしないか?」

「いいや、彼女にはフウタを奪われた恨みがあるの!」

 たまは愛海を睨んだまま、オレの申し出を跳ね返した。

「フウタくんを引き留められなかったあなたには、女子としての魅力はありません。いい加減にそれを認め、私に真平くんを献上すればいいことなのです」


 何かオレ、そのフウタと同じく、物扱いされてる?

「嫌よ、もうこれ以上アンタの思い通りなんかにはさせないわ!」

「私に一度目を付けられた以上、佐野浦愛海の呪縛から逃れることはない。今、更なる抵抗を見せるのなら、実力行使に出るしかないでしょう」


 その時、たまが突然、俺を横にのけてファイティングポーズの構えを見せた。

「やる気? 私は警察署長の娘よ」

「誰が相手であろうと構いませんよ」


 愛海も憑りつかれっぱなしみたいな顔のまま、ファイティングポーズを返す。まさか、マジの戦いか? 正に一触即発の空気が漂っている。確かに漂っているが、俺はその中に一種の違和感を覚えていた。何だろう、グロウファード国でオレがやったような、剣と剣をぶつけ合う、確固たる信念や生き様を剥き出しにし合うほどの熱い戦いとは違う。このムードは、どうにも一段、いや二段と安っぽい。


 そう思うや否や、オレは自ら二人の間へと踏み出し、両手を広げた。

「やっぱり、これは良くない」

「ちょっと何で止めるのよ?」

「どうしたのですか、真平くん」

 たまと愛海がそれぞれ戸惑いを口にする。


「この戦い、どうも意味があるとは思えない。少なくともちゃんとした意味はないだろう」

「真平、どいてよ。私にとっては大事な戦いなのよ」

 たまが真顔で反発してきた。


「いいから、戦いはナシだ」

 たまが不服そうにファイティングポーズを中断する。次にオレは愛海を見やる。愛海も、拳を下ろした。


「君たち、アレだろ? きっかけはその、フウタって奴だろ?」

「そうよ。愛海にフウタを奪われたお返し、どうにかお見舞いできないかとずっと思っていた」

「一人だけ悲壮感を出して真平くんの同情を誘うのはやめてください。私だってあのあと、フウタくんにフラれました。その悔いを真平くんで晴らして……」

「ちょっと待て。やっぱりオレまでモノ扱いされてる感じか?」

 オレは毅然と二人を諭した。


「そ、そんなんじゃないわよ」

「私も、別にそのつもりはありません」

「じゃあ何故二人は争っている? フウタをめぐる因縁を引きずっているだけだろう? 本当の目的はオレを取り合うことじゃなくて、どっちもフウタにフラれておあいこになったから、ただその決着を付けたいだけなんだろう?」


「い、いや……」

「別にそういうわけでは」

 たまも愛海も図星をつかれた様子だが、強がりは残す。ストレートには自分の非を認めたくないのは、弱き人間の悲しい性か。


「二人の争いに決着がついたとして、その先に何がある? 勝者には何か得るものがあるのか?」

「何を言いますか。もちろんこの戦いの勝者は真平くんをモノにできると思っています」


「だが二人はフウタを巡って戦った末に、どちらもフウタにフラれた。アイツ、言ってたんだよな、『ケンカの景品じゃない』って。今度はオレをケンカの景品にしている。フウタには実際に会ったことはないが、アイツの気持ちが分かる気がしてきた。やっぱりオレも、モノ扱いされるのはいい気がしない。それこそ、勇者みたいじゃなくてもいいが、一人の人間らしく敬ってほしいんだよ」


「私、一体、何してたんだろう」

 たまが俯きながら言った。

「もしかして、あなたも私の前から消え去るのですか? そして、たまの目の前からも?」


 堅苦しい愛海の目が、軽く潤んでいるのが見える。いつも無感情な佇まいの愛海から、僅かにこぼれ出す感情のようなものが、ちょっと愛おしく思える。

「目の前から消えるのは簡単だけど、それじゃあ根本的な解決にはならないだろう」

 オレは天を仰ぎながら言った。


「でも、アンタ、私と一緒に住んでいるんでしょ?」

「何ですか? 一緒に住んでいるんですか?」

 たまがうっかり漏らした情報を聞き逃さなかった愛海の目は、あっという間にたまへロックオンしていた。


「私は両親が共に海外へ単身赴任中で一人暮らしなんです。だから私もそちらのお家へ」

「ちょっと何考えてんの!」

 たまがオレを追い越し、再び愛海に歩み寄る。マズい。一触即発の空気がぶり返した。

「ウチにはちゃんと両親がいるのよ! しかも常識で考えてごらん! 自分の彼氏奪われた相手をお家にまで招けると思う?」


「招待されたいんじゃない、居候」

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!」

「だから戦いはお終あああああいっ!」

 オレは再び二人の間に入り、魂の底から絶叫した。


「あっ」

 愛海の気の抜けたような声が聞こえた。気がつけばオレの右手は、愛海の、制服の奥からせり出した胸元に触れていた。桃のように上品な輪郭は、不覚にも包み込みがいがあると感じた。当の愛海は、何も言わずにオレの手を胸元から外した。直後に、ほんのり紅潮した顔を隠すように下を向いた。


 対してオレの左手は、たまの、制服のブレザーの胸ポケットのあたりに触れていた。愛海と違って、文字通り平べったい。そこから伝わってくるものは何もない、その存在に特別性を感じない、何なら夜に触る石造りの家の外壁のように微妙な冷たささえ感じた。


 そんなたまの表情は、スクエアテーブル騎士団のかつての仲間を地底の果てに引きずり込んだ、デーモンような顔をし、巨大な牙を生やしたアリジゴク、その名も「アクマジゴク」を思い出させた。


 たまは思いっきりその手のひらを振り上げると、雷神の鉄槌の如く、オレの顔面を撃ち抜いた。


「良かったね、あの愛海が大人しく引き下がってくれて」

 たまは何事もなかったかのようにルンルンとしながら、オレを家まで率いていた。「お前がオレに、狂気に満ちた一発をかますのを見て恐れを成したからだよ」だなんて彼女に到底言える空気じゃない。そんなことを考えているうちに、家の前にたどり着いた。

「さあて、鍵~」


 たまがドアの前で能天気に呟いている。オレが戸口の段差の手前で待っていると、またも微妙な音が聞こえる。それに導かれるように、裏庭へ通じる道に目を向けると、またも見覚えのある光の穴を見つけた。

「たま、たま!」


 オレは慌てて彼女の方へ駆け寄る。

「また光の穴だよ! ほら、あの時のゴミ箱の底と同じ奴!」

「嘘でしょ?」


 たまが疑心暗鬼な顔をしながら裏庭へ通じる道を見てみる。オレもその後について行った。

「うわ、本当だ。もしかしてさっきアンタが言ってたのってこれ?」

「そうだよ、ゴミ箱の底のあのような感じで光ってたんだよ」

「そうなの」


 たまは穴の方へ歩み始めた。

「ちょっと待って!」

 オレが慌てて声でたまを引き留めた。

「ここに入ったら、今度はたまがグロウファード国へ行っちゃう」

 オレがそう言った直後に、光は一秒ぐらいかけて収縮する形で消え去った。


「本当にあの穴からこの世界に出てきたの?」

「ああ、オレはサイラス・アルトリウス、グロウファード国の剣の勇者だ」

 オレを見つめるたまの目は、いつしか畏敬の念を感じた。その視線に、「いやいや、それほどでも」とでも言いたくならんばかりだった。


「やっぱりそうだったんだ。もう百パーセント確信しちゃった。勇者をあんな風に叩いちゃった私って、グロウファード国では罪に問われるのかな?」

「いや、あれはオレの、落ち度、ってところだからなあ。言いづらいけど」

「そう」


 たまは改めて戸口の段差へ上がり、扉に鍵を回した。

「ただいま~」

「おかえり~」

 たまの挨拶に母が呼応するのが聞こえた。

「ちょっと待ってよ」

 オレも慌てて追いかけ、閉まりかけの扉を掴み、中へ入った。

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