第六章:ニッポン流我が身の守り方

「ごめん、放課後はまた広報委員会のお仕事なの」

 終業を知らせる音色を背景として、たまが再び残念なお知らせをする。

「ねえ、これまででもう家から学校までの道を一往復半してるわけだけど、もう覚えた?」


 オレは首を傾げた。正直、まだ自信ない。

「そうか。じゃあ、仕事が終わるまでしばらく待っていてもいいわよ」

「ああ、分かったよ」

 オレは笑みで取り繕いながらたまを見送る。再びノリ良く駆け出す彼女を見送った直後、再び背後に生冷たい気配を感じる。


「お待たせ、佐野浦愛海です♪」

 能天気なアクションを交えた挨拶の後、すぐさまそれを自分で否定するかのように魂の抜け殻のような佇まいに戻る愛海である。

「あの、今度は一体」

 オレが一言言い終わるのを待たずして、彼女はまたも手首を掴んだ。


「急いでますか?」

 愛海が棒読み気味に俺に問いかける。

「別に」

「じゃあ、付き合ってもらえますか?」

 オレの答えを聞かずして、愛海は凄まじい勢いで俺を教室から連れ出した。相変わらず廊下の人を避けまくるテクニックには脱帽ものだ。


 オレが連れて来られたのは、校舎の裏庭だ。砂地に生えた草の集合体が織り成す形は、実にいびつで、それがかえって自然らしさを醸し出していた。

「神城真平くん」

 愛海が神妙な調子でオレの名を呼ぶ。


「どうしたんだ?」

「どうすれば、あなたは私の彼氏になってくれるんですか?」

 突然のシリアスな台詞に、俺は耳を疑った。

「か、彼氏?」


「ええ、どうすれば、またサンドイッチの両端をお互い咥えてもらえますか?」

 サンドイッチにこだわる愛海に、オレの目は泳ぐばかりだった。

「教えてください。私には分からないのです」

 オレの思いとは裏腹に、愛海は食い入るように俺に答えを迫ってきた。


「分からないよ……」

 俺は観念する形で答えた。

「どうしてですか?」

「何て言うか、俺は恋愛をしたことがない」

「もしかして、今まで彼女がいないんですか?」


「ダメなのか?」

「別にそこまでは言ってません」

「じゃあ、愛海は恋愛をしたことがあるのか?」

「一人だけ。しかし好きになった相手はその一人を含めて十二人です。告白してフラれることがほとんどだったので」


「もしかしてだが、その十一人、みんな今のオレのように急にどこかへさらって、無理矢理付き合うように迫ったわけじゃないよね?」

 オレは脅しととられないように、一字一句慎重になりながら愛海に問いかけた。愛海は図星だったようで、口をつぐんでこちらから目を背けた。


「まさか、本当に、そうなのか?」

「……いけませんか?」

「オレには恋人がいたことがないから、偉そうに語れることなんかないんだけど、多分、そうじゃないかな」


「まあ」

 愛海のドライな目つきから、自分のやり方が間違っているのかと悔いる様を感じる。無表情なのに、その奥に感情が示唆されている。人間の気持ちって、何か奥が深いなってことに気づかされる。


「どうしてですか?」

「少なくともオレは、急に愛海に絡まれた時、何て言うか、何て言うか、このままでいいのかなって。このまま君のされるがままになっていいのかって思った」

「私のしたこと、間違ってましたか?」


「いや、間違ってたわけじゃないよ。でも、オレだって、恋人同士が手をつないだり、イチャイチャしたりして仲睦まじげにする様子は見たことがある。そういうのと比べると、君のやり方って、恋愛として自然な行いだったのかなって。愛海のやることが、恋愛の形なのかなって、何か、色々引っかかっちゃった。正直に言わせて欲しい。多分、君が昨日屋上でオレに絡みついてきたこととか、たまから彼氏奪っちゃったとかってやり方は、恋愛と違う何かだと思う。それ自体さえいいのかなって、思ってしまった」


 オレは愛海を傷つけてしまうんじゃないかという懸念と戦いながら、言葉を絞り出した。

「と言うことは、私、もしかしてあなたに迷惑をかけてしまいましたか」


 愛海は再び目をそらしながら問いかけた。

「まあ、迷惑じゃないと言えば、嘘にはなるね」

 オレは再び絞り出すようにアンサーした。愛海は「しまった」とばかりに、口を半開きにして悲壮感をうかがわせた。


「大変、申し訳ありません」

 愛海が平謝りする。案外と素直だ。

「しかし、どうしましょう。私、恋愛の仕方を知りたいのですが、あなたは彼女と付き合ったことがないと言いますし」


「それはオレも同じ気持ちだ。この学校には色んな教科書があるけど、恋愛の教科書ってないの?」

「『恋愛』が学校の科目にあるわけないでしょう。『剣』や『魔法』の教科書がここにないのと一緒です」


「おい、アイツをターゲットにするのはどうだ?」

 物騒な声のする方を振り向くと、いかにもガラの悪い三人の男子がこちらへ近づいてきた。真ん中のリーダーっぽい奴がおもむろに歩み寄ってくる。

「どけ!」

 ソイツに無造作に顔を手のひらで突かれ、オレは思わずその場に倒れ込んだ。


「おい、アマ、金よこしな」

「一体、何のためにお金が必要なのですか?」

 取り囲む追い剥ぎ三人に対し、愛海は表情を変えずに問いかけている。

「お前に言っても仕方ねえ! とにかく金よこせっつってんだよ!」


「早くしねえと、どうなるか分かってんだろうな?」

「あんなこととかこんなこととかやっちゃうよ~?」

「勘弁してください。私はATMではありません」

「関係ねえよ。ほら、財布あるんだろう? 出せよ」


「嫌です」

「出せよ!」

「嫌です」

「出せよ!」

「何度求めても嫌なものは嫌です!」


 俺は脅されても引かない愛海の様子を、少し離れたところからただ見ているだけだった。

「これでもかよ?」

「ハッ!」


 リーダー格の手下の一人が、愛海のスカートをひらっとめくり上げた。愛海は相変わらずの無表情だが、次の瞬間、ソイツへの平手打ち一発でありったけの感情を表した。

「痛ってぇな!」

「女子のスカートに手をかける者にお金を渡す筋合いはなおさらありません。むしろ、逆にこちらがお金を頂きたいくらいです」


 愛海は平然とワルどもに言ってのけた。彼女なら、逆にこの世界からグロウファード国へ転移しても、それなりに冒険をやってのけれそうだ。

「てめえ! ちょっと手加減してたら調子に乗りやがって!」

 リーダー格が愛海の胸倉を掴む。女子相手に何のためらいもない暴挙に、さすがの愛海の顔も揺らいだ。オレも咄嗟に立ち上がり、奴らに迫った。


「おい! やめろ!」

「何だ!」

 不良どもが三人揃ってオレの方を向く。正直、重厚過ぎる視線に体が震えるが、こんなのは武者震いだ。て言うか女子のピンチの前でビビッてられない。

「愛海が嫌がってるだろ! 離してやれよ!」


「何、勇者ぶってやがんだ? チューニビョーか?」

 不良どもの三者三様の不敵な笑みが冷たい。

「お前なんかオレらの前じゃ無力だ。大人しくしてろ!」

 そう言いながらリーダー格がオレを突き飛ばす。馬鹿にされっ放しでいられるか。オレはグロウファード国の剣の勇者。目の前の奴らとは比べものにならない悪者やドラゴン、野獣などと戦ってきた猛者だ。


「お前らこそ、大人しく帰らないと、このオレが痛い目に遭わせてやるぞ!」

 愛海のように、いや彼女以上に、オレは強い意志を貫いた。

「ああそう。じゃあかかって来いよ!」


 売り言葉に乗る形で、オレは早速、素手でリーダー格の顔面に拳を放った。しかし、奴にはヒョイとかがんでかわされ、拳は空を切る。お互いの立ち位置が入れ替わるや否や、奴の拳の方がオレの腹にめり込んできた。


 オレの息が一瞬、止まった。腹にめり込んだ拳は、まるでいつかの銃士が放った弾に負けないほどの鋭さだった。オレは倒れそうになったが、砂地を踏みしめてこらえる。


 オレは勇者だ。こんな一発如きで倒れるような者じゃない。


 咆哮を上げながら、再び拳を振るう。しかし、奴に身をかがめられると同時に、再び腹わたを貫通するかのような一発が浴びせられた。オレはたまらず、全身から力が抜ける形で、その場に倒れ込んだ。


「ヘタレの癖に威張ってんじゃねえ!」

「そうだそうだ!」

「なめんじゃねえぞ、クソ野郎!」


 ハイエナどもがオレに群がっては、蹴りの嵐を降らせてきた。オレは何も抵抗する術もなく、ただひたすら全身に釘を打ち込まれるかのように浴びせられる無数の痛みに耐えるしかなかった。


「チッ、行くぞ」

 三人の忌まわしき足音が遠のいていく中、オレの肩に優しく手が添えられる。

「大丈夫ですか?」

 愛海が心配そうにこちらを見つめてきている。いや、表情自体は相変わらず無感情なようだが、顔の奥に、オレに同情するようなオーラを感じた。


「保健室に向かいましょう。顔を擦りむいてます」

 愛海は淡々と怪我の状況を告げた。

「それよりもアバラが痛ぇ、折れちまったか」

「私が肩を貸してあげましょうか?」


 愛海はオレをアシストする気満々の様子だった。

「いいよ、自分で歩ける」

 オレは全身に疼く痛みをこらえながら、ゆっくりと立ち上がり、足を引きずりながら保健室へ向かわんとした。だが、体を支配する苦痛と言うのは恨めしいほど正直で、あっと言う間にオレの歩みを止め、地面へひれ伏させた。愛海が改めてオレの肩に手を置く。


「もう無理しないでください」

 愛海の方からオレに肩を貸し、立たせてくれる。冷淡な顔とは裏腹な、人肌の優しい温もりが、オレを少しばかり屈辱から遠ざけてくれた。


 愛海は、見かけによらず、優しいんだね。


「それにしても、随分と派手にやられましたね~」

 二人きりの保健室の中で、愛海が傷薬を染み込ませた綿棒をオレの頬に塗る。

「アイタタタタッ! あの、もうちょっと丁寧にお願いできない」


「これが最高レベルの丁寧のつもりでしたが」

「だって仕方ないじゃん、痛いものは痛いんだよ。例え魔法の力で雷を落とされようが、ただの殴る蹴るであろうがね」


 そのとき、唐突に保健室の扉が開かれた。保健の先生が戻ってきたかと思い振り向いたが、そこにいたのは、たまだった。彼女はオレたちを見て、呆然としていたが、すぐに誤魔化すように屈託ない笑みを見せつつ、オレに早足で寄って来た。


「もう、勝手にどっか行っちゃうから、心配したわよ!」

 たまは、彼女なのか母親なのか、どっちつかずの調子で、いずれにしても俺を見つけてホッとした感じで、俺の体に腕をきつく回した。アバラが締め付けられてやたら痛い。


 そう思うのも束の間、愛海が俺の頭を掴んで引き離そうとする。たまの腕でロックされた胴体が強制的にのけぞらされ、アバラの鋭い痛みに拍車がかかった。たまがすかさず、俺の体に自らの体を密着させ直し、このハグを離させはしないとばかりに抵抗する。


 集団暴行の次は、女子二人による俺をめぐる冷戦だ。この世界はグロウファード国とは違う意味でカオスだ。それにしても何だこの状況、俺、喜んでいいのか? いや、アバラが疼いて喜べない。痛い、痛い、リアルに痛いから!


「ああ、もう、離してくれ!」


 俺は力づくで自ら二人の女子をふりほどき、自力でがんじがらめから脱出した。俺は戸惑いながら、乱れた息で二人を見つめた。たまと愛海もこちらを見つめ返している。と思いきや、再びお互いに睨み合い、火花を飛ばし始めた。

「アンタ、真平をこんな所に連れ込んで何してたの!」


「真平くんと遊びたかっただけです。私、友達一人しかいなくて寂しくて、その友達一人もバレーボールの部活。それでも誰かと一緒にいたい。結論はあなたのいとことコネクトするのみ」


「『コネクト』って何? 気取っているつもり? 私、アンタに真平と付き合うことを許可した覚えないんだけど! それに彼の顔は何? どうして傷だらけなの?」

「申し訳ございません」


 愛海はまるできれいに体を四十五度に傾けて平謝りした。グロウファード国に度々現れるゴーレムがお辞儀するとしたら、正に今の彼女のような感じになるだろう。


「私が三人組の不良にカツアゲに遭いそうになったのを彼は身を挺して守ってくれました」

「何ですって!?」

「実際に彼は、ただひたすら三人に殴られたり蹴られたりしただけです」


「真平をそんな目に遭わせたの!?」

「申し訳ありません」

 愛海、再びのゴーレム謝りである。ところが次の瞬間、彼女はさっきまでの堅苦しい動きが嘘かのように、オレに飛びついた。


「だからこうして今こそ神城真平くんの傷を癒やして」

「ゴツン!」

 たまが愛海に思いっきりゲンコツを放った。


「こんな女は放っておいて、さあ、治療しましょう」

 たまは慣れた手つきでオレの頬にガーゼを当て、テープを十字に貼って固定した。その間、愛海は頭を押さえながらこちらを凝視していたが、たまは気にも留めなかった。

「よし、治療終わり。帰るわよ」


 俺たち「疑似」いとこ同士は、頭を押さえる愛海を置き去りにして、それぞれリュックとカバン片手に保健室を後にした。しかし愛海もカバンを持ってちゃっかりオレたちについて来る。彼女は律儀に保健室の扉は閉め、学校の玄関までオレたちへの追従を続ける。


「ケガしたい?」

 玄関に降りる間際で、振り向きもせずに放ったたまの言葉が、予想以上の切れ味だった。オレは靴を履き替えるなり、ノーリアクションで立ち止まる愛海を気にした。そんなオレを、たまは容赦なく、手首を掴んで、駆け足で遠くへ連れ去った。


「それにしても、どうしてボコボコにやられちゃったの?」

 たまの部屋で、真顔で聞く部屋の主を見ながら、オレはバウムクーヘンをかじる。

「だって相手が三人もいたから」

「アンタ、剣の勇者でしょ? アンタなら、あんな意味もなく威張り腐ったヤンキーなんかすぐにぶっ飛ばせるんじゃないの?」


「剣さえあればアイツらなんかすぐにぶっ飛ばせたのにな……」

「えっ?」

 たまが困惑する。だが仕方ないんだ。


「剣以外での戦いは、からっきしダメなんだよ」

「嘘でしょ?」

 たまが驚きの余り、小さなテーブルを叩く。バウムクーヘンを乗せた皿二つが衝撃につられ音を鳴らす。


「確かにオレは剣の勇者。侵略者やドラゴンといった並居る敵を剣でぶった斬ってきた。だが、剣を持たない素手でのケンカはとびきり弱い。勝手が違い過ぎて、拳の振るい方なんて分からないんだよ」

「そんな……」

 たまが残念そうに俯いた。


「いやいや、そんな顔したって、剣とケンカが大違いなのは変わらないから! 実際にグロウファード国でも、オレの自慢の聖剣エクシーダーをスクエアテーブル剣士団の本部に預けて市場に出かけた時に、その外れでいきなり地元のワルどもに取り囲まれたことがあった。剣を持っていないオレに成す術はなく、ひたすら叩きのめされるだけで、その時折角買った食い物は全部持っていかれちまったんだよ」


「いつ襲われてもいいように剣を持たせてもらえば良かったんじゃない?」

「剣はケンカに使っちゃダメだってさ」

「寒っ」

「いや、これ現実だから。マジで団長に言いつけられたんだから」


 オレはたまのツッコミにも動じず、淡々と説明を重ねた。

「それにしてもビックリするよ。この世界にも追い剥ぎがいるなんて」

「ごめんね。でもしょうがない。ウチのパパも仕事柄、しょっちゅうアンタぐらいの年頃で悪いことしちゃう人をよく見るから」

「やっぱり早くグロウファード国に帰りたいな。もしかしてこの世界、夢だったりして」


「冗談で言ってる?」

 たまが軽く笑いながら問いかけてきた。

「いや、本気です。マジで落とし穴にはまってトリップしたんだから。逆にこの世界のどこかにも落とし穴があって、そこからグロウファード国に戻れないかという希望を本気で抱いているんですけど」


「私、そういうのライトノベルでしか見たことないから分からないや」

「いや、ライトノベルの通りに別世界にトリップしちゃった人がここにいるんですけど!」

「そうね……」

 またも彼女は本棚の物色を始めた。一冊を抜き取り、オレにタイトルを指し示す。


「『カオスの国のナオヤ』」

「何それ?」

「主人公ナオヤが、付き合っていた彼女が実は二股と知ってしまった。そして二股のもう一人の相手が仲間を連れてナオヤをボコり、ロッカーに閉じ込めた」


「ロッカー?」

「ホウキとかちり取りとかお掃除道具を入れる縦長の鉄の箱」

「嘘、ホウキとかちり取りとかをクルマに乗せるの?」

「違う違う、本当の意味で鉄の箱だから! ブーンとか言ったり、下にタイヤ四つ付いて走ったりとかないから!」


 たまがちょっとムキになりながらオレを諭す。何となく可愛いけど、そんなに苛つくことかな? オレ、マジでこの世界じゃ知らないことばかりだから、もうちょっとお手柔らかくして欲しいな。


「まあそのロッカーに閉じ込められたナオヤなんだけど、悪い奴らが彼女と行ったと思って外に出てみたら、何と全く見知らぬカラフルな街に来てしまったの。そこで彼は野菜の頭をした人たちの工事作業を手伝わされたり、宮殿の庭でビッグサイズのマリモのサッカーに加わったりする。宮殿では花札の柄のマントに身を包んだ王様が厳しい目で見ていて、花札の体をした家来たちから何かと悪い理由をつけては罰金をむしり取ったりするの」


「暴政国家って奴か。まるでダミアンの歪んだ野望だな」

「お金がなくなったら借金してでも払えって。おかげでこの本の中の家来たちは多重債務でパンク状態よ」


「で、ナオヤはその後、ちゃんと帰れたの?」

「罰金を払えなくなった家来が空飛ぶ鉄檻に乗せられてイバラの島へ飛ばされそうになった。ナオヤはその人を庇って王様と対立。王様の度重なる不条理な発言に怒ってその人を一発殴ったのよ」


 オレは唖然とした。いくら本の中の出来事と言えど、一国の主に拳を振るうなんて、正義のためとしても壮絶な賭けじゃないか。

「そしたら鉄檻が急にロッカーへと姿を変え、ナオヤに近づくと吸い込んでしまった。その先はブラックホールのような暗黒だったんだけど、目が覚めると彼はロッカーの中にいると気付いた。扉を開ければそこは夜の学校の廊下だったとさ、お終い」


「何とか帰れたのか、良かったあ」

 オレはまるでナオヤが親友であるかのように安堵した。続いて、思い立ったようにたまの方へ身を乗り出した。

「じゃあオレも、ロッカーの中にしばらく留まって、開けたらグロウファード国ってことあるかな?」


「さあ、どうかしら?」

「ここにロッカーない?」

「ロッカーはないけど、それに代わるような狭めの場所なら何カ所かあるわよ。例えば、トイレとか」


「分かった。世話になってくれてありがとう。ほんの短い間だったけど、オレのこと忘れないでくれるかな?」

「忘れないわよ。て言うか別世界へ移るのはそんな簡単なことじゃないと思うけど? て言うかありえるの?」


「いいんだ。やるだけやってみるもんだよ」

 オレはそう告げて、たまの部屋を飛び出し、トイレへ入った。すると便器のフタが独りでに開いた。オレは口を開けたソイツに吸い込まれるかと思い、壁に背中をひっつけてドン引いた。しかし、その先は何も起こらないと分かり、オレはホッとした。


 便器には座らず、ひたすら目を瞑り、理想のタイミングを伺う。数分ぐらい経ったところで、オレはそっと少しだけ扉を開いた。

「別世界に移れる気がした?」

 何気ないようにそう問いかけるたまの顔の奥からは、オレをからかっているような気配がうっすらと感じられた。


「たかが本の中の話じゃ~ん。真に受けるなんておバカじゃないの?」

 バッサリとした捨て台詞を残して、たまは一人部屋に戻っていく。オレは誰もいなくなった廊下で、気まずさを感じながら、トイレの扉をそっと閉める。彼女の部屋へ戻ると、さっきの『カオスの国のナオヤ』を机に立て、ペラペラと読み返すたまの姿がそこにあった。これ以上話しかけるネタが見つからず、少しばかり申し訳なく腰を下ろす。


「ああ、そうだ、真平」

 たまが急に本をバタンと閉じた。

「アンタもさ、王様ぶん殴ったナオヤじゃないけど、不良に絡まれても負けないようにケンカの強さも身につけたらどう?」


「ケンカ? 勘弁してくれよ」

「ほらほら、ただでさえこの近辺は最近不審者情報が流れてるのよ。そして私は何と言っても警察署長の娘だし? 護身術くらい教えられるわよ。明日の放課後、屋上でね」


 翌日の放課後、早速オレはやけに上機嫌なたまに手首を掴まれ、教室から連れ出された。

「あのさ、学級委員が起立と言う前から手首掴んでたよな?」

「そんなことはどうでもいいの」

 たまは当たり前のようにオレをはぐらかすと、黙々と階段を上がって行く。そして屋上に到着した。


「ここには不良どころか誰も寄って来ないから、安心して護身術を学べるわね。まあ、不良が来ても教わりたてホヤホヤの護身術で何とかしちゃえばいいんだし」

「愛海がまたここに来るかもしれないよ? お前がオレを連れて行くところ、こっそり見られたんじゃないか?」


「そしたら愛海を護身術で」

「女の子相手には無理!」

「何よ、ムキになって。まあとにかく、不良対策は施させてもらうから。それじゃあまずは準備運動よ。私の動きに合わせてキビキビやってくれたらいいから」


 たまはそう告げると、何やらスマートフォンを取り出していじり始めた。

「ラジオ体操第一!」

 スマートフォンから男性の活気ある声が聞こえると、爽やかな朝の調べを奏でるようなピアノが響く。たまが両腕を真っすぐ上げながら背伸びをする動きに、オレも黙々と合わせる。続いてたまはゆっくりと腕を水平に広げ、下ろす。また腕を上げて背伸びをしたのちに、水平に一旦止めてから、また下ろす。


 こんな感じでオレはたまの動きをなぞり続けた。でもその動きは、全体的に見ると、まるでどこぞの秘密結社がとっておきの魔法の環を導き出す儀式でも行うかのようなパターンの数々だった。体をねじる運動が終わった途端に、彼女はスマートフォンを指で一気にこすり、音楽を止めた。

「準備運動だから、ここまでぐらいでいいっしょ。ちょっと待っててくれる?」


 たまは戸口の方へ戻ると、その奥から、人間の形をした模型を抱えてきた。しかもソイツの頭の部分には、見知らぬ男子高校生っぽい奴の写真が貼り付けられている。いずれにしても、彫刻と呼ぶには程遠いぐらいに質素な作りをした人形だ。


「なあ、それ何?」

「マネキンよ」

「マネキン? で、その顔の部分に貼りついているのは?」

「私の元カレ、フウタよ。アンタの護身術講習のパートナー」

「自分の元カレを俺の護身術の実験台にするのか?」


 オレは困惑した。たまは構わず、オレの隣に堂々と人の模型を立たせた。気がつけばたまは口を結び、嫌な思い出と向き合っているような顔つきになった。

「私を置いてあんなロボット女なんかに尻尾を振った罰よ。思い知るといいわ」


「あのさ、立ち入ったことを聞くようだけど」

「何?」

 たまがサバサバした様子でこちらを振り向く。

「ニッポンじゃ、別れた恋人にこんな形で復讐するのが流行っているのか?」


「別に。これは私なりのオリジナルの未練断ち切り法よ」

「あっ、そうか」

 オレは苦笑いするしかなかった。しかしたまは構わず、急に背筋をピンと伸ばし、背中で両手を組む。オレも唐突に漂う緊張感から、立つ姿勢を正した。


「パパ曰く、真の護身とは逃げることと逃げるチャンスを増やす事にあり。それを頭に叩き込んで護身術を覚えるように。いい?」

「はい」

「じゃあまずは相手が殴りかかってきたときの対処法ね」


 たまはマネキンの後ろからその体を取る。マネキンの腕をこちらに向けてきたが、どうやらその腕自体は堅く、肘を曲げられないように思える。

「このフウタがアンタに殴りかかって来たとするわね」


 自分の元カレにいとこ(仮)を殴らせるって、例えにしても何かゾッとする。でもそのおかげでオレの気持ちは結果オーライで引き締まり、たまの話に集中して聞き入り始められた。


「そのとき、あなたは肘を突き出しながら、そのまあまあイケメンフェイスをガードするの」

 まあまあイケメンフェイス……オレ、今、褒められたのかな? 「まあまあ」と言うワードで貶されたかな? 釈然としないや。


「ほら、こんな感じ。やってごらん」

 たまは実際に肘を突き出しながら、前腕を正面に突き立てた。

「これでいいのか?」

「あっ、できたら斜め気味にした方がいいわよ」


 たまがオレのもとへ近寄り、顔の手前に突き立てた腕の角度を調整してくれた。制服の袖越しながら、天使のような優雅な触り心地を感じた。ここは軽く喜んでいいの?

「あれ、ちょっと赤くなってる?」

 たまがニヤリとこちらに問いかける。腕の向こう側に半分だけ見えるたまの無邪気な顔が、またもう一段階愛おしいと感じた。


「どうしたのよ、顔が綻んじゃって。でもちゃんとやらないと、また不良のパンチでその顔をしかめさせられちゃうよ。そうなるのもう嫌でしょ?」

「そうだな」

 俺は苦し紛れに話を合わせながら、腕を降ろした。


「さあ、本番行くわよ。三、二、一……」

 たまがマネキンの腕を勢いよく突き出すとともに、オレは咄嗟に自らの腕を突き立ててソイツの手をガードした。


「そこでコイツの腹を殴って!」

 オレはたまに言われるがまま、マネキンの腹に拳を叩き込まんとした。ところがたまは、マネキンをスッと避けさせてしまった。


「そーれ!」

 たまの手で縦に一回転したマネキンのかかとが、オレの後頭部に見事命中した。骨に響く痛みに俺は思わず灰色のざらざらした地面に倒れ込んでしまった。


「ちょっと! ここまでは聞いてないんですけど!」

「不良というのはケンカのプロみたいなもんだから、どんな動きをするか分からないもの。それに対応できなければ、我が身を護ることはできないのよ、分かる?」

「ちょっと待てよ。いくら何でも急に一回転宙に舞う人間ありえないから。て言うか自分の元カレ、そこまで凄腕の武闘士なのか?」


 たまはマネキンに貼りついたフウタの顔写真を見つめてから答えた。

「そうだったらいいな、と思って」

「何とぼけてんだよ! この世界にいるのはただの人間ばかりなんだろ!」

「異世界上がりが身も蓋もないこと言わないで頂戴! 私だって夢見たいの! 異世界に行けるなら冒険したいの!」


「いやいや、異世界上がりじゃなくて、俺、マジで異世界に帰りたい人間だから」

「でも方法は見つからない。その限りはあなたもこの世界で生きていくしかない。だからこうやって不良から身を護る術を教えているのよ。それかまた不良にやられて顔中傷だらけにしたいの?」


「いや、不良なんて毎日出会うわけじゃないし……」

「出会ってからじゃ遅い! 口答えはなし! 護身術にも練習あるのみ!」

 たまの表情が本気になっている。その顔が、屋上に緊迫した空気をもたらし、オレも剣術の練習、または本番のように、目の前のフウタマネキンに神経を注いだ。


「そのキリッとした顔つき、いいわね。『元カノはドラゴンテイマー』に現れるリントヴルムと向き合う主人公メドラウド・フォン・エイヴォンのような、正に切れ味鋭い眼光が伝わって来るわね! 面白くなって来たわよ!」


 その後もオレはフウタマネキンから繰り出される様々な攻撃を、たまから教えられたての方法で凌ぎ続けた。首を掴まれればソイツの腕をひねった。するとマネキンの腕が捥げた。後ろから掴まれた時は、即座に反応して腕をひねり、フウタの顔面を思いっきり蹴飛ばした。


 オレが寝そべっているところへフウタマネキンが馬乗りになってきた時もあった。マネキンの奥からたまが作ったような妖しさをこめて顔を出す。てことは何? たままでオレに馬乗りになってる? そう考えると、やけにドキドキしちゃった。こんなポジショニングでたまの顔を直視できない。


「さあ、やってごらん」

 意味深さを含んだたまの声にオレは嫌が応にも振り向かされる。これも自分の身を護るためだと思い、オレは実行に移した。

「これでいいか?」

 オレはマネキンの、精巧に作られた指の一本を掴んでやった。


「これで本当に相手は痛がるの?」

「実際にやってみたら? 確実に相手は怯むから、それでも不安なら、こうしてやればいいのよ」

 たまはマネキンの顔に写真として貼られたフウタの鼻をつまんだ。確かに鼻をつままれば、相手は確実に呼吸を制限され、面食らうに違いない。その方法もいいな、と思ったのも束の間だった。


 たまはマネキンをオレから離れたところへ連れ出した。鼻は未だにつまんだままだ。

「よくも、よくも、よくもあんなロボット女に心変わりして。言い訳は受け付けないわよ! アンタの罪の重さを思い知りなさい!」

 そうまくし立てながら、たまはマネキンに貼られたフウタの顔写真を引き裂きまくった。彼女は護身術がなくても、この世界でサバイブしていけそうだ。


「とにかく、これで護身術の授業は終わり。これでもうフウタの顔も拝むこともない。私もこの時を持って、フウタとの因縁を洗い流す儀式を終えたわ」

「ああ、そうか、良かったね」

 オレは苦笑いしながら、心のしこりであろうものを治めた彼女を静かに祝福した。


 オレとたまは、夕暮れの帰路をたどる。

「これで護身術、しっかり覚えていてくれた?」

「もちろんだよ」

「忘れないように、これからも時々練習しておいてね」

 たまはまるで自分が教えたことに誇りを持つようオレに告げた。


「ああ、やっておく」

 オレが何気なく、横の路地に目を向けた、その時だった。その向こうに見えた姿に、強烈な既視感を覚えた。槍状の杖を持っている。ソイツもオレを見てハッとするや否や、そそくさと向こう側を渡る道を走り去って行った。


「ダミアン……!」


「どうしたの?」

「いや、何でもないよ」

「不審者なら正直に言った方がいいわよ。最悪、覚えたての護身術があるけど」

 たまは気楽な調子で、再び歩き出した。しかしオレは、一抹の不安に襲われながら、彼女について行った。

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