名前を売った男

十坂真黑

第1話



 ──ええ、ええ。無論むろん構いませんよ。

 気分を害すなどとんでもない! 

 むしろ私は、あなたの思慮深さに安心したくらいですから。証拠を形で残しておくことは重要です、ええ。録音のみならず、署名であろうとあなたがおっしゃるのであればなんでも応じましょう。


 音声しかり、書面しかり。のちのちの『言った』『言わない』の水掛け論を防ぐ為には、物証は必要なものです。


 ですが心配なさらないでください。

本日は私があなたをお呼び立てした理由は、借金の申し入れの為ではございません。

 最も、現在の私の惨状をご存知のあなたが、そう懸念してしまうのは無理からぬことではありますが。


 妻子供には逃げられ、郵便受けに届くのは借金の催促書ばかり。そのような男の呼び出しに応じてくださったあなたは、なんと奇特な方なのでしょうか。


 さて、あなたの貴重なお時間を無駄に頂戴することは心苦しいので、そろそろ本題に入らせていただきたいと思います……が。

 その前にひとつ、お聞き入れいただきたい話がございます。


 本来であれば、真っ先に要件をお話しするべきなのですが。事は少々特殊なのです。

 失礼をお許しください。


 ──ありがとうございます。どうか身構えずお聞きください。ほんの昔話ですので。 

 ああ、コーヒーのお替わりはいかがですか。 

 ……いい? 承知いたしました。

 どうか遠慮などなさらないでくださいね。


 さて、これからお話しするのは私のかつての友人のことです。


 彼は周囲から『くま』と呼ばれておりました。

 随分と図体の大きい男であった、と記憶しております。背丈は百八十程ありましたでしょうか。体格もよく、まさに熊のような風貌でした。しかしながら、"気は優しく力持ち"、とはよく言います。『くま』はその言葉を体現するような男でありました。


 しかし、大きな体の割には覇気がない、と申しますか……口数が少なく、たとえ一言二言喋ったとしても、ぼそぼそと小声を発するのみでした。


 他者と関わることを好まず、休日は静かに読書に耽っていることが常の、物静かな男です。

 読書癖は深夜まで及ぶことも多く、『くま』の眼下にはいつも陰気臭い隈が染み付いていたことは、よく記憶しております。

 案外、『くま』というあだ名はその辺りから定着したのかもしれません。


 かつて私と『くま』は、同じ大学の工学部に在籍していました。就職に有利であるという理由で学部を決めた私とは違い、『くま』には機械業の未来のために、新技術の開発という夢を抱いておりました。


 当時、『くま』は真面目に講義を聴講する、数少ない勤勉な生徒でしたので、大した目標もなく若さを免罪符に、遊びばかりに励んでいた私とは全く正反対でした。


 しかし不思議なことに、私と『くま』はどこか波長が合ったと言いますか、よく酒を飲み交わす仲でありました。


 その関係は、『くま』が大手の自動車会社に、私は中小企業への内定を受け、社会人となってからも細々と続きました。

 人付き合いの乏しい『くま』でしたから、おそらく十年来の友人と云える人物は私くらいしか居なかったものと思います。


 ……実を言いますと、『くま』に関して私が思い浮かべることができる情報はその程度なのです。以前どのような会話を交わし、具体的にどのような顔立ちをしていたのか。その名前すら思い出すことができないのです。


 『くま』とは十数年の付き合いを持っていたはずの私を、薄情者だと思われますか。ええ、構わないのです。その通りなのでございますから。



 ──話を戻しましょう。

 三十を超え、遠くなった大学時代を懐かしく思いながら、日々仕事に忙殺されていた頃でした。珍しく『くま』から電話が掛かってきたのです。

 そんなことは、大学在学中を含めても数えるほどしかなかったでしょう。


 学生時代のようにとはいきませんでしたが、それでも以前は年に一度は時間を作り会うようにしていたのです。

 ただ、連絡をするのは例外なく私の方。 

 『くま』はただ言葉少なに返事をし、約束の日にはいつも先に来て、行きつけの居酒屋でちびちびと焼酎を飲みながら私を待っておりました。


 しかし、そんなささやかな同窓会もはぱったり行わなくなって、その時既に三年ほど経過しています。


 娘が小学校に上がり、更に仕事に邁進しようと意気込んでいた矢先の連絡に、私の心中は複雑でした。というのも、本人に会わないまでも、『くま』に纏わる噂を聞く機会はいくらでもあったのです。良い噂ばかりではありません。むしろ、『くま』の切迫した状況を伝える内容で溢れていました。


 曰く、工場で使用する裁断機に巻き込まれ指を切断し、結果的に十年勤めた会社を退職することを余儀なくされただとか。


 曰く、会社から支払われた労災手当及び退職金を、婚姻関係にあった女性に使い込まれ、おまけに多額の負債を押し付けられて逃げられただとか。


 私は、滅多にない『くま』からの連絡を心から歓迎することはできませんでした。

 『くま』が、けして自ら他者と関わりを持とうとしなかったあの男が、三年間も連絡の途絶えていた私に電話を寄越してきたのです。

 おまけに彼は今、借金苦に蝕まれているらしいとか。

 ……不穏な予感を気取らずにはいられませんでした。


 ちょうど、今の私のような状況です。

 多くの人が厄介者扱いするでしょう。

 そんな私の為にいつも時間を作ってくださるあなたが、私は神様のように見えてなりません。

 

 ──すみません。どうにも話が脱線してしまいますね。何度も申しますが、あなた様の時間を無為に食い潰すつもりは毛頭無いのです。


 私は、突然『くま』から掛かってきた電話に、しぶしぶながら出ました。落ちぶれたとはいえ、かつて学び舎を共に過ごした友人です。無下に扱うことは出来ませんでした。


 三年ぶりに聞いた『くま』の声は、ひどく掠れておりました。それは声、というよりは喉奥から微かに息が洩れただけ、と形容した方が正しいのかもしれません。

 電話口で木枯らしが吹いているのかと疑ってしまうような音量で、彼は私の名を呼びました。


 それに対し、私は努めて明るい声で対応しました。彼の荒廃した現状のことなど知るよしもない。そうよそおいました。

 それが『くま』のことをおもんばかってなのか、はたまた面倒ごとに巻き込まれたくない、という保身のためだったのかは、今となっては思い出せません。


「最近子供が小学校に上がった」だとか、「家のローンが馬鹿にならなくて生活が厳しい」などと、自分の話ばかりをしました。

 『くま』に自らの借金の話を持ち出させない為です。

 住宅ローンのことを口にしたのは、こちらも余裕などないのだと言外に匂わす意図もあったのでしょう。


 私はあなたほど優しくはありませんでした。

 あなたは私の下らぬ話に耳を傾けてくださいますが、私は『くま』の言葉を聞こうとすらしませんでした。


 会話が無尽蔵に続くわけもなく、私の声が途切れた隙を見計らって、『くま』は言いました。「頼みがある」と。ついに来たかと、私は思いました。


 どのように断ろうか──と逡巡しゅんじゅうする私でしたが、『くま』はほとんど間を空けずに続けます。


「俺は悪魔と契約することにした。お前にはその保証人になって欲しい」


 『くま』は確かにそう言いました。彼に関する記憶は既におぼろげなのですが、この言葉は寸分違わず覚えております。


 私は目を丸くしました。しかしすぐに『くま』に対する深い同情が湧いてきました。


 可哀想に……借金に追われ精神をおかしくしてしまったのだ。


 私はその時、そう思いました。良識のある人ならば皆、私と同じ感想を持つかと思います。あなたもそうでしょう?

 私が突然悪魔などと言い始めたら、真っ先に頭を疑いますでしょう。


 それから『くま』は私に、「近いうちに会ってくれ」と言いました。

 対面して詳しい事情を説明したいのだと。

 私は全く気が進みませんでしたが、承諾いたしました。

 『くま』があまりにも不憫でしたから。ただ会うだけなら、と軽い気持ちでございました。


 こちらも余裕がないので、金の面で力になってやることは出来ない、と釘を刺しましたが、彼は「構わない」と力強く答え、私達は一週間後の日曜日に再会する約束をしたのです。


 それから日々は目まぐるしく過ぎて、あっという間に約束の日になりました。

 彼が指定した店は私が行ったことのないバーでしたので、慣れぬ道に予想外に苦労し、結局私は時間よりも少し遅れて到着しました。


 店内を見渡しますと、すぐに『くま』の姿らしきものを見つけることができました。

 "らしき"と言いましたのは、その後ろ姿がかつての『くま』とは似ても似つかなかったからなのです。以前の『くま』は体重百キロはありそうな大男でした。

 しかし目に入りましたその人物は背骨ばかりが目立つ、煮干しを思わせる中年男でありました。


 あれが『くま』なのだろうか?

 私にはとても信じられませんでした。


 しかし、男はかなりの高身長で、その点は『くま』の特徴と合致しております。おまけに、出会った当初から彼の後頭部にぽつんと存在していた、五百円玉大の円形脱毛部も確認出来ました。


 何より、その干からびたような男の他に、客の姿はありませんでした。待ち合わせには几帳面であった『くま』ですから、呼び出しておいて時間に遅れるはずもありません。


 彼はカウンター席の小さな椅子に腰を下ろしていました。すぐ前には白髪混じりの頭のバーテンダーが立っておりましたが、何か会話をしている気配はありませんでした。


 私が意を決して『くま』に声を掛けますと、男はゆっくりとこちらを振り向きました。

 その男はやはり『くま』でした。

 予想はしておりましたが、それでも私は驚きました。


 学生時代、彼の頰にまとわりついていた贅肉は既に跡形も無く、皮膚の下からは頬骨が痛々しいほどに隆起しております。

 顔の大きさは半分ほどに縮んだように思われました。球に近かった顔の輪郭が細長いものに変わっているのです。まさに骸骨でした。


 骨と皮になった旧友が、微かに目を細めて私を見ています。その瞳からはどんな感情も読み取ることは出来ませんでした。


 かつての『くま』の面影に重ねることができるのは、窪んだ眼下にかびのように密集する隈くらいのものです。


 『くま』は私の姿を視認しますと、四肢に鉛の重しが付けられているような気怠げな動作で立ち上がりました。その時、今までカウンターテーブルの下に隠れていた『くま』の右手が私の視界に入りました。


 私はうっ、と思わず息を呑みました。


 彼の右腕から伸びる、大きく骨ばった右手。その手の上半分を覆ってしまうように、白い包帯が巻かれていました。露出しているのは太く短い親指のみです。


 包帯は空気にさらされて久しいのか、黒ずんでとても清潔には見えない代物でした。そんな不衛生な布に包まれた『くま』の指は、露わになった親指を含めて四本しかなかったのです。


 ちょうど人差し指にあたる部分が、そっくり消失していました。

 私は出所の分からない『くま』に関する噂の一つを思い出し、戦慄しました。


 皮肉にも目に見えている親指は、ごつごつと節だらけで削れた岩を連想させる造形であり、かつての『くま』のものとほとんど相違はありません。

 そのことが、『くま』の身に降りかかった悲劇の結果をなお一層引き立たせるようでした。


 『くま』は私の動揺に気が付かない筈もなかったのしょうが、特に反応は見せませんでした。


 そして私を自身の横に座らせますと、彼は挨拶もそこそこに本題を切り出したのです。


「俺は悪魔に名を売る。しかし、その為には保証人が要るんだ」


 変わってしまった風貌からは考えられないような、芯のある声でした。電話口のあのか細い声が今の彼の標準なのだとすれば、それはまさに命を削り振り絞った声だったのでしょう。


 私が席に着いた時に、入れ替わるようにバーテンダーはその場を離れて行きましたが、それでもこの会話が第三者の耳に入らないか私は心配になりました。私まで頭のおかしい人間だとは思われたくなかったのです。


 ──さっさと話を切り上げてしまいたかった。

 私は『くま』の言葉におざなりに頷きました。


「保証人でも何でもなってやるから、これ以上馬鹿げたことを言わないでくれ」


 自分でもゾッとする程冷たい声音でした。

 

 『くま』はいくらか寂しそうな顔を見せた後、"悪魔との契約"とやらの詳細を語り始めました。

 

 "悪魔に名前を売った人間は、新たに違う名前を与えられて、別人に生まれ変わる。かつての人生のことは少しずつ忘れていく。

 それに伴い、契約以前に背負った負債等は全て抹消され、完全に新たな人生を歩むことができる。

 しかし、一つだけ気を付けなければならないことがある。契約者は売った名前、つまりかつての自分の名前を記憶しておかなければならない。自分が何者だったか分からなくなると、契約はたちまち効力を失い、それどころかその存在の全てが悪魔のものとなってしまう。

 そこで、契約以前の名前を留めておける『保証人』をたてる必要がある"。


 『くま』はそんなことを言いました。真剣な顔で、です。人生を新たに始められるなど、そんな都合のいい話があるか、とお思いですね。ええ、私もでした。

 私は『くま』の都合の良い妄想に、呆れを通り越し、苛立ちすら覚え始めていました。

 

 そんな私の心情など知らぬ『くま』は、私に「念のため、名前を紙に書いて保管しておいて欲しい」と言いました。ああ分かった、と私は答えました。しかし『くま』は尚もしつこく、名刺ほどの大きさの真っ白な紙とサインペンを取り出し、私に自分の名前を書くように言います。私はうんざりしましたが、彼の言う通りにしました。ちょうど持っていた御守りにそれを入れて見せると、ようやく『くま』は満足したように頷きます。

 

 私はそんな『くま』に、嫌悪感が沸くのを抑えられませんでした。


 その後、私は急用があるなどと言ってすぐに店を出ました。滞在時間は十分となかったかと思います。

 これ以上『くま』と会話を続けるのは不快で仕方がありませんでしたから。

 そのまま真っ直ぐに家に帰り、今日のことなど忘れてしまおうとすぐに布団に潜りました。家族には古い友人に会った、とだけ告げておきました。



 それから数ヶ月経った頃でございましょうか。一本の電話が私の携帯電話にかかってきました。それは大学時代の友人からでした。 

 無論『くま』ではありません。

 あの出来事以来、『くま』とはすっかり疎遠になっていました。


 友人の用件は、久しぶりに当時の仲間で集まって、酒でも飲まないかという内容でした。

 『くま』との一件がなんとなく気に掛かっていて、どうにも晴れない気持ちのまま日常を過ごしていた私は、その申し出にほとんど悩むことなく了承致しました。


 念のため私は『くま』の本名を挙げて、彼は参加するのか、と尋ねました。

 来ない、と友人は断言しました。

 それどころか、彼は『くま』の存在すら忘れてしまっているようで、そんな奴はいたか? と私に聞いてくる始末です。


 私は安心しました。とにかく、『くま』とは会いたくなかったのです。また妙な話を聞かされてはたまったものではない。そう思ったのです。


 当日、私達が昔よく集まっていた居酒屋へ行きますと、既に皆来ており、おまけに大方できあがっておりました。

 集まったメンバーは十人ほどです。

 しかし、その中に見慣れぬ顔が混じっており、私は困惑いたしました。全員中年の顔立ちになったとはいえ、以前の面影は残っているはずです。

 ですが、それは見たことのない男でした。


 鼻筋の通った、なかなかの二枚目です。それだけで記憶に残っていてもいい筈です。

 彼の目の下の黒ずんだ部分が、私の心に取っ掛かりを生みましたが、結局その時はその男が誰なのか分かりませんでした。


 そのうち、誰かがその二枚目のことを『くま』と呼びました。男は笑って応えます。


 私は驚愕いたしました。

 それから、『くま』が語った悪魔との契約とやらを思い出しました。

 その中で彼が語っていたではありませんか、"別人に生まれ変わる"と。


 私はとっさに彼の右手に視線を移しました。包帯どころか、絆創膏の一つも見当たりません。


 それからは気がそぞろになり、宴会どころではありませんでした。たった今『くま』と呼ばれた男は以前の『くま』とは別の苗字──『佐藤』とでもしておきましょうか──です。

 その点から見ても『くま』とは別人です。

 しかし私の知る限り、『くま』というあだ名を付けられた者はあの『くま』以外にはいませんでした。

 

 気が付けば同窓会は終わっておりました。

 皆、少しずつ席を立って店を出て行きます。そんな中、『佐藤』は初めて私に声を掛けてきました。


「俺の"元"の名前が分かるか?」


 以前の『くま』とはまるで違う、爽やかな笑顔を顔に貼り付けていました。私は脊髄反射のように『くま』の名前を言いました。『佐藤』は満足げに頷きました。


 やはり、『佐藤』は『くま』だったのです。悪魔との契約を経て、『くま』は『佐藤』に成った。

 あの時『くま』が私に語った"悪魔との契約"は、全て真実だったのです。


 それから『佐藤』は饒舌に語り始めました──かつての自分が悪魔と契約をしたこと。しかし、一体誰を保証人にしたのかを全く覚えていなかったこと。今日それが分かって大いに安心したこと。


 それから声を潜めて、彼は神妙な顔つきをし、こう言いました。

 ──今はなんとか以前の名前を思い出せるが、それも時間の問題だ。日ごとに記憶が薄れていく。じきに自力では名前を思い出せなくなるだろう。

 今後一ヶ月ごとに会って名前を確認させてもらいたいのだが、いいだろうか。


 私は首を縦に振りました。『佐藤』の鈍色の眼光を前に、拒否をすることなど到底出来ませんでした。


 それから毎月のように私と『佐藤』は会うようになりました。多少酒を交えたりもしましたが、基本的に私が『佐藤』に『くま』だった頃の名前を教えるだけです。


 久々の飲み会から一ヶ月経って再会した頃には、『佐藤』はかつての名前をおぼろげにしか覚えていないようでした。

 私が名前を教えてやると、ひどくほっとしたような顔を見せたことを思い出します。

 その時私は、なぜたった一ヶ月で大事な名前を忘れるのだろう、と驚きを隠せませんでした。

 しかし、『佐藤』と定期的に会うようになって一ヶ月、二ヶ月と経ってから、その理由がわかるようになりました。


 私の中の『くま』の記憶がだんだん薄らいでいき、名前も虫食いのように部分的にしか思い出せなくなってきたのです。

 明らかに普通ではありません。おそらく、人智の及ばない力が働いたのでしょう。


 さらに時が経つにつれ、ついに私は『くま』の名前を完全に思い出せなくなっていました。頼みは、『くま』が私に書かせて御守りの中にしまった、彼の名前の書かれた紙のみでした。


 しかし何とも奇妙な話なのですが、そのメモに記してある文字は私にしか読めなかったのです。

 『佐藤』を含めて、他の者にはただの白紙にしか見えないと。そうでなければ、とっくのとうに私はそのメモ用紙を『佐藤』に渡してしまっていたことでしょう。


 これだけではあまりに心許ないと感じ、私は自分の手帳に『くま』の名前を記したのですが、不思議なことに後で見返すとその文字はすっかり無くなっているのです。『佐藤』も同様のことを試みたようですが、失敗に終わったと嘆いておりました。


 つまり、手に収まるほどの大きさの紙を無くしてしまえば、私は『くま』の名前を思い出す手立てを完全に失ってしまうのです。  

 『くま』の語った悪魔との契約によれば、以前の名前を忘れてしまった者は悪魔の所有物となってしまう。

 

 ──恐ろしかった。自分が他人の運命を握っている、ということがです。その重圧に耐えきれそうにありませんでした。

 徐々に酒に頼ることが増えていきました。それも自宅ではなく、静かに飲めるお店を好みました。誰とも会話をせず、頭を空にしてアルコールを摂取できる時間が心地良かったのです。



 『佐藤』と定期的に会うようになって、半月ほど経った頃でした。いつものように、私は物静かなバーのカウンターで一人飲んでいました。すると、隣に若い女性が座ったのです。美しい女でした。胸元の大きく開いたドレスを揺らしながら、彼女はわたしに声を掛けてきました。


 一言交わしただけだというのに、私はその女の妖艶な魅力に取り憑かれ、狂ったように話をしました。その中で悪魔に名前を売った友人のことを洩らしたところ、女は興味を持った様子でした。私は女の尋ねるがままに、『くま』の名前が書いてあるメモを御守りの中に忍ばせていることまでをも零してしまいました。


 とんでもないことをしてしまった、と私が気が付いたのはそのすぐ後のことです。私が御手洗いに立ち、席へ戻ると女の姿は既にありませんでした。妙な胸騒ぎを感じ、私は鞄を探り御守りを開きますと、その中にあるはずの、『くま』の名を記したメモが無いではありませんか。


 私は顔から血の気が引くのを感じました。あの女は悪魔が化けていたものだったのです。悪魔は私をそそのかし、見事『くま』の名前の書いたメモを奪ったのです。

 これでは『佐藤』はかつての名前を思い出すことができません。一体どんな恐ろしいことになるのか……。


 私はすぐに店を出て、どうにかメモに記してあった文字を思い出そうと躍起になりますが、徒労に終わりました。


 数日経ちまして、私は顔面蒼白のまま『佐藤』と会いました。彼は私の顔を見て、何が起きたのかすぐに分かったようでした。


「申し訳ない、例のメモを無くしてしまった」


 私がそう言いますと、彼は哀しそうな顔を見せて、そうかと呟き、それ以外には言葉を発しませんでした。

 そして、私がまばたきをしますと次の瞬間、『佐藤』の姿は跡形もなく消え去っていました。


 私は後悔の念でいっぱいでした。なぜ不用心にべらべらと話してしまったのだろうか。

 もう私にはどうすることも出来ません。 

 『佐藤』……いえ、『くま』は悪魔との契約にのっとり、存在そのものを奪われてしまったのです。


 携帯電話のアドレスをからは、昨日まであったはずの『佐藤』の名は消えていました。

 居ても立っても居られず、片っ端から大学の知人に電話をしましたが、あの哀れな男のことを知る者はいませんでした……私を除いては。


 私は無意識にジャケットのポケットを漁っていました。すると、その中から出て来たのです。『くま』の名を遺しておいた、あの紙が。

 昨日、いえ今朝家を出た時にはそんなもの無かったのです。『くま』が消えたのを見計らって、悪魔がほくそ笑みながら私の上着にそれを忍ばせる光景が目に浮かぶようでした。

 私はメモをばらばらに破り、捨てました。



 それから私は、魂が抜けたように日々を過ごしました。

 私のことを信用してくれた『くま』を、私は裏切ってしまったのです。彼は私のような男を保証人として選んでしまったばかりに、悪魔に魂を喰われてしまった。


 何をしていても、『くま』のことを思わずには居られない日が続きました。

 少しずつ広がっていく、『くま』に関する記憶の穴を埋めようと、私は常に『くま』のことを考えました。そうしなければ、私は『くま』のことを忘れてしまう。それは何よりも耐え難いことでした。赦されないことでした。



 次第に仕事でミスが続くようになります。

 しかし、私は意にも介しませんでした。


 『くま』を忘れてはいけない。


 当時の私の思いはそれだけでした。

 『くま』の愛読本は何か。

 『くま』の故郷はどこだったか。

 大学時代、『くま』が好んで飲んでいた酒は?


 そんな些細なことすらも、私は脳細胞に焼き付けようと必死でした。そうしないと、『くま』との思い出はぽろぽろとこの出来の悪い脳味噌から零れ落ちていくのです。


 『くま』のことを忘れないことだけが、私に出来る唯一のことでした。

 その為に他の全てを犠牲にすることが、私には当然のことのように思われました。

 


 ──いつの間にかに、職を失っていました。何が原因だったのか、私には思い出せません。そんなことはどうでも良かった。

 私は何を置いても、『くま』の記憶を留めていなければならないのです。


 そしていつの間にかに、妻と娘が家を出ていました。私が仕事を無くしたというのに、家に引きこもってばかりいたことが原因とは思うのですが、私には妻たちの最後の姿を見た日がいつだったか、思い出せません。


 気が付けば家でひとり、備蓄していたカップヌードルを啜るだけの日々を過ごしておりました。ゴミが溜まっていきますが、この地区の不燃ゴミの日がいつなのかなど、私は知りませんでした。調べる気もありませんでした。そんなことに狭い脳の領域を埋める余裕など、私にはなかったのです。


 私の家は競売に掛けられていました。住宅ローンの返済を怠った為です。収入が無く、返すあてのない借金で生活していたのですから当然のことと言えましょう。

 

 私は小さなアパートに住所を変えました。

 そこで、段ボールに詰めた必要最低限の荷物を、四畳半の部屋に広げている時でした。

 私は煩雑とした箱の中から、二冊の本を見つけたのです。それはドストエフスキーの『罪と罰』の上下巻でした。かつてに『くま』に勧められ、購入したものです。彼の愛読書でした。


 私は分厚い本の表紙の文字に目を奪われていました。


 私の罪はなんなのだろうか?

 ──『くま』の信頼に応えられなかったことです。


 では、私の罰は? 

 堕落し、無意味な余生を過ごすことなのか──?


 その時、私の脳内にかつての『くま』の言葉が再生されたのです。


 "罰とは、与える者ではなく与えられた者の為にある"。


 『くま』に関する記憶は日々失われていくばかりでしたから、これは奇跡に近いことでした。


 『くま』の言葉の通りならば、このまま借金を膨らませ続け、人間の尊厳を無くした生き方をするのは、はたして私の為になっているのだろうか。


 私には、そうとは思えませんでした。


 一刻も早く社会に復帰する。それから、『くま』に代わって彼が成し遂げようしていた夢を叶える。それこそが、私の一片の価値もないであろう生涯において、なすべき唯一のことなのではないか、と思いました。


 曲がりなりにも工学部を卒業したのです、時間は掛かるでしょうが、かつての彼の夢だった"新技術の開発"は不可能ではないでしょう。いえ、例え不可能だとしても、私はそれを為さねばなりません。それが私の『罰』なのですから。



 それから私は、まずは生活を安定させなければ、と仕事を探し始めました。職業安定所に通い、そこであなたと出会った、という次第なのです。


 あなたには大変お世話になりました。


 しがない中年の男の為に、あなたは職務の枠を超えて多大な支援をしてくださいましたね。本日こうして御足労いただいたのも、そうです。


 ですが社会というものは、あなたに比べるとけして優しいものではありません。せっかくあなたに紹介いただいた会社の面接にはことごとく落ち、職探しを始めて一年経った今でも、非正規雇用の安い給金で扱き下ろされています。借金も、毎月利子分を返すので精一杯です。

 そして何より、負債を抱え定職につかない四十近くの男への世間の目は冷たいものです。


 忙しい毎日を送る中、最近では『くま』との思い出を脳裏に思い浮かべることが難しくなって参りました。

 既に存在の無い者の記憶を保持している、というのは自然の摂理にそぐわないからなのでしょう。以前の私のように、を犠牲にしてでも記憶を刻み続けていれば別ですが。


 ですが、『くま』の夢である技術革新を成し遂げる、という私の『罰』を忘れることはけしてありません。


 しかし……このままでは、『くま』の願いを叶えるなど、夢のまた夢です。私はしばらく工学の世界から離れていました。新たに学び直さなければならないことも、星の数ほどあるでしょう。


 私にはまとまった額の金が必要でした。 


 それから、『くま』の偉大な目標を実現するには、私の人生に残された時間はあまりにも少ないものでした……。



 そんな折につい先日、私は『くま』と再会を果たすことが出来たのです。

 私は『くま』の顔を思い出すことが出来なかったはずなのに、不思議と彼が『くま』である、とすぐに理解しました。


 『くま』は私が見た最後の姿、つまり頰の肉は削げ落ち、からからに乾いた干物を思わせる風貌そのままでした。


 予想だにしなかった邂逅かいこうに、私は思わず「『くま』っ!」と呼び掛けておりました。

 

 しかし彼は人差し指のない右手でぼりぼりと頭を掻くと、染み付いた陰気な隈の上の濁った目を瞬かせることもなく、こう言ったのです。


 「違う。俺は『悪魔あくま』だ」、と。

 

 私がは、なんと『くま』だったのです。『くま』は悪魔との契約によって、"悪魔"に成っていたのです。


 『くま』の夢を叶える為に悪魔と契約することを決め、その悪魔が『くま』自身であるとは。なんとも不思議な偶然でございました。


 ──そのお顔を見ますに、もうお分かりなのですね。

 そうです、私は悪魔に名を売ることにしたのです。


 私が本日お呼び出しした理由にも、聡明なあなたはもう思い至っているのでしょう?

 

 あなたには、私の名前を記憶し続ける"保証人"になっていただきたいのです。


 このような話をしておいて何を言うか、と思われるでしょうが、あなたには私の経験談を知った上で決断していただきたい。

 

 あの奇妙な話を徹頭徹尾信じていただけたとは思っておりません。ですが、もし少しでも私の言葉から真実味を感じていただけたのであれば。

 私の願いを聞き入れていただきたいのです。


 妻や娘は選択肢にも入っておりませんでした。十年近く会話すらしていませんから。

 友人も、私が持ち家を手放した辺りでひとりふたりと離れていきました。


 私にはもう、あなた以外に頼れる人などいないのです。


  ──私はあなたを信じています。愚かだった私とは違い、あなたは私の話を真剣に聞いてくださいました。


 たった今お話しした通り、特別な手続きなどございません。ただ私の名前である、…………と記したメモを、他人に見られぬような場所に保管しておいていただければ良いのです。

 そして月に一度ほど、こうして私と会ってくだされば。


 無論、危険があることは重々承知です。

 ですが私にはもうこれしか道はないのです。


 どうか、どうか──。どうか、この馬鹿な男の頼みを聞いてください。


 良い決断を、お願い致します。



 ◇◇◇


 数年振りに私の部屋の中から発見されたボイスレコーダーは、そこで事切れた。

 要所要所に差し込まれた機械的な相づちは、確かに私自身のものである。しかし……。


 こんな会話を交わした覚えなど無く、そもそもこの男は──、と私は首を傾げるばかりであった。



 


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