おみくじじいさん

おはなみ

おみくじ

 吐く息が白く浮かぶ季節だったと思う。確か正月ではなかったはずだ。どこかに観光に行った際に、家族でお参りをした。寺だったか神社だったか、もうあまり覚えていない。それくらい昔のことだ。建物を見るには背が小さかったのか、はたまた興味が無かったのか、記憶にあるのは人混みと、石畳の階段くらいだ。

 あまり意味も分かっていないまま、母から渡されたお賽銭を投げ込んだり、手を合わせて目をつむってみたりしたのだろう。退屈な一連の流れが終わった後だったということは覚えている。私はおみくじを引いてきていいかと両親を見上げて尋ねた。父が私の手に小銭を握らせて、引き終わったらすぐに帰ってくるようにと言った。


 私は石畳の上を駆け、おみくじの箱を探した。子供連れの家族や若いカップルが、小さく畳まれた紙を広げているのをいくつか見かけた。しかし、なかなか目当ての箱は見当たらず、私はあちこちをきょろきょろ見回しながら進んだ。やっとのことで見つけたそれは、境内の奥の方に一つだけぽつんと置いてあった。

 なんだか変なおみくじ箱だな、と思った。木でできているそれは黒ずんで古ぼけていて、とても小さかった。所々がささくれ立っていて今にも壊れてしまいそうだ。特に「おみくじ」という張り紙もされずに、ただ上にぽっかりと穴を開けられた武骨な箱は、虫が紛れ込んだりしていないだろうかと思うほど汚かったのだ。

 境内の奥の方まで来てしまうとさっきまでの喧騒が嘘のように静かで、箱の周りにも誰もいなかった。死んだような空間に私と箱だけがあった。さっきすれ違った家族やカップルは本当にここまで来たのだろうかと一瞬思ったが、幼さ故におみくじを引くことが最優先だった私は、臆せず近づいて小銭を入れ、箱の穴に手を突っ込んだ。そして中から一枚、慎重に選んだくじを取り出した。


 「ああ、それ引いちゃったかあ」

突然しわがれた声がして、驚いて振り返った。見知らぬ老人が私の手もとを見ていた。さっきまで誰もいなかったはずなのに、老人は私のすぐ後ろに立っていた。怖い人だろうかと思って慌てて距離を取ったが、老人はそれ以降何も話さず、その場から動きもせず、ただ私の手の中のくじを見つめていた。

 いつもの私ならこの時点で全速力で両親のもとに向かうだろうが、この時はなぜかここでくじを開けなければと思った。老人の視線を気にしながら、私は取り出した紙の封を開けた。

 黄ばんだ紙に書かれた「凶」という文字が目に飛び込んできた。「健康」「恋愛」「失せ物」と言った詳しい内容欄は全て白紙で、結果欄のところのみ、ゆるぎなく最悪の結果が提示されていた。ショックや悲しみや内容欄が書かれていないことへの疑問よりも、凶って本当にあるんだという驚きで、私は正面に顔を上げた。老人の姿はどこにもなくなっていた。


 人の声がする方へ戻ると、両親が慌てた様子で駆け寄ってきた。「終わったらすぐ帰ってきなさいと言ったでしょう」「おみくじのところにあなたがいないから心配した」と叱られた。私が両親と離れてから随分と時間が経っていたらしい。「おみくじのところ」と言った時、母が指をさした。見ると本当にすぐそこに、参拝者に囲まれた朱色のおみくじ箱があった。

 考えてみれば心配性の両親が、幼い娘を目の届かないところまで一人で行かせるわけがなかった。だが眼と鼻の先にあるあの朱色の箱は、さっきの私には探しても探しても見つからなかったのだ。

 あれじゃないほうのおみくじが奥にあったと弁解し、私はポケットの中に手を突っ込んだ。だが引っ張り出した紙を見た途端、ぞっと肌が粟立って悲鳴を上げた。「凶」とだけ書かれていたはずのくじの紙が、墨に浸したように真っ黒になっていた。


 両親の手を引っ張って、境内の奥へもう一度向かった。そこには枯葉の山があるだけで、私が小銭を入れてくじを引いたはずの古ぼけた箱はどこにもなかった。

 両親は私を疑うでなく、ただくじの結果はどうだったのかと訊いた。凶だった、他に何にも書かれてなかったと伝えると眉をひそめ、もう一枚私に小銭を渡してくれた。そして、真っ黒のくじを私の手から取り上げた。

 「あっちのおみくじをもう一回引いてこようか。これはもう忘れなさい」


 両親があのくじをどうしたのか、私は知らない。捨てたのだろうか、燃やしたのだろうか、どこかに律義に結んできたりしたのだろうか。十年以上経った今そのことを尋ねてみても、二人ともそんなことは微塵も覚えていなかった。二人が覚えていないのだから、老人の話を言いそびれてしまったことを、今更話しても遅いのだろう。

 私はあの時何歳だったのだろう。どこを旅行した時だっただろう。お寺だったっけ、神社だったっけ。何をお願いしに行ったんだっけ。時が過ぎてしまって劣化していく記憶の中で、石畳と人混みと、ぼろぼろの箱と、ポケットから出てきた黒いくじと、そしてあのしわがれた声を、今でも時折思い出しては、口の中が苦くなるような不快感がある。


「ああ、それ引いちゃったかあ」

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