第3話 修行

 翌日。

 エルダートによる、天岸 晴の修行が始まった。

 二人が立つ場所は、エルダートの屋敷の修練場所だ。下は土。何もなく、ただ広い。

 未だになにがなんだかわからない晴であったが、エルダートに逆らえば死あるのみだ。


 「修行の前に、これを飲むといいわいのう」


 そう言ってエルダートが水筒から木彫りのコップに得たいの知れぬ液体をなみなみと注いだ。

 それを差し出され、晴は無言で受けとる。


 「儂お手製の秘薬じゃて。さぁいけ、グイッと」

 「……」


 晴がコップの中身を覗いて思わず顔をしかめた。

 まるで、朱のインクを水で溶かしたような色合いの液体だ。

 しかも先程聞こえた秘薬という不穏極まりない言葉。浮かぶのは、覚醒剤だとか、マリファナだとか、そういう麻薬の類いだ。

 どうせ無理にでも飲まなければならないのだろうが、さすがに薬物乱用者にはなりたくない。

 表情からおおよその思考を読み取ったエルダートは、浅黒い頬を人差し指でぽりぽりと描きながら言った。


 「心配しなくても、おぬしを薬物中毒にしようとは思ってないわい。おぬしの世界で言う、『すたみなどりんく』とそう変わらんわ」


 恐ろしき師の言葉を信じて、ごくりと一口にコップを煽る。

 不味くはなかった。ただし、美味くもない。

 秘薬が喉を通り、胃に落ちて、一瞬だけだが全身が熱を持ったような気がした。

 その熱はすぐに冷め、もとの体温感覚が戻ってくる。

 異変と言えばそれくらいで、特に変わったこともなかった。


 「じゃ、始めるとするかいのう」


 その声で、晴が改めてエルダートの方を向く。

 師の機嫌を損ねないよう、できるだけ無言無表情を貫いているが、内心ではどんなことをするのか恐怖で満ち溢れていた。

 エルダートは二本ある内の一本の剣を、鞘から引き抜く。

 装飾などは一切ない、緩く弧を描く物々しい片刃の剣。いや、剣と言うよりは刀と言ったほうがいいかも知れない。


 「よく見てるわいのう」


 エルダートがそう言うや、刀を上段に構えた。

 そうして、勢いよく振り下ろす。

 言葉にすればそれだけだ。たが実際に見てみると、その行為に対してそれだけだ、とはとても言えない。

 剣術のずぶの素人である晴ですら美しいと思ってしまうほどの振り下ろし。

 ぴたりと刀は停止し、軽い風圧があたりを薙ぐおまけつきだ。


 「お前はこれから儂の『異流剣術』を教わるわいのう。読んで字の如く、この世界のすべての剣術と異なる形の剣術じゃが、やはり基本はここからじゃて」

 「は、はぁ……」

 「うむ。ではこの素振りを……そうじゃな……まぁ、千回。とりあえずやってもらうとするか」

 「せっ……!?」


 危うく声になりそうなところを慌てて抑える。

 エルダートがその様子を見て「ほぉ」と声を漏らした。


 「我ながら軽すぎると思っていたが……そうかそうか、ヌシもそう思うか。ではプラス二千回の計三千回でどうじゃろうか?」

 「せ、千回でお願いします!」

 「あら、そうか? まぁ別にいいがの」


 そう言って、エルダートはもう一本の刀──先程のよりも少し小振りなもの──を鞘から引き抜いて晴に渡す。

 初めての刀はずしりと重かった。


 「真剣……」

 「クカッ。早いこと本物に慣れた方がいいからの。心配せずとも、ヌシが儂に襲いかかったって億分の一の勝利もないわい」


 「さ、始めよ」その言葉で晴も探り探り素振りを始める。

 振り上げるのは大変だが、振り下ろすのは意外にも簡単だ。刀の重さに従って、肩を動かせばいいのだから。

 二、三、四……と順調に数を重ねていく。これならば、千回はともかく五百はぎりぎりいけそうだ。

 エルダートが脇でにやにやと笑いながら眺めているが、その意味は晴にはわからない。

 ともかく、晴はただ刀を振り続けた。

 結果、六十あたりで限界が訪れた。


 「はぁっ……はぁっ……」

 「どうした? 素振りが止まっておるぞ?」


 エルダートの声に急かされ、ぐぐと刀を持ち上げる。そして、力を抜くように振り下ろした。

 これで六十一。しかし、一回一回があまりにも遅い。

 剣筋も乱れに乱れ、果たしでこれが既に素振りと言えるのだろうか。

 腕が痺れ、危うく手を離しそうになる。それでも掴んだままであったのは、ひとえにエルダートから来る恐怖からだろう。


 「クク……。腕だけで振ろうとするからそうなるんじゃわいの」


 そう言うと、エルダートは自らも再び刀を構えた。そして、さっきと同じく、振り下ろす。


 「……わかったかいの?」

 「え……えぇ……?」


 晴には困惑して首を横に振ることしかできない。

 それにエルダートは己の額をぴしゃりと叩いた。


 「カーッ、しょうがない。大サービスじゃわいのう。ほれ、儂の膝と腰に手を置け」 

 「……」


 言われるがまま、エルダートの腰と膝に手を置く。

 それを確認して、エルダートはまた一連の動作を行った。


 「……膝が……曲がってる……?」

 「そう、刀の動きに合わせて膝を曲げるんじゃわいの。足腰に力を入れて力の中心を作り、胴を固定させて大きく腕を振る……。全身を使え。腕だけだと、その内千切れ飛ぶわい」

 「……」

 「最後のは冗談よのう。さぁ、休憩は終わり。続きを再開じゃ」


 言われた通り、刀を振り上げ、振り下ろす。その瞬間、刀に合わせて少し膝を曲げた。


 「……!」


 刀の勢いが増したのがわかった。

 腕の動きは先程同様に重いが、剣筋は乱れがマシになる。


 「足腰の力がまだ弱いのう。踏ん張り、体を安定させよ。膝の曲げもタイミングがズレとる」

 「は……はい!」


 なぜ自分が声を高くして返事したのかはわからない。

 晴にそのことを考える暇もなければ、余裕もなかった。

 ただ、晴はへとへとになりながらも素振りを続けた。


   ◆ ◆ ◆


 刀を取り落とし、どさりと晴自身も倒れこむ。

 汗を大量に流して気絶する晴を見下ろす剣武神は、先に刀を拾い上げた。


 「五百と四十二……。貧弱な体にしては、持った方かの」


 特に、最後の方は素振りと呼べるものではなかった。それでも気絶するまで刀を振り続けるのに止めよと言うのは不粋である。

 「エルミネ」エルダートのその声で、黒を基調としたメイド服を着た女がどこからともなく現れた。


 「……なにか御用でしょうか。エルダート様」

 「小僧を部屋に連れていけ。筋肉を揉みほぐすのも忘れずに、のう」

 「はっ……。かしこまりました」


 そう言うと、エルミネと言う女は倒れている晴を抱えて歩いていく。

 残されたのは、エルダート只一人。

 ぽつりと、エルダートが言った。


 「千回は達成できなかったのう。罰として……、起きたら、走らせるか」

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