第11話
玄関前の通りには、クルミが家を出た数時間前と同じように、建物の階上に住んでいる男の子たちがいて子供らしくボール遊びをしながらキャーキャーと騒いでいた。
クルミはフフンとお姉さんぶった顔をして横目に通り過ぎた。
日はまだ高く、道の端に転がっている――多分遊んでいる男の子たちの持ち物だろう白い全身スーツを着たヒーロー人形が、眩しく光を照り返していた。通りに植えられた低木の葉の一枚一枚も、膨張して破裂してしまいそうな程、面一杯に光を取り込んでいた。
しかし玄関の扉をくぐり家に入ると、急に光や音がしぼんでいって、いまだ朝のモヤの中に沈んでいるような薄暗さが続いていた。家の中からは何の音も聞こえず、ただ外の喧騒だけがくぐもって微かに聞こえている。
まだ母は眠っているのかしらと考えながら、靴を脱ぎリビングへと向かうと、考えとは違って母は起きていた。
電気を点けずに薄暗い中、まるで夜中の光景を再現するように、テーブルの傍で丸まってコーヒーを飲んでいる。
夜には気付かなかったけれど、母のその姿はなんだか疲れているような、落ち込んでいるような雰囲気を纏っているように思えた。
「おかえり」
母はチラリと一瞬だけ姿勢を崩しクルミを見ると、それだけ言ってまた元通りに丸まった。出かけた理由を尋ねてきたり、仕事に向かう前のお決まりの愚痴を言ったりしなかった。
「ただいま」
クルミはいつもと違う母の様子に戸惑いつつ一言だけ返して、少し迷ったのだけれど部屋には帰らずに、テーブルを挟んだ母の真向かいの椅子に腰を降ろした。
なんだか母を放っておいてはいけない気がしたのだ。
母は抱え込むようにして持ったマグカップの底を見るように視線を下げていたけれど、少し間を置いてから、「ねえ、クルミ」と呟いた。
「ムカイさんね、もう家に来る事ないと思うよ。お母さん、彼フッちゃったから」
クルミは言葉に詰まってしまった。突然の告白に驚いたというのもあるし、家に来るようになっていた男の人の名前がムカイである事をこの時まで忘れていたので、一瞬頭にイメージ出来なかったからだ。
少し間があいてしまったけれど、クルミは気まずさを打ち消すように、母に理由を尋ねた。
「え……。なんで?」
「なんでって。あなた彼の事嫌いだったでしょ?」
「嫌いじゃないよ?」
「だって、あなた彼が来た時は、避けるように早く寝てしまうじゃない」
またしても言葉に詰まる。
避けていたのは事実なのだけれど、嫌っているのとはまた少し違う気がする。しかし、その時の感情を上手く説明できなくて、クルミは無言で俯いてしまった。
「私にとってクルミは一番なのよ。なにがあっても一番。あなたが避けちゃうんじゃ、これから先ムカイさんといても上手くいきっこないから、思い切って、もう来ないでってお断りしちゃったの」
そう言った母の声には、なんとも形容しづらい温もりがあって、それは確かに温かい言葉だったのだけれど、触れれば鈍い痛みが伴うような、微かに鉄の臭いが鼻を掠めるような、不思議な感情がこもっていた。
クルミは俯きながら、これまでの自分というものを恥ずかしく感じていた。
それもまた世界が広がった故の感情なのかもしれないけれど、母の心情を顧みず、ただ自分の事だけを考えていた過去の自分というものがなんだかちっぽけで拙いものに思えた。そして、とうとう母に説明出来ないまま決心をさせてしまった事を申し訳なく感じた。
――小さな生き物にだって感情があって、わたしの行動を見て感謝すらするのだもの。わたしの様子を見て母がなんとも思わない訳ないじゃない。
クルミは母にどう言ったものか、考えて、考えて、やっと言葉になりそうな欠片みたいなものを一生懸命に舌の上に乗せて、言葉を紡いだ。
「お母さん、あのね……。わたしはムカイさんの事、嫌いとかじゃないのよ。ただ……そうね、きっとわたしは、ヤキモチを焼いていたのだと思うの。
わたしのお母さんが、ムカイさんといるとお母さんじゃなくなってしまっているような気がして……、なんだかそれが悔しかったのよ。
でもね。わたし、わかったの。お母さんにはお母さんの気持ちがあるのよね。そんな事にも気づかなかったなんて、わたしが自分勝手な子供だったのよ。
わたし……、これからは起きて二人を待っているわ。実は一杯話したいこともあるのよ? だからお母さん。もう一度ムカイさんと話してみたらどうかしら」
母はクルミの言葉を受けて、一瞬呆けたような表情をし、それから柔らかい笑みを浮かべ、「そう……そうね」と、心地良さげに吐息を漏らした。
それから少しばかり、ムカイさんについて母と相談した。話している内に母の様子もすっかり元通りになって、仕事の愚痴をこぼし始めた。それに、クルミが出かけた理由についても尋ねてきたので、クルミはカササカさんと会った事を教えた。人頭蜘蛛について説明するか迷ったけれど、どうにも母を納得させるように話すのは難しくて(ただでさえ母は蜘蛛が嫌いなのだ。嫌な顔をするに決まっていた)、ペットが逃げたのをクルミが助けたという事にした。
母はカササカさんに対して良い印象を持っておらず(その理由はきっと、昨日の夜に娘との危ない関係を想像してしまった事が影響しているのだろうけれど)、お礼の言葉はもう貰ったので家にはもう来ない事を教えると、「あらそう」と簡素に言って話を打ち切った。
色んな事がありすぎて考えがグルグルと廻っていたけれど、睡眠不足とある種の達成感めいたものからか、この日、陽が落ちて早々にクルミは心地よい眠りについた。
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