第8話
「昨日はどうもありがとう。おかげでこうして元気に生きているよ」
おじさん蜘蛛は前脚で顔の下を擦りながら、にこやかにそう言った。
クルミはここで驚いちゃ失礼にあたるかしらと、無理矢理言葉を捻り出した。
「あの……、良かったわ、元気になって。あの、あの……」
「ああ、そういえば名乗っていなかったね。私はカササカというんだ。まあ、君の隣に座っているのもカササカなんだけどね。エヘヘ……」
――蜘蛛のカササカさんと人間のカササカさん。顔と声が似ているだけでもビックリなのに、名前も一緒だなんて!
クルミは確認するように隣に座るおじさんを見た。人間のカササカさんは、子供をあやすような目つきで同じ顔の蜘蛛を見つめていた。
――ああ、そうか。親子のような関係なのね、きっと。
蜘蛛と人間という違いはあったけれど、聞きたいことが山ほどありすぎてクルミはひとまずそのつもりで納得した。
蜘蛛のカササカさんは、足元からベンチの上へと、同じ顔をしたおじさんの作業ズボンに脚を引っ掛けて這い上がってきた。はじめこそ何から話せばよいのか迷ったクルミだったけれど、一つ口に出してみれば次々と質問が口からこぼれ落ち、二人のカササカさんと長い時間話し込んだ。
蜘蛛のカササカさんは「人頭蜘蛛」という種類のとても珍しい蜘蛛で、人の言葉を理解し、話す事ができる。餌に秘密があるらしいのだけれど、生まれたばかりの時は蜘蛛らしい顔をしていて、徐々に飼い主にそっくりになっていくらしい。
昨日の事。人間のカササカさんは人頭蜘蛛をキャリーケースの中に押し込んで、ある場所に向かっていた(ある場所がどこかは教えてくれなかった)。その時、何かの拍子でキャリーケースの入り口を固定している金具が外れ、それに気付いた人頭蜘蛛のカササカさんは興味本位でケースの中から逃げ出した。
逃げ出したのは良いものの、自分の姿が特別なものであると理解している人頭蜘蛛さんは人間に見つかる事が急に恐ろしくなって、人のこない路地裏に逃げ込んだ。夜になってから動き出そうとジッとしていたものの、朝からキャリーケースの中にいてろくに餌を食べていなかったからお腹が減っていた。
いよいよお腹が空きすぎてどうしようか切羽詰まっている時に、丁度クルミが通りがかって美味しそうな物をぶら下げていたから、姿を現してしまったという訳だ。
その時、人間のカササカさんの方はというと、人頭蜘蛛が逃げ出した事にしばらく気付かず、のんきに目的地へと歩いていた。
クルミが慌てた様子で路地裏から飛び出してきた所に丁度居合わせていて面食らったのだけれど、ふとキャリーケースを見ると入り口が開いて中にいた筈のものがいない。まさかと思い、太い体で苦労して路地裏を進んでみると、そこに人頭蜘蛛がいてなんとか回収する事ができた。
人頭蜘蛛から事情を聞いたカササカさんは、なんとかクルミに、餌を与えてくれたお礼と驚かしてしまった謝罪をしたかった。そこで、町にいる虫たちに教えてもらって(驚く事に、人頭蜘蛛は虫たちと意思疎通ができるのだ!)クルミの家を訪問したという事らしい。
「それにしても、不思議ね。顔がそっくりになっちゃうだなんて。それに虫さんとお話できるだなんて!」
クルミは感嘆の声を上げて、長い話に一区切りをつけた。二人のカササカさんはどちらも紳士的で、もはや恐れはなくなっていた。虫と話が出来ると聞いてからは、羨ましいとさえ思っていた。
小さな子どもと母親が公園に入ってきて、ブランコで遊び始めた為に、人間のカササカさんは、見つからないように人頭蜘蛛の彼をキャリーケースに戻しながら、感慨深いといった調子で答えた。
「小さな生き物だって、考え、理解し、時には人間に感謝する事だってあるんだ。コイツは人間の言葉を喋る事が出来たから、それを口にする事ができたのだけどね。クルミさんは小さな生き物たちの間では評判なんだよ。とても優しいってね」
「まあ。それはとても嬉しいわ。わたし、虫さんやトカゲさんや蜘蛛さんが大好きだもの」
「いやはや。先入観を持たず、相手を思いやれるだなんてなかなかできる事じゃない。……ところで」
カササカさんはキャリーケースの金具がしっかり固定されたのを確認してから、おもむろに体ごと顔をクルミへと向けた。
「実はコイツにはね、子供がいるんだけれど、なにぶん餌がちょっと変わったものだから手に入れるのに苦労していてね。そこでクルミさんにお願いがあるのだけれど……」
「あら、なにかしら?」
「クルミさんのね。手や足の爪とか、髪の毛。足の裏の皮とかをね。ちょっとだけでいいんだ。分けてもらえないかなあ?」
カササカさんは申し訳ない顔つきをしながら、瞳にはどこか期待のような色を浮かべてそう言った。
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