第7話
男はひどく汗をかいていた。
前を開いた作業服の下には白いシャツを着ていて、それが汗で体に張り付きポコリとしたお腹が目立ってしまっている。アシカのヒレ足のように分厚くて平たい手にハンカチを持っていて、角ばった鼻、額から頭のてっぺん、太い首、と順番に汗を拭きながら、クルミとの距離を推し量るようにジワリジワリと足を踏み出す。もう片方の手にはペット用のキャリーケースをぶら下げていて、それが重たいのかアンバランスな歩き方をしていた。
クニャリと細めた目の端にシワを寄せ、お椀のような曲線を描いていた口の隙間から舌をチロリと出してぶ厚い唇を舐め、もう一声かけようか迷っている様子を見せ始めた。
そこでやっと、クルミは振り向いた姿勢のまま、挨拶もせず男をマジマジと眺めてしまっていた事に気づき慌てて挨拶を返した。少し恥ずかしかった。
「こんにちは!」
「エヘヘ……、いや、丁度ね。お嬢さんのお家へお礼に伺おうとしていたところだったんだよ。会えて良かった、良かった」
「あら、そうなの? そうよね。また来るってお母さんが言っていたし。でも、ワタシ聞きたい事がいっぱいあったから待っていられなくて……。おじさんを探していたのよ」
「ああ、ああ。そうかい。そうだろうね。そうだろうとも。お嬢さんの気持ちはよおくわかるよ。なにせ、とんでもなく驚かしてしまっただろうからね。……少し座らしてもらっても良いかい?」
男はクルミの座っているベンチを指差して、後生のお願いをするように眉尻を下げた。表情に疲れの色も見て取れた。クルミはベンチに広げていたバスケットを抱えて、公園の入り口から見て奥側の端へと小さいお尻をずらした。空いたスペースを彼に勧める。
男は一言礼をいってからベンチにドスリと腰を落とし、足元にキャリーケースを静かに置いた。同じベンチに座るのだから自然とクルミとの距離も近くなる。ふと、甘くて鼻の奥が広がるような香りが届いたけれど、それが彼の匂いなのか、それとも違う所から来たものなのか、クルミには判別がつかなかった。
「ねえ、おじさん。聞いても良いかしら?」
男が納得のいく座り心地について落ち着いてから、クルミはさっそく質問をした。
「今おじさんは人間の姿をしているけれど、昨日の……あの姿とどっちが本当のおじさんなのかしら?」
「あの姿というと?」
「あら、わかるでしょ。狭い路地で出会った時の姿よ。その時はこんなに大きな体をしていなかったじゃない。フカフカした脚が顔の下から生えて、体も子犬みたいに小さかったわ。ワタシ、おじさんは蜘蛛の仲間だと思ったのだけれど……。人間に変身できる蜘蛛なのかしら。それとも蜘蛛に変身できる人間なのかしら?」
男は二、三秒程キョトンとした顔を作ってから、やがて合点がいったという様子で深く何度も頷いた。
「ああ……! なるほど! お嬢さんは昨日見たものと私が同じモノであると思っているのですね。無理もない。確かに同じ顔をしているもの。エヘヘヘ……」
「違うの?」
「それはね、ああ……、まずお嬢さんに見て頂いた方が話が早いのかもしれない。いいかい?……怖がらないかい?」
「怖いなんて気持ちはベッドの上に置いてきちゃったわ。それよりもワタシ、おじさんの正体が知りたいの」
本当は同じベンチに座っている事も、会話をしている事も少し怖かったのだけれど、強がってそう答えた。
男はクルミの目の奥を覗き込むようにじっくりと確認した後、おもむろに地面に置いていたキャリーケースを近くに寄せた。そうして一呼吸置いてから、横についている細かい格子になった入り口を、ゆっくりと開けた。
そこまでくるとクルミにもキャリーケースの中に何が入っているのか察しがついたのだけれど、それでも胸の鼓動が早くなるのを感じた。
いよいよケースの奥から毛深い脚が覗いて、薄い頭がヒョコリと見え隠れすると、クルミはひゅっと息を吸い込んだ。
全身を陽の下に晒し、足元に這い出たソレが、眩しい陽光に目を細めるようにしてクルミを見上げた。
「お嬢さん、こんにちは」
おじさん蜘蛛はベンチに座る男と、同じ顔、同じ声で、同じ挨拶をした。
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