第6話

 陽はとっくに昇り、窓の外からボール遊びをする子供たちの声が聞こえてくる。晴れやかな一日は既に始まっていて、休日の騒々しい空気が辺りを満たしていたけれど、七門家にはまだ、薄絹のような眠りの静寂が漂っていた。

 夜遅くまで働く母が午前中に目覚める事がないのは、今に始まった事ではないけれど、クルミは違う。いつもなら、朝から元気よく部屋の掃除をしたり洗濯物をしたりと、パタパタせわしなく動くのが当たり前だったのだけれど、今日は少し様子が違っていた。


 あれからクルミはどうにも眠れなくなってしまっていた。ベッドに横になっても頭の中がグチャグチャと絡まってしまっていて、それを一つ一つ解くように考えを巡らせている内に朝がやってきてしまった。体は眠りを求めてズッシリと重たくなっているのに頭の中は元気よく騒いでいる。

 部屋の掃除をする時間になっても、洗濯物を干す時間になっても、クルミは動くことが億劫でベッドから抜け出せずにいた。時折、絞りカスのような眠気がやってきたけれど、すぐに霧散して、パチリと目が開く。

 ついにクルミは眠ることを諦め、グググと体を起こしたのだった。


 ――いくら考えてもおじさんの正体なんてわからなかったわ。おじさんは後日、改めて家に来ると言っていたらしいけれど、そんなの待っていられない。こうなったら、ワタシから会いに行ってみましょう!


 重たい体に鞭を入れて、クルミを立ち上がり部屋を見回した。無駄な時間を過ごしてしまった事を後悔しながら軽く部屋の掃除を済ませると、次はリビングへ。

 洗濯や食器の洗い物といった家事を手早くやっつけて、起きた母の昼食用に、それと、もしかしたらおじさんはまたお腹を空かせているかもしれないからと、サンドイッチを作った。

 ――おじさんは多分……雑食よね。きっとレタスも卵もパンも大好きよ。だってサンドイッチが嫌いなおじさんなんていない筈だもの!


 準備が整ったのは午前十一時。

 クルミは淡黄蘗うすきはだのワンピースを着て、麦わら帽子を被ると、弁当箱サイズのバスケットにサンドイッチを詰めた。リビングのテーブルの上に母の昼食と「出かけてきます」と書いたメモを置き、よし、と一声。

 意気盛んに、玄関から飛び出した。 


 外はうだるような暑さで、雲一つなく照らす太陽が、町にハッキリとした濃い影を作っている。クルミの足元から伸びる影にいたっては、黒い両手両足をパタパタと元気に動かしていて(それはクルミが早足で歩いていたからなのだけれど)、まるでそのまま足元から千切れてひとりでに歩いて行きそうだった。

 なんだか影が逃げ出してしまう気がして、それは少し困るかなと、クルミは自分の影を踏むようにして歩いていたのだけれど中々うまくいかない。そうしているうちに、早足がいつのまにか駆け足になっていて、美容院とクリーニング屋の間、おじさんに出会った狭い路地の前に着く頃には、背中と頭が、汗でビッショリと濡れていた。


 一度ホウと息を吐き出してから、クルミは躊躇する事無く狭い路地に体を押し込んだ。昨日と同じように、温い風を出す室外機や、ウネウネしたホースや、危ない植木鉢群を器用に避けて、おじさんが隠れていた木箱の前に至った。

「こんにちは!」

 クルミは元気よく挨拶をした。恐怖は心の奥底にしまっておいた。

 木箱からは反応が返ってこなかった。

 ――いないのかな? 出会った時は蜘蛛の脚だったけれど、昨夜は人間の体が付いていたみたいだし……。

 木箱の隙間を覗き込んでみたり、少しガタガタ揺らしてみたりしたけれど、おじさんの気配は感じ取れなかった。

 クルミはちょっと拍子抜けな気持ちでしばらく呆けてから、やがてフスンとやる気を持つと、路地から抜け出して、おじさんを探す事にした。


 側溝の中、塀と塀の隙間、立ち食い蕎麦屋、ゴミ箱の中、酒屋、タバコ屋、自動販売機の裏。ウロウロ歩いてみたものの、探す場所が多すぎてまいってしまう。

 もしかしたら知っている人がいるかもしれないと思い、

「すいません。蜘蛛みたいな脚を生やしたカササカさんって方を知りませんか?」

 と、人に尋ねてみたのだけれど、知っている人は居らず、ただ奇異な目を向けられるだけ。


 段々と足も重たくなってきて、クルミは住宅地の中にポツリとあった公園のベンチに座り、一休みする事にした。ブランコと砂場があるだけの小さな公園には他に誰も居らず、クルミの座るベンチの後ろからセミの声がするだけ。時刻は午後一時を少し過ぎていた。

 ――なんだか足に重りを付けたみたいだわ。それにお腹も減っちゃった。

 クルミは少し悩んでから、手に持っていたバスケットの中からサンドイッチを一つ取り出した。

「おじさん用に持ってきたものだけれど、仕方ないじゃない。だってお腹が減っていたら、おじさんを探すことができなくなるもの」

 誰に聞かせるでもなくポツポツと言い訳を口にして、クルミはサンドイッチをパク

リと齧った。

 公園のベンチはちょうど木陰になっていて、サワサワと鳴る風が肌とワンピースの隙間に入り込み、心地良い。思わずハアと声を漏らした。


「お嬢さん。こんにちは」

 その声が聞こえたのは、クルミが一つ目のサンドイッチを食べ終え、二つ目に手をつけるか迷っている時だった。

 クルミの体がビクリと跳ねる。慌てて声のした方向へ顔を向けると、薄緑の作業服を着た男が立っていた。

 その男は人間の姿で、クルミの探しているおじさんと同じ顔をしていた。

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