第5話
クルミはふと目が覚めて、体を起こした。枕元の時計を見ると深夜の一時だった。
――男の人は帰ったのかな。そもそも家に来たのかな。
リビングから話し声は聞こえてこない。目論見通り、ベッドに潜り込むとすぐに寝入った為に、母が帰ってきた事も、その隣に男の人がいたのかどうかにも、全く気づく事がなかった。
耳を澄ませて、母のピーチクと高い求愛の声や、水の中で太鼓を叩いたような、くぐもった男の人の声が聞こえてこないか、リビングと繋がるドアを注視していると、全く違う所からカリカリと何かを擦る音が聞こえた。
背後にある、窓の方向からだ。ハッとして、そちらへと顔を向けた。
窓には薄緑のカーテンが掛かっていて外の様子は伺えないが、クルミはなんとなく嫌な予感がした。身動きしないでいると、またカリカリと音が鳴った。まるで尖った脚でガラスを引っ掻くような……。
恐る恐る窓に近づく。しまっておいた恐怖心が疼いたけれど、何かに惹きつけられるように、カーテンを開いた。
部屋の窓は通りに面している。外から覗き込まれないように、目隠しとして低木が植えられていて、それが暗闇の向こうにヌボオと立っている。それだけだ。他にはなんの気配も感じない。やがて、低木の彷徨うように長く伸びた枝葉の一つが、風の強弱に合わせて、部屋の窓を擦った。カリカリ、カリカリ。
――なあんだ。
クルミは安堵のため息を漏らした。そして、その息に微かに残念な気持ちが混ざっている事に自分自身が驚いた。元より、好奇心旺盛な性格なのだ。おじさん顔をもう一度見れるかもと、心のどこかで期待していたのかもしれない。
おかげですっかり目が冴えてしまったクルミは、手早くカーテンを戻すとリビングへと足を向けた。すぐにベッドに戻る気になれなかったし、少しだけ母の様子を確認しておこうと思ったのだ。最近は顔を合わせるのを避けるようにしてしまっているけれど、本来は大好きな母なのだ。顔を見て安心したかった。音や声はしないから、もう男の人は帰っただろう。
リビングの灯りは消えていなかった。台所と一緒になった八畳程のスペースの真ん中に、真四角の木製テーブルと四つの椅子。母が椅子の一つに座り、まるでテーブルを抱くように腕を広げ、体を丸めていた。
酔いつぶれたのかな、とクルミは思った。しかし、
「あら、起きてたの?」
「ううん、ちょっと目が覚めたの」
「……そう」
母は酔っておらず、クルミの姿を見つけるとすぐに丸い体を伸ばして、体で包むようにしていたテーブルの上のマグカップを手に取った。
真っ黒いコーヒー。
普通、カフェインの効果って逆ではないかと思うのだけれど、母は眠れない時、眠りたい時にそれをよく飲む。
「男の人、帰ったの?」
クルミは、見渡せばすぐにわかるような事を、敢えて聞いた。特に理由はなく、ただ確かめたかっただけだ。
「今日は来てないわよ。……それにも気付かないなんて、本当に寝ちゃってたのね」
「うん。今日はちょっと疲れちゃってて」
母が探るような目で見るものだから、クルミはなんだかいたたまれなくなり、言い訳がましくツラツラと答えた。
「そういえば」と母が、テストの成績を言及しようとする時の顔つきになった。
「少し前に、男の人が訪ねてきたわよ。『お子さんはご在宅ですか?』って。夜遅くに来て、怪しかったから用件を聞いたの。そしたら『今日、お子さんに随分助けていただきましてそのお礼に来ました』って言ったのよ。あなた、なにかしたの?」
男の人がクルミを訪ねて来た? さらに今日、命を救われた?
クルミにはまったく心当たりが無かった。今日は夕食の買い物に出た以外で、これといった事はしていないのに。クルミは不思議に思い、しばらく考えてから、アッと気付いた。
「その人、どんな人だった?」
「どんなって……、頭の天辺が禿げてしまってる、そうね……四十代くらいのおじさんよ」
「体は? 体は?」
クルミには思い当たるおじさんがヒトリ(?)しかいなかったので慌てて母に問い詰めた。
「体? ちょっと小太りだったかしら。ねえ、なあに? あなた、まさかイケナイ関係とか作ってないでしょうね」
「あれ? おかしいな……、こう、顔の下に脚が生えていなかった? ワシャワシャって」
そう言ってクルミは、顎の下に両手首を付けて指をクネクネと動かして見せた。
母はそんなクルミを訝しげに見るばっかりで、勘違いをして、眉を吊り上げた。
「ちょっと、クルミ。援助交際をしてるなら母さん、本当に怒るわよ」
「え? 援助交際ってなに?」
「援助交際っていうのは、交際を援助するって意味よ。……まあ、あなたがそんな事する訳ないわね」
本当になんの事かわからない、といった様子のクルミの顔を見て取り、勘違いをすぐさま解消させた母は、とりあえず安心といった様子で、おもむろに立ち上がり、ウウンとあくびをした。どうやら眠たくなってきた為に、はやく話を打ち切りたいらしい。
「とにかく、今は出られないって答えたらそのおじさん、また後日改めてお礼に伺うって言ってたわよ。名前は確か……カササカさん、だったかな」
「後日って……。また家に来るの?」
「そうみたいよ。私も詳しい話はその時に聞くわ。今日はもう、眠くなってきちゃった」
マグカップを台所のシンクへと落とし、テーブルを軽く拭いた母はスタスタと自分の寝室へ向かう。まるで心配事や面倒な事はすべて後回しだと宣告するような「おやすみ」をクルミに向けて飛ばし、扉の向こうへと消えた。
頭の中がグルグルと混乱していた。
小太り? お礼? カササカさん? どうしてワタシの家を知っているの?
次々と溢れ出る疑問に縛り付けられるように、クルミはリビングで一人、身動きできずにいた。
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