第2話
クルミは口をパクパクと動かして、やっとのことで呼吸の仕方を思い出した。それ程の衝撃が身体中を駆け巡っていた。
ついに指先から買い物袋が滑り落ちてドサリと大きな音をたてたけれど、予想外にもそのオジサン顔の生物は逃げなかった。
逃げずに落ちた買い物袋の方へと視線を移し、喜色満面といった顔を見せた。目尻に皺を作り、唇の端がニヤアと上がる。ともすれば今にも飛びついてきそうな、そんな気配を漂わせ始めた。
クルミはまだ体が固まってしまっていて上手く動けなかったけれど、油断せずに視線だけ買い物袋へと向けた。白いビニール袋の口からは薄切り加工されたハムのパックがこぼれ出ていて、オジサン顔の生物はこれを狙っているのだと気付いた。
――きっと、ハムが欲しいのね。でもどうしよう……。
クルミは迷った。頭の中では、一刻も早くこの場から逃げ出したいという恐怖心と、もっとよく観察したいという好奇心が、激しく対立している。まるでギチギチと綱引きをしている真ん中に立っているかのように、クルミの心情はアッチコッチと揺れ動いていた。
鼻から大きく息を吸い込む。カビ臭くて湿気のこもった空気を思い切り肺に入れて、口からフシューと一気に吐いた。
意を決して、クルミはそのオジサン顔へと話しかけた。
「こんにちは。今日も暑いですね」
もし、眼の前のオジサン顔が「いやあ、本当ですなあハハハ」とか気さくに挨拶を返してきたら、いよいよクルミはパニックになって逃げ出しただろうけれど、そうはならずに、オジサン顔はキョトンとした眼をクルミへと向けてピタリと動きを止めた。そして訝しげな表情に変わった。
言葉はわからないのだろうか……。クルミはほっと胸をなでおろして(自分でもなにに安心したのかよくわからなかったけれど)とにかく一息ついて、気持ちを落ち着かせた。
――これはちょっと……いや、かなり人間に似た顔をしているけれど、きっと蜘蛛よ。フサフサの脚に大きなお尻。顔を見なければなんだかタランチュラに似ているじゃない。ええ、そうよ。蜘蛛なのよ。世の中には魚に似ているおじさんやカエルに似ているおじさんがいるのだから、その逆で、おじさんに似ている蜘蛛がいても不思議じゃないのかもしれない。うん、そうよ。そういう事よ……。
オジサン顔の蜘蛛はクルミへと向けている視線をまたチラチラとハムのパックへと移している。
クルミはさらに勇気を出して、ハムのパックを手に取り包装を剥がした。
「お腹が空いているのかしら。ちょっと待ってね。今からハムをあげるから」
そう言ってから、ハムを一枚、近くに転がっていた木の板の上にオズオズと置いた。
おじさん顔の蜘蛛はハッキリと喜びがわかるほどに顔を緩ませてカサカサと木の板に近づいた。そして、クルミの顔とハムを交互に見てから、
「ワンッ……」
と低く吠えたような、咳き込んだような鳴き声をあげた。
まるで下手くそな犬の鳴き真似をしている人間の声みたいだった。
またもクルミの体は固まってしまった。頭の中の綱引きは好奇心が優勢だったのに、恐怖心がまた盛り返してきた。
――ああ、どうしよう……。蜘蛛はワンとは鳴かないし、犬には八本も脚が生えていないわ。彼は一体何者なのかしら……。なんだか怖いわ!
でもちょっと待って。落ち着くのよ、ワタシ……。
ワンと鳴くのは犬だけじゃない。シマウマだってワンと鳴くし、カエルにもワンと鳴く種類がいるとどこかの誰かが言っていたような気がしないでもないわね。
もしかしたら、ワンと鳴く蜘蛛がいたって不思議じゃないのかも。うん、そうよ。そういう事よ……。
おじさん顔の蜘蛛はガツガツといった様子でハムに齧りついている。
クルミは注意深くその光景を確認しながら、まるで自己暗示をかけるように「これは蜘蛛よ。ワンと鳴くし、おじさんみたいな顔だけれど蜘蛛なのよ」と何度も念じた。そうやって無理矢理でも頭を納得させなければ、今にもパニックになってしまいそうだったからだ。
しかし、おじさん顔の蜘蛛はハムを綺麗にたいらげると、脚の先で歯をシーシーしながら言った。
「ワンッ……ワフンッ、ケホッケホッ……。助かったぜ、嬢ちゃん。腹は減るし咳は出るしで死にそうだったんだ――」
クルミはついにパニックになって買い物袋を乱暴に掴むと、狭い路地を一目散に走って逃げた。
――ダメよ。それはさすがにダメよ。人間の言葉を喋っちゃったらもう蜘蛛だと言い張れないじゃない! タスカッタゼジョウチャンと鳴く生物なんて、ワタシ、人間以外知らないもの!
クルミは狭くて暗い路地をがむしゃらに抜けて大きな通りへと出ると、さらに自宅までの道を全速力で走った。
既に陽は完全に沈んでいる。ポツリポツリと立つ街灯の灯りの下をなるべく進んだ。 暗い影の中から今にもカサカサワンワンとおじさん顔が飛び出してきそうで、それがとても恐ろしかった。
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