11 音叉

 あの日入院してきた患者は若い女だが、それ以上に男が混ざっており、わたしをギクリとさせる。大抵の場合、二人重なって見えるが、本人=伊澤依子にその自覚がない。困ったことにその存在が近くの空気の質感まで変えるので、わたしはうっかり近づくこともできない。発熱したときに知覚異常になり、体液が徐々に無数の線となり固まる感覚/痺れがわたしにはあるが、それに似た不快感を覚えるのだ。が、それは誰にでも、というわけではないらしい。例えば山田さんや発達障害で一時的に入院している浜名早苗ちゃんには気にならない。一方、感じ方は違うがリンさんは気になるらしく、起きていても眠っているような安定した睡眠状態が乱れ、目を覚ます。

「ホラ、また余計なことを考えている。解熱剤を処方するから大人しくしていなさい」

 橘先生は諭すが、先生自身も気にならないようだ。

「違う音叉で調律されているとでも思えば良いのでは。どの人間も皆そうだろう」

「生まれたばかりの赤ん坊の泣き声はハ調のラと言いますよ」

「四四〇ヘルツは荒い平均さ。赤ん坊はユニゾンでは泣かないからね」

「でも音楽はピッチだけではないでしょう」

「ピッチは音楽の要素ではなくて日本語訳の通り『音高』だ。まあ、赤ん坊を楽器に喩えるのは面白いが」

「だとしたら先生は一体何ヘルツで調律されているんですか」

「生業からいえば六三九ヘルツが妥当かね。人とのつながり、関係の修復」

「ソルフェジオ周波数でしたっけ。先生は信じていらっしゃるの」

「すべてのことを信じると同時に疑っているよ。きみは今ここにこうして見えるが、実は存在しないかもしれない、とね」

「わたしにはわたししか信じられません」

「それで十分だろう。だから、きみには自殺の心配がないので安心なんだ」

 最後ははぐらかされたが、人を調律する音叉という考えは面白い。人の人生で最初に子供に影響を与えるのは親のピッチだろうが、人それぞれが独自のピッチを持って生まれるとすれば、それが合わなければ苦痛だろう。赤ん坊が世に出て最初に行う仕事が泣くことだが、実は深い意味があるということか。

 音叉の比喩を用いれば、伊澤依子は二本の音叉を持っていることになる。二つの音叉が純正律的に不協なので、わたしには気持ち悪く感じられる。……とすると、彼女の発するうねりが気にならない人間は音そのものに鈍感なのか、或いは関心がないのか。伊澤依子が乱す空気感に曝されるまで、わたしが特に音に注意深かったとは思えない。絶対音感があるわけではないし、拘りがあっても音の色はその都度変わる。もっとも純正律と十二平均律には微細なピッチの差があるから絶対音感の持ち主といえども数パーセントの幅は許容範囲内となってしまう。まあ、わたしには想像することしかできないこと。

 医院外の作業療法で麓の畑に行ったとき、移動のバス中でわたしの近くに伊澤依子と担当の林原先生が座る。狭い医院のバスなので逃げようもないが、不思議とその日は空気感の乱れが小さい。それで何故なのだろうと二つ前の席に陣取る伊澤依子を窺うと彼女の男部分がわたしを凝視している。男は伊澤依子の一部なのだろうが、独立しても存在できるようだ。何故かと言えば、本体の伊澤依子が林原先生と一方的に会話をしているから。その会話が不自然に漏れ聞こえ……というより殆ど全員の耳に届き、彼女が前の病院で閉鎖病棟にいたことがわかる。当時は自傷行為も甚だしかったようで拘束までされていたようだ。

 思い返せばわたしにもそんな時期があったはず。自分の中から漂い出した自我が壁に打つかり反射し、戻り、本人と打つかる。爪を噛んだり胃液を吐いたり、ある一つの行為の合間に何度もそれが起こる。そのうちわたしの熱感覚と似、自我が無数の線となり絡まりつつ固まり/冷え、飴のようになり割れる。ご丁寧なことに自我が割れるときには、パリン、という乾いた音さえ聞こえるのだ。

「ふうん、面白いね」

 そう聞いてきたのは、伊澤依子の男部分。いつの間にか、わたしの隣の空席まで移動している。

「心配しなくても誰にも見えないよ」

 わたしが見る伊澤依子のところにも――四分の一ずれて――男がいる。

「どういうこと」

「見たままだよ」

「あなたは伊澤さんの何」

「双子の兄。でも彼女はそれを認めない」

「二卵性だから」

「おまけに父親まで違うんだ」

「それはファンタシーでしょ」

「いいや、異父二卵性双生児は父親認知訴訟で審理されたケースの中に二・四パーセントも存在するんだ」

「本当に」

「詳しくは学者に聞いてくれ」

「あなたは彼女の精神に寄生しているのね」

「妹が消えても、ぼくは残るよ」

「消そうとしているわけ」

「でも殆どの医者はぼくに気づかない」

「例外が橘先生とか」

「あの先生もわかっちゃいないさ」

「そうなの」

「だけど幾つもの音叉を近くで鳴らされたときには驚いたな」

「何故」

「その中の一つがぼく自身と共鳴して、ぼくが音叉の周波数に引っ張られそうになったからだよ」

「それならば、橘先生はわかっているんじゃないの」

「でも暫くするとそれを止めたから、おそらく本か文献で読んだ方法を試しただけなんだと思うよ」

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