10 姉
あの家は何処も彼処も青く、わたしには夫がおり、わたしの役割は可愛らしい奥さんで、ああ、控え目だったが家の内装を決めたのは姉だ。当時は家族の誰からも、お姉ちゃん、と呼ばれている。わたしと違い、地味ではあったが明るく愛くるしい一面も持ち合わせ、笑顔を絶やしたことがない。それで周りにいた多くの人たちに好かれていたはず。が、今ではわたしの記憶の中にしか存在しない。だからわたしが死ねば姉はこの世の何処からもいなくなるが、姉自身は違うと主張する。
「だって、わたしはあの人に憶えられているのだから」
「お姉ちゃん、桧山さんはもういないよ」
「いないって、ここにいるじゃない」
「確かにいるけど、でもそれは本当じゃない」
桧山さんは元々桧山くんで、わたしの夫だった男。結婚後、姉に好かれてしまい、やがて姉が自分のことを彼の妻だと思い込んでしまう。それで仕方なく夫役を引き受ける。姉の性癖の関係で性交渉は一度もない。それは助かるのだが、同時にわたしとの関係も途絶。が、いつしかわたしもその関係を受け入れてしまう。
姉にとってわたしは自分たち夫婦の家に居候している婚期を逃した可哀想な妹で、心を許してはいるが時に疎ましくも感じている。けれども姉は桧山さん=自分の夫と一つ屋根の下に二人だけで暮らすことが怖いので決してわたしに出て行けとは言いはしない。だからわたしは謀らずも同居を続けたわけだが、時々思い出したように元夫に質問する。
「ねえ、桧山くん、あなたはわたしがあなたの奥さんだった頃のことを憶えている」
返って来る答えはいつも同じ。
「目が覚めるとね、いつも空の中に浮かんでいるんだ。だけどさ、色が濃かったら海の中だと思うと怖いね」
普通はそれで終わりだが、時折わたしが二の句を告ぐ。
「もう、はぐらかさないでよ。その昔、あなたはわたしのことを愛していると言ったのよ」
「じきに子供が生まれるんだ。蘭蕉(カンナ)さんはどんな名前がいいと思う」
その質問に対するわたしの答えは大抵こう。
「『空』にしたらいいんじゃない。で、次の子は『海』」
「ああ、それはいいね」
老いた母が偶に家を訪れるときには色々と大変。けれども歳が十歳近く離れているというのに母には姉妹が同じように見えるらしい、だから頓珍漢な事態は生じない。
「久雄さんは本当に良くできた人ですよ。あなたはとても幸せ者ですね」
最後に母はわたしか姉にそう言い置き、家を去る。或いは、
「ロールキャベツ、美味しかったわ。また食べに寄らせてもらうね」
そんなことを言い、心底嬉しそうに微笑む。
死んで墓で眠った後、間違って家を訪ねてきたときにも同様のことを言う。
「お父さんにも食べさせてあげたかったな。あなたがマトモな料理を作れるようになるなんて思いもしなかったでしょう」
それから桧山久雄への賞賛がはじまるのだ。まるでゴールのない双六みたいに。
小さい頃、わたしは自分自身を持て余してしまうような癇の強い子供。その頃の姉は高校を出るとすぐに働き始めてしまうような分別のある娘、というか若い女。
「だって勉強は好きじゃないし、特にやりたいこともなかったから」
わたしが訊ねると姉は大抵そんなふうに答える。
「だってお父さんがアレだし、カンナはまだ働けないから仕方がないのよ」
間違っても、そんな答えは返さない。
「へえ、すごいじゃない」
わたしが作文コンクールで大賞を獲ったときにも静かにおめでとうを言ったくらいだ。
「ふうん、たいしたものね」
わたしがテレビアニメの歌詞コンテストで入賞し、それがきっかけとなり、まだ中学生のうちに商業誌から作家デビューしたときにも素直に喜んだだけ。
「だって、あたしにはそんな才能はないから」
「本当はあたしの方こそカンナの位置にいるべきだわ」
どちらの答も姉の中に存在しない。あるのは単に現状を受け入れる姿勢だけ。
「だって、あたしカンナみたいに可愛くないもの!」
姉が唯一心中を吐露した言葉がそれ。が、幸か不幸か、姉は自分で気づいていない。
「カンナ、お姉ちゃんには良くわからないけれど、自分のことを大切にしなさいよ」
わたしが若いがゆえに書くことに行き詰り、男を漁っていた頃、それとなく注意をしてくれたのは姉。
「おめでとう、お幸せにね」
家に連れて来た桧山くんを初めて見た日、姉は目を大きく見開き、そう言うと、すぐに目を逸らし、悲しげに俯いたはずだ。
桧山くんはその後わたしが長く付き合うことになるパトロンの遠い弟子筋の男だが、優しいが腺が細く、どちらかといえば姉好みの青年だと思う。一時の情に絆され結婚を決めたが、本心では姉の近くに彼を送り届けたかっただけなのかもしれない。結局、桧山久雄も男でやがて過ちを犯すことになるが、まさかそれが原因で姉に殺されることはなかったとわたしは思う。
桧山久雄の性の相手は日本に観光旅行に来ていた隣国の軍人。が、女兵士ではなく、姉はそのことを知っていたようだ。けれども性別は関係ない。その頃わたしは既にヘロイン中毒になりかけ、自分自身に手一杯だったので姉の行動をまったく気にかけていない。因みにわたしが手を出したのが覚醒剤ではなく麻薬なのは、年配で医療関係者にも伝があるパトロンからの供給があったからだ。が、それももう昔の話。わたし以外の誰一人、この世に残っていない。
わたしが呼ばれるように世界中の戦場を巡り始めて間もなく橘精神医院に姉の入院が決まる。姉の死は不幸な事故で医院の誰のせいでもないが、土砂災害で山道が埋まり、その一部を火薬の力で払い退けるという偶然が重ならなければ、どうなっていたか。夥しい爆発物とともに拡散した死体同様、山に散った姉の魂が未だに人を殺そうとするのが、わたしには悲しい。
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