8 女の子
その日は面会日で、且つ外出許可が出た者は終日から数日まで橘精神医院を離れることが可能。もっともわたしの場合は尋ねてくる知り合いもいないので、いつものように中庭噴水前の白いベンチで寛いでいる。
「外出許可を出してあげるから、きみは何処でも好きなところに行けば良い」
ふらりとわたしの許に立ち寄り、橘先生はそう言うが、わたしには出かける先が思いつかない。
「いっそのこと先生が何処かに連れて行ってくださいな」
「残念ながら、ここ数日、医院を離れるわけにはいかないのさ」
「そうですか、では、わたしもじっとしています」
「石上くんが大学に戻ると言っているから車に乗せて貰えば良い」
「先生はわたしにここにいて欲しくないんですか」
「自分では気づいていないかもしれないが、きみは外の空気を吸うべきなんだ」
「最近は“わたし”がいるから」
「まあ、それもあるが、後は自分で良く考えて欲しい」
「戻って来ないかもしれませんよ」
「それならそれも良いだろう」
「冷たいのね」
「おれの体内を流れる血は三十七度だよ」
「先生は自信家だから」
「少なくとも上辺がそうじゃないと、この仕事は続けられない」
そう言う橘先生の言葉が瞬時宙を舞い、わたしがそれを目で追っていると申し合わせたように石上先生がベンチに近づく。
「このご婦人のエスコート役をお願いするよ」
「喜んでお引き受けします。で、何処までご案内を」
「それはこの人に任せよう」
「承知しました。では一時間後にお部屋に伺います」
筋肉はあるが、そこそこ腹も出ていて全体的に丸い感じの容姿から、それとは不釣合いな石上先生の甲高くて丁寧な言葉が流れ出す。わたしの周りにそれを残したままベンチを去る。橘先生も同時にわたしから去る。憂鬱/愉しげな笑顔を浮かべつつ。だから、わたしに選択肢はないようだ。
仕方がないので部屋に戻り、支度をする。下界はきっと暑いだろう。そう思うとウンザリだ。少しだけ念入りに化粧をし、ネックレスとブローチを選ぶ。モノは悪くないが、おそらく時代遅れだと思うとまたウンザリ。
「でも流行は巡りますからね」
きっかり一時間後にわたしの部屋を訪れた石上先生が、そう言い、わたしを慰める。
「申し訳ありません。お一人の方が清々するでしょうに」
「いえ、旅は道連れとも申します」
その日の石上先生の防壁は虫ではなく電波のようで/女よりの中性のようで/でも砂のようで。
石上先生が運転する外国製高級車で寛ぎつつ緊張しながら対向車が見難い狭い山道を下りつつ会話をする。
「名葉(なば)さんには見えるんですってね」
「橘先生が仰いましたか。でも先生ご自身にだって見えるのでしょう」
「見えませんよ。感じるだけです」
「でも、それがそこにあることはわかる」
「子供の頃からです」
「いつかは消えると思っていらした」
「他人には感じられないと知って驚きましたよ」
「多かれ少なかれ、そんな経験を積んで人は大人になるのじゃないかしら」
「大人って何でしょうね。自分ではずっと子供のままなのに」
「そう思った時点で、もう大人かもしれません」
「なるほど。あなたは変わっている。橘医院長が離さないわけだ」
「スタッフの先生方は皆、わたしたちのことを噂して」
「いや、誰も口には出しませんよ。心の中でどう思っているかまではわかりませんが」
「そう」
「でも、あなたにはわかるらしいですね」
「ごく稀にですよ」
「本来はこちら側の人なのかな」
「それは無理。毒に毒を盛れば、結局どちらかが毀れるだけでしょう。でも冷血な先生のスパイになら、なれるかもしれません」
「そんなことを言うあなたの血だって低温に違いない」
「試してみますか」
「いや、遠慮しときます。昔から意気地がないもので」
「でも看護婦さんとだったら人妻でもするのでしょう」
「見えましたか」
「いいえ、単にわたしの妄想です」
それから暫く無言が続き、わたしが睡魔に襲われる。
「眠っていいですよ。まだ先は長い」
「車に乗せていただいて、お話し相手もできないんじゃ申し訳ないわ」
「慣れていますよ。ぼくは昔から安全パイなんだ」
そうわたしに応えたとき、石上先生の防壁がふっと消える。
「女の子、ですか」
「やっぱりあなたには見えるんだな。だから橘先生はあなたを車に乗せるよう、ぼくに勧めたんだ」
「この先暫くの間は車の運転に注意してください。道の先に女の子がいますから」
「その女の子はあなたが今ぼくの中に見た女の子と似ていますか、それとも似ていませんか」
「一瞬だったからわかりませんよ。でも笑顔は可愛らしかったわ」
すると石上先生が重く/深く息を吸い/吐いて言う。
「そうですか、笑っていましたか。ならば良かった」
「ねえ、先生。わたし、詮索は致しませんけれど、お話を伺わせていただいても構いませんのよ。道程はまだ長いのでしょう」
「ええ、たっぷり二時間分はありますね」
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