5 地雷

 その日わたしは医院内にいなくて、過去のわたしか、未来のわたしの身体の中に入っている。そこは戦地で当然のように日本ではなく、けれども東洋人の顔が多くある。それらの顔の大半は疲れ切り、子供の瞳にも輝きがない。が、それでも生きているのが愉しくて仕方がないという顔も存在する。

 空襲警報があり、やがて砲弾音と空爆音が聞こえてくる。貧しい身形の市民たちはもう慣れっこになってしまったように、それまで行っていた作業を中断し、テキパキと防空壕に避難する。飛行機好きで避難せず、空を見上げるあの男の子は、その日も奇跡的に助かるが、結局彼は戦争で死ぬ。わたしにはその道筋が手に取るようにわかる/見えるが、誰にも話さないし、話せない。

 過去に話す気になったことはあったけれど。

 運命を変えることは不可能ではない。いや、断言すれば可能なのだ。だから、その子には助かる未来も十分にある。わたしが彼にわたしの垣間見た彼の死の予言を告げたところで、彼に本当に生き伸びる意志があれば生き残るだろう。

 人は誰でも自分が望んだように生きることができる。けれども状況が、それを毀す。悪過ぎる状況が、毀しを早める。

 例えば百人中半分以上が希望を持った世界にいれば、彼は半分の確率で生き延びるだろう。もちろん彼自身、死の手から逃れたいと強く願うことが大前提だ。けれども百人中九十人以上が絶望か、または何も感じなくなっていたとしたら。

 子供を助けるとは、そういうことだ。

 大人だって無論絶望や無関心から解放され得るが、子供の方が適応能力は高い。それは世界をまだ誰かの世界として認識していないから。ルール違反が存在しないからだ。教育の恐ろしさは存外その辺りにあるのかもしれない。

 人に親切にするのは善意の本性でそれ自体に悪意はないが、世界のルールには異なるモノが多過ぎる。世間的にわたしは精神病患者で薬物依存症の美の魅力に欠けた女だが、今では自身、その認識を離れたところで暮らしている。薬物ナシでは精神的に狂ってしまう心/脳と依存性の身体を持ち、世界と繋がっているのはわたしの一つの事実だろうが、それだけがわたしの本性というものでもない。感じる/感じないは別として、わたしはもっと広い。時間的にも現在だけでなく過去にも未来にも広がっている。それらの自分を今の自分が制御するのは難しいが、まったくできないわけではない。少なくともわたしはそこにいて見ることができる。感じることができる。感じることができなくなるのは、それこそ今に始まったことではないが、視者のわたしはいつでもいるし、居続ける。病気で身体が熱っぽいときには酔ったように激しく歪むわたしの視野だが、それでも何も見えない/見ないよりはマシだろう。

 男の子の心の中にあるのは飛行機への関心だけ。戦争の道具に無駄な機能はいらないからシェイプはシャープ。わたしが見ても美しい。が、わたしは他にも美しいものを知っている。男の子は虫よりも母よりも機械が好きで、その中でも戦闘機が上位を占める。軍艦や潜水艦を男の子は本の中でしか見たことがないが、戦闘機はほぼ毎日目撃可能。本人は気づいていないが、どうやら彼のことが好きらしい幼馴染の女の子よりも彼は戦闘機を愛している。身近な景色の中にある屑鉄のような自動車と比べれば、もしかしたら女の子の方が上かもしれないが。

 彼はこの地での爆撃/殺戮からは生き延びる。けれども志願して兵士になり、飛行機とは浅からぬ縁で死ぬ。直接の死因は危険地帯と知りつつ地雷を踏んでしまったことで、その意味では自業自得。彼の死を悼むのは幼馴染の女の子くらいか。兵士になり、国境の町に派遣され、日本製の地雷処理車を用い、彼は毎日地味に地雷を処理し続ける。その連続行為は彼の生き甲斐とはならないが、それでも僅かの満足を与える。

 幼馴染の女の子が成長したような女性が空から降ってこなければ、彼は生き延びた可能性が高い。女性は兵士で戦闘機乗りで誤って味方の砲弾を浴び、機の制御を失い、仕方なく操縦席から脱出する。前日に自分で丁寧に折り畳んだパラシュートは確実に開くが、それまでに失った高度が多過ぎ、地面との激突が避けられない。その様子を見ていた彼は何を思ったか仲間の制止を振り切り地雷処理車から駆け降りると一目散に女性の落下地点に向かって走る。結果からいえば、その途中で彼は地雷を踏み昇天するのだが、自分の死に気づいたかどうか。地雷の爆発にどのくらいの風圧が伴うのかわたしには計算できないが、Gによる女性落下を緩和する程度の作用はあったようだ。更に運良く、女性の落下地点に地雷がない。その後、彼の仲間たちが女性の許まで地雷処理車を進め、彼女を捕虜にし、ついでに彼の遺体の一部と遺品を回収し、基地に戻る。その間ずっと空と地上での戦闘が継続される。

 そのときわたしの視点がふっと女性に宿り、だから思わず涙してしまうが、それを勘違いしたのか、彼の仲間たちは女性を気の強い女だと――つまり捕虜となった悔し涙だと――解釈する。

 彼女の態度そのものが気丈なので、それも無理はない。

 女性の将来や彼の仲間たちのその後の姿はわたしには見えないが、そんな今のわたしの目に映るのは戦地で目を輝かせつつ戦闘機を見つめ続けた男の子の姿だけ。

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