3 睡り

 リンさんは兵士で、残念ながら元兵士ではなく現役だが、そんな彼が何故この医院にいるのかわたしは知らない。

 リンさんは大抵眠っている。起きているときでも眠っている。本人の意志の場合もあるが、そうではないことが多そうだ。原因はもちろん投与される薬物の作用で、ガタイは大きいが大酒飲みではないため、少量でも良く効くと看護婦の三田村さんが漏らしている。

 兵士だから何人も人を殺したのだろう。逆に殺されかかったことも多くあったかもしれない。わたしには海外での空爆体験こそあるものの、逃げ惑うばかりの民間人に兵士の気持ちは伝わらない。

 世の中には生まれつき兵士タイプの人間がいるという。が、リンさんはそうではないようだ。戦争ではなく試合ならば得意そうだし、また多少の合法的暴力も振るいそうだが、詳しいことはわからない。リンさんの意識が混濁しているとき、その向こうに浮き上がるのは本人に似た顔だ。

 その顔の持ち主が本人なのか、男親なのか、祖父なのか、はたまた子供なのか、わたしにわかるわけがないが、大抵は血塗られ、また輪郭が歪んでいる。銃で顔を打てば、おそらくああはならないし、散弾銃の類ならば、そもそも顔が残らない。それで鈍器だろうと想像がつくが、シャベルやスコップとも違い、鶴嘴や斧などは持っての他で、……とすると石ぐらいしか選択肢が残らない。手に石を持ち、同じ顔の男を殴ったのか、それとも違う顔の男に殴られたのか。後者の場合ならば、血塗られてすぐに鏡を見るか、窓ガラスに映った姿を目撃して気づくはずだが、事情は不明。

 そんなリンさんの事情を更に複雑にしているのが、戦場以外でリンさんが人を殺めたことで、それについては裁判が進行中らしい。本国から引渡命令が届いているが、それにも控訴しているらしく、今のところ警官や裁判所の役人/関係者が橘精神医院を表れる気配はない。が、それもいつまで続くことか。

 もっとも、そんな事情とはまるで無関係にリンさんは眠る。眠るリンさんの薬物治療を担当しているのは石上先生だ。国立大学病院所属の医師らしいが、直接本人から素性を聞いたことはない。医師というよりは地方の造酒屋の大将といった風情があるが、近づくと小さな虫のような/砂のような/白い粉のような防壁に幾重にも囲まれており、まったく内面を見ることができない。医師としては珍しいことに本人もその存在には気づいているようだが、どうにかしようという気はないようだ。

 そんな石上先生の処方する精神弛緩剤のレシピは有名薬物のオンパレード。臆病な薬剤師、芳川さんの目を盗んで一度だけ処方箋を見たことがある。その成分名をツラツラ挙げる気はないが、量自体はかなり少ない。種々の成分の割合は、専門家的には、おそらく絶妙なのだろう。

 石上先生の目的はもちろんリンさんの心の平穏。が、投薬のみでそれが達成されないことは医院のどの先生方も承知している。真の心の平穏/静寂を得るためには自身の精神が傷付いた経緯をリンさん自身が思い出す必要がある。事実を事実として認識/対峙/俯瞰しなければならないが、今のリンさんにそれは難しいだろう。リンさんがあまりに不在過ぎるから。

 橘医院に入院する前のリンさんはおそらくそのことを知っていたと思う。けれども現時点でリンさんに明確な自己があるかどうか、わたしにはわからない。リンさんの不在が一時的なことならば、帰ってくるのは可能だろう。が、一旦他人となってしまえば別の生を生きるしかなくなる。

 ところで眠ったままであってもリンさんの意識が混濁していないとき、わたしは女性の顔を見る。妻なのか、婚約者なのか、それとも姉なのか、妹なのか、あるいは親戚の誰かなのか、もちろんわたしにはわからない。笑顔が素敵な女性で悪い人間には見えないが、人の顔とは所詮お面なので本当のところは知りようもない。

 女性の顔と退治するときのリンさんの表情は穏やかだ。けれども、その奥の部分を覗き込むときのリンさんの表情はとても険しい。リンさんが覗き込むその奥の部分が空間なのか、時間なのか、それとも他の何モノなのか、わたしにはわからないが、いずれリンさんの病気と深く関わっているらしいことだけは想像がつく。

 ところで、わたし自身は自分の顔がその女性の顔に似ているとは思わないが、リンさんにはそう思えたのだろうか。リンさんの意識が暗闇の中で眠るわたしに不意に接近して来たことがある。あのときわたしの心はゾワゾワと毛羽立ち、同時に甘酸っぱいような/切ないような気持ちに充たされる。ゆっくりとわたしの許に迫って来たリンさんの顔には目が無く、けれども空洞ではなく、そこから指が生え、虫の手足のように蠢くと、やがて銃先に変わり、わたしに狙いを定める。わたしは恐怖に固まってしまうが、同時に汗腺から誘因性物質が発せられ、それに気づき、戸惑う。

 それが良かったのだろうか。

 匂いが例の女性と違っていたようだ。リンさんも間違いに気づき、わたしの前からフッと消える。わたしは慌てて目を覚ますが、当然のようにそこもまた夢の世界で、わたしは現実世界に目覚めるまでに数多の夢の中で数年の月日を過ごしてしまう。実際にも三日ほど眠り続けていたようだ。

 肌寒い遅い昼過ぎに目を覚ますと、わたしの病室内に橘医院長がいて、わたしの目覚めを知っていたようにこちらを向くと、こんなことを言う。

「さっきまでリンさんがここにいて、あなたを見つめていたよ。この世で知り合いのはずもないが、前世で関係があったのかもしれませんな」

 すると顔を赧らめもせずに誰かが答える。

「他人の身体に溺れて逃げたいのかしら。無駄なのに」

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