00:00
ナディアと会ってから、一ヶ月。ついに、最後の一日がやってきた。
あれから数日間、ナディアは二度と、目を覚ますことは無かった。
結局僕は、ナディアに星空を見せてやれなかった。
僕の本当の名前を、呼んでもらうことも、無かった。
ナディアとは、あれからもう二度と、話さなかった。…話せなかった。
ナディアが僕の方を見ることも無かった。僕の方を見て、笑うことも、泣くことも、無かった。
ナディアの意識も、もう何処かへ消えてしまったようで、何度意識を引き出そうとしても、引き出せる意識自体が、もう、無いようだった。
「ナディア。」
僕は、ベッドの上で静かに眠るナディアに、そう呼びかけた。勿論、返事をすることもないし、僕の方を見ることも、ない。
「すまない、星空も、名前も、教えてやることが出来なくて。」
僕は、ナディアの胸に、そっと手を置いてそう言った。まだ、ほんのりと暖かい。それが悲しくて、悔しくて、どうしようもなかった。
僕は今日、彼女を、殺さなければならない。
なぜ僕は、彼女を殺さなければならないのだろうか、そうとすら思ってしまった。なんで、彼女に限って、僕が…と。
僕は、彼女の「まだここに居たい」という願いを、叶えてあげたかった。でも、人の死は、平等でなければならなかったのだ。
「ナディア、僕もまだ、一緒に居たかった。」
もちろんこんな声も、誰も聞いてはいない。もしかしたら、約束をしていれば、これから先も一緒に居れたのかもしれない、なんてくだらないことさえ考えた。
23:58、彼女の魂を体から引きはがすまで、あと二分。
僕は、彼女からそっと離れて、彼女を遠巻きに見た。何も考えてはいけない。何も考えてはいけない、と、必死に頭をかき乱して、息を吸った。
そうして僕は、青年の姿をした自分を、死神の姿へと変えた。青年の姿の頃と、顔・体系はさして変わらないが、山羊の様な大きな角と、鎌の様な刃物の右腕は、人間とは、ナディアとは違った。ナディアは、この姿の僕を見ても、あの、桃色の花のように、飛び回る蝶々のように、笑ってくれるのだろうか。
「ナディア…」
僕はもう一度、ナディアの名前を呼んだ。
00:00まで、1分前。
僕は、もうナディアと目を合わせないようにしながら、その刃物の右手をナディアの上に覆い被せるように翳した。その時、ナディアに繋がった機械から、警告音が鳴り響く。人間が、人の命を救うための叫びだった。でも、僕には分かっていた。
彼女は、死ぬ。
本当は、僕が、彼女にこの腕を振り下ろしさえしなければ、ナディアは死なない。もしかしたら、初めから、僕とナディアが合わないでいれば、ナディアは死なずに済んだのかもしれない。
僕さえいなければ、ナディアは、これから先もずっと、生きていたかもしれない。笑っていたかもしれない。
周囲が騒めき始めた。医者が、ナディアのいる集中治療室に入り込んできた。でも僕は、そんなものは見なかった。ナディアだけを、真っすぐ見ていた。細くて、可愛い、ナディアの体を、出来ることなら、今すぐ抱きしめたかった。僕は、刃物の右手を震わせながら、荒い息をした。鼓動も速足で、彼女に生きて欲しいと、言い続けていた。
00:00、ついに、時間はやってきた。
時間はやっぱり、待ってくれなかった。僕たちのためだけに、時間は止まってくれなかった。
僕は、震える右手を勢いよく、振り上げた。それでも、一番高く上げた後、僕は振り下ろすのに躊躇して、その動きを止めてしまった。ナディアの魂を、その、可愛い、愛しい身体から、引きはがさなければならないことが、悔しくて、嫌で嫌で仕方なかった。我儘が許されるなら、ナディアの体と魂を持って、どこか遠く、美しい草原にでも、逃げ出したかった。
右手は、一向に振り下ろされない。ナディアの顔を見れば見る程、生きて欲しいと思ってしまうからだ。絶対に殺したくない。生きて欲しい。花のように笑って居て欲しい。蝶のように、鳥のように、自由になったっていい。
「ナディア…」
その時に、僕の脳裏に、死神の「上の者」からの「早く殺せ!」という、命令が入り込んだ。僕はそれに、逆らうことが出来ない体だった。
僕の刃物の右手は、あっけなく、彼女の胸の中心に、振り下ろされた。
僕は、酷く震える右手をナディアの胸から、ゆっくりと抜き出した。同時に、一定になった機械の音と、警告音と、医師の小さな声を耳にした。ナディアの胸部から出た、淡いピンク色の魂が、何処か遠くへ連れていかれるのを、僕はただ、黙って、突っ立って、見ていた。
淡いピンクの、蝶々に見える。
ふわふわと飛ぶ魂が、どこか遠くへ向かって、飛んでいく。やっと自由になれた、と言うように、ゆらゆらと、闇の中に、光りながら消えていった。
ナディアは、死んだ。
僕は、彼女を生かしてやることは、出来なかった。
「まだここに居たい」
その願いを、叶えてあげることは出来なかった。
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