最後の約束
朝が来た。普通の朝が来た。
本当に、何の変哲もない朝が来た。
窓の外からこぼれる朝日の光も無く、雀の声も聞こえてこない。少し冷たい空気は寝ぼけ眼をこじ開けるように流れ、その中に響く機械の音が、意地悪く静寂を主張する。
僕は眠りについていた床から体を起こし、あの少女が眠っているベッドへ近寄って、彼女の顔を眺めた。
「普通の、女だ。」
改めて、僕はそう言った。ナディアは、普通の女の子だった。普通の人間の女の子供。僕には、彼女を「殺す」以外の道はなかった。そういう仕事をするために、僕はここに来ているのだから。
初めから、そんなことは分かっていた。
分かっていた筈だった。
それでも僕は、彼女にスイートピーを買って帰ったあの日から、どうも調子がおかしいのだ。ナディアを殺したくない。ナディアには生きて欲しい。どうか、ナディアだけでも生かして、また明るい太陽の下に送り返してやりたい。そう思った。
切られた花のように、いずれ死にゆく身なんて、見るに堪えない。地に根を張った花のように、強く、生きて欲しかった。
何度僕がベッドの方を振り返ろうと、ナディアは、身体を動かさないし、僕に声をかけないし、僕の方を見て、笑わなかった。
僕は、じっと、彼女の顔を見ていた。ベッドの脇に座り込んで、彼女をただただ、眺めていた。彼女が呼吸をする度に、僕は息が詰まった。彼女の心電図が音を鳴らすたびに、僕の胸は締め付けられた。
「夕日は、今日見に行く。約束だ。」
僕は、ナディアの手を取って、自分の小指と、その小指を重ねた。一方的な、指切りだった。この約束を、彼女が聞いているのかどうか、僕には分からなかった。それでも僕は、ただ一人で、強く、強く彼女の小指を、小指で包んだ。
あれから、かなり時間がたった。時刻は、夕方、16時だった。
それまでの間に、何人もの看護師や医者がこの部屋を出入りした。僕はその度に不安になりながら、俯いて、彼女から目を背けた。時折看護師同士や、医者が何か話すのも、僕は耳をふさいで聞かないでいた。聞いていたら、もうこちらがおかしくなってしまいそうだったからだ。
16時になってから少し経ったとき、僕は、立ち上がった。
「ナディア、夕日を見に行こう。」
僕は、彼女のおでこを二つほど叩いた。そして、彼女のおでこのあたりからなにかをつまむ様に指を合わせ、上方へ空気を引っ張り上げた。
そこから出てくるのは、彼女の霊体だ。
眠っていたように目を閉じていた彼女の霊は、ゆっくりと、ゆっくりと目を開いた。
「死神さん、私…もう死んだ?」
彼女は、落ち着いた様子で、静かに僕の顔を見下ろした。しかし、彼女の体はまだ生きている。彼女も、それに、気が付いた。
「また、どこかへ連れて行ってくれるんだね。」
彼女は、嬉しそうに笑った。「ああ、そうだ」と僕は答えた。彼女のその桃色の微笑みが心底嬉しくて、僕は、彼女の手を勢いよく掴んだ。
「夕日と星空、まだ見てなかったろう。今からとっておきの場所に行くんだ。」
僕は、初めて彼女をこの方法で連れ出したときと同じように、強引に、強く彼女の霊体の手を引いて、病院の外へと飛び出した。
景色は次々と変わる。町がジオラマに見える程、僕らは高く飛んだ。そして、街の向こうへ、向こうへと、猛速力で飛び抜けた。彼女は、大きく笑った。
「すごい、私、鳥になってる。」
ナディアは僕の手を掴んだまま、両腕を大きく広げた。それにつられて、僕も、両腕を広げる。
「ナディアは、鳥になりたかった?」
僕は、そんなことを訊いた。
「そうだね、鳥は、自由だから。」
ナディアはそう答えて、続ける。
「でもね、私、私のままで良かった。鳥になってたら、死神さんと…アイダと逢えないところだった。」
ナディアが、そんなことを言った。僕の心臓が、病室にいたときと違う苦しみ方をした。
「ナディアは、変なことを言う。」
僕は、笑った。ナディアも、笑う。
「お互い様だと、思うけど。」
まるでこの時間が、僕ら二人のためだけに用意されたものの様な気がした。僕らを、薄紅色になりそうな空が、優しく包み込む。前から流れる風は気持ちよく、頬を掠っては後ろへ流れていく。
目的の場所まで、もう少しだった。
目的の場所についた僕とナディアは、その場に腰かける。広い丘に、草が生えたような場所だ。階段のように連なる山のその下に、西の空と、海が広がる。
「ここが、特別な場所だ。」
僕は、ナディアの顔を見て、そう言った。
「前から、ここを知ってた?」
ナディアはそう言う。僕は少し驚いて、申し訳なさを感じながら、話した。
「昨日、探したんだ。すまないな。昨日、一緒に居てやれなくて。」
僕はナディアの顔から目を背け、空の向こう側を見た。
「ううん。確かに、辛いときあったけど、でも、アイダは絶対、私のために何かしてるんだって、そう思ったら、全然平気だったよ。だから、私もちょっと頑張って、看護師さん、ちゃんと呼べたよ。」
僕は、苦笑しながら、問う。
「どうしてそう思ったんだ。」
「そうじゃなかったこと、無いから。」
ナディアは当然のようにそう答えた。そして、「やっぱり、今回も、そうだった」と呟く。僕は少し、恥ずかしくなった。こんな少女に、想い焦がれる自分自身が居たことと、それを、彼女が受け止めてくれたことに。
僕はそっと、彼女の肩を左の腕で抱いた。ナディアは、それに驚いたように身をよじる。僕はそれに気が付いて、直ぐに左手を彼女から離した。
「すまない、嫌だったか?」
僕は不安になって、彼女とは反対側の海を見ながら、そう言った。
「…ううん、嬉しかった。」
ナディアの答えは、そうだった。ナディアはそうして、僕の肩にそっと、その右肩をとんと付けた。僕は、返事は何もしないまま、ナディアの後ろからそっと、腕を回した。ナディアはいつも、僕の心臓を、変に揺さぶる。そんな時間が、不安になるくらいに、僕には幸せだった。
僕ら二人は、そのまま無言で、ずっと肩を寄せたまま、海と、その上に広がる空を眺めていた。
時間はゆっくりと、速く過ぎた。西の空の太陽は段々傾き、海に近づいて行った。空は東側から少しずつ紫色に変わっていく。目の前の海には、僕らの元へ伸びるように、僕らを誘う様に、一本の真っ直ぐな光の道が出来ていた。時折、どこか遠くで鳥が鳴いて、ほんの少しの眠気を誘う。
「凄く、綺麗。」
ナディアが、海の向こうを見ながら、そう呟いた。
「あぁ、綺麗だ。」
僕もそう言った。二人だけの時間が、ここにあった。
夕日はどんどん、海の底へと吸い込まれていく。目の前はやがて、薄い桃色に変わる。海のラインを、赤色の光が真っ直ぐと縁取って、辺りは暗くなっていき、夕焼けのその右上に、ぽつりと一つ、金星が輝く。
そのもっと上方には、船の様な三日月が、空に少しだけ穴をあけていた。
「アイダ。」
突然、ナディアは、僕の名前を呼んだ。僕は良く分からない鼓動の変動を感じながら、「なんだ」と聞き返す。
「私ね、嬉しかったよ。」
ナディアは、そう言って、僕を見た。僕は少しぎくりとして、彼女に言う。
「何を、急に。」
僕は、言葉に詰まった。ナディアは、僕の目を真っ直ぐ見ながら、話し続けた。
「いろんなところに連れて行ってくれて、有難う。お花くれたのも、折り紙したのも、一緒に遊んでくれたのも、凄く、嬉しかった。あとね、約束も、いっぱい守ってくれて、有難う。私、本当に、嬉しかった。一緒に居るのが、勿体ないくらい、楽しかった。」
ナディアが、少しずつ声を震わせながらそう語るのに、僕は、言葉を失った
。小刻みに揺れるその声に、上手く言葉を返してやれなかった。夕日はどんどん海に沈む。海の上に浮かんでいた筈の「●」も、もう、ほんの少ししか、見えない。
ナディアは、続ける。
「私ね、あんなに沢山一緒に遊んだのも、沢山笑ったのも、ほんとに、初めてだった。凄くね、凄く、幸せだった。」
ナディアは、顔を上げて、夕焼けをもう一度見た。ナディアの瞳が、夕日を反射して、紅色に染まる。
「まだ、ここに居たい。でもね、こんなこと言ったら、アイダ、困っちゃうから。」
ナディアは少しずつ、涙を目に浮かべ始めた。僕はただ、その肩を、持っていてやることしか、出来なかった。
ナディアの表情に目をやって、僕はふと、ナディアの霊体が、少しずつ、薄くなっていることに気が付いた。それは、ナディアの意識さえもが、もう時期消えてしまうことを、暗示した。空には、星が少しずつ、増え始める。
ナディアは続ける。
「我儘も聞いてくれて有難う。一緒に居てくれて有難う。いっぱい撫でてくれてたのも、嬉しかった。だからね、アイダ、最後のお願い…」
彼女は、そこまで言うと、言葉を止めてしまった。
そうして、彼女は俯いて、涙をすする。
ナディアは僕の服の袖を強く握りながら、一つ呼吸をして、涙を沢山、口に詰め込んだような震えた声で、強く、僕に言った。
「私の事、忘れないでね。」
彼女がそこまで言ったとき、ついに、夕日と、ナディアが、僕の前から完全に姿を消した。何もかもが、同時に、海の向こうへ、消え去った。
僕は、何も言ってやれなかった。彼女の残像を、強く抱きしめるようにすることしか、出来なかった。
西の空は、もう、ピンク色ではなくなった。それに伴って、少しずつ星が、増えていった。
寂しいくらい、懐かしいくらい、静かな夕暮れだった。僕は一人で、静かに横を向いたまま、眼を閉じていた。
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