現実

 あれから、また、数日経った。

 あんなに沢山、僕らは遊んでいたのに、近頃は、僕らはあまり遊ばなくなった。というよりは、遊べなくなった。ナディアの体調が、優れない日が多いからだ。ナディアはまるですました顔をしようとしているが、僕の方を少しだけ見ては、ぐったりとベッドに横たわることが多くなった。試しに、ナディアの部屋から出ていく看護師の後を追うと、そういう看護師は、皆少し真剣な表情をする。これ以上悪化するようなら――…ICUに……そんなやりとりも聞いた。

 気が付いたら、僕は、ナディアと会ってから殆ど三週間経っていた。約束の時間は、一か月だった。僕はすっかり、自分は「彼女を殺すために来ている」ということを、忘れていたのだった。

「ナディア。」

 僕は、眠る彼女に向かって、小さく呟いた。別に、何か用事があったわけでもないが、彼女の顔を、じっと、前側から回り込む様に覗き込んだ。彼女には、それが聞こえていたのだろう。ナディアはゆっくりと、震える瞼を開いた。

「なぁに。」

 ナディアはそう答えた。力のない声だった。笑おうとしている口元も疲れ切ったように歪んでいて、いつも僕に見せた、桃色の花の様な笑みはどこかに消えていた。前より一層青白く、褐色になった顔をそうっと撫でて、僕は返した。

「具合が、悪いか。」

「病気、だからね。」

「その返答が間違ってるとは…言わないな。」

 僕もどうにか笑いながら、彼女の言葉を受け止める。でも、納得をしている訳ではなかった。

「ねえ、アイダ。」

 今度は、ナディアの方が、僕の名前を呼んだ。弱い声には変わりなく、その声の透き通った感じが、病気からなのか、優しさからなのか、僕には分からなかった。

「私ね、折り紙、いっぱい折った。アイダがね、出かけてる間にもね、いっぱい折ったよ。蝶々。ピンク色の蝶々。」

 僕は彼女のそんな言葉に、「そうか、蝶々が好きか?」と言い返す。彼女は、赤べこのように二、三度、ゆっくり首を縦に振った。

「紙飛行機はさ、空を飛ぶけど、紙の蝶々はね、空を飛べないんだね。でも分かるよ。紙の蝶々は偽物だから、飛べないの。生きて、ないから。」

 彼女は続けてそう語った。やめてくれ、僕はそう思った。まるで、今にも死にそうなドラマのヒロインが語るようなことを、君に言ってほしくなかった。あまり、信じたくなかった。

「私もね、夢の中で沢山飛んだ。だけど、私は人間だから、夢の中じゃないと飛べなかった。」

 本当に、今すぐにでも、やめてほしい。

「だけど夢の中では飛べるよね。アイダ、私ね、たぶん、誰よりも幸せだよ。多分。ひとは紙の蝶々みたいに飛べないけど、でも私、夢で沢山飛んだから。アイダと一緒だった。」

 ナディアは淡々と話し続ける。僕はどうにか、別の話をしてやりたいと思ったが、今の僕には何の言葉も浮かばなくて、口を半開きにしたまま黙っていた。

「ずっと、このまま一人で、死んじゃうまで独りぼっちかと思ってたから、アイダが一緒に居るって言ってくれた時、嬉しかったよ。私、誰かとこんなにたくさん遊んだの、初めてだよ。」

 ついに、ナディアはふわりと笑った。あれからずっと、部屋の隅で咲き続けている、桃色のスイートピーに、苦しいほど、よく似ている。でも可笑しかった。部屋の隅のスイートピーはあんなに元気に咲いているのに。

 僕はようやく、口を動かしてモノを言った。

「僕も初めてだった。こんなに長い間、誰かと、ずっと一緒に居たのは。」

 僕は、その言葉を絞り出すのに、どれだけの力を使っただろうか。

「楽しかったか?」

 僕は訊いた。

「うん、凄く楽しかったよ。」

 彼女は、ナディアはまた微笑んでそう言った。僕はまた、自分の言ったことを後悔した。何故僕は、「楽しかった」など、過去形で聞いてしまったのだろうか。

「ナディア。」

 僕はもう一つ、彼女の名前を呼んだ。

「ん?」

 ナディアは弱くそう返した。僕は、肺一杯に暖かい空気が入るように、深呼吸をした。ナディアに、まだ見せていないものがあったことを、すっかり忘れていたのだ。

 僕は言う。

「今度、夕日を見に行こう。それから、星も。」



 次の日に、僕は死に物狂いで、夕日が最も綺麗に見える場所、星が、最も美しく見える場所を探し始めた。

 死神が「死に物狂いで」なんて馬鹿げてるとも思った。死に物を狂わせるのはむしろ僕たちの方であったに違いないからだ。僕は本当に、馬鹿みたいに必死になった。こんな場所からじゃ綺麗な夕日は見えない、こんな街の中じゃ沢山の星は見えない、と、本当に本当に、馬鹿みたいに、「一番良い場所」を求めて、あちこちを飛び回った。


 朝からずっと、街中を、はたまた街の外まで出て場所を探した。ようやく、絶好の場所を見つけた時には、時刻は夕暮れ時になっていた。

 海が見えて、街の光が無くて、丁度海の方向が、西になっている。明日は三日月で、星も綺麗に見える筈だった。

「ここで、大丈夫そうだ。」

 僕は一人でそう呟く。丁度今、夕日が、西の空に沈もうとしている。空はのんびりと速く色を変えながら、少しずつ時間を刻んでいった。海に反射する光も、七色のグラデーションも、ここなら一層綺麗に見えた。

 約束の日を決めていなかったが、と、僕は心の中で、一人で約束した。明日、明日には、夕日を見に行こう、と。



 僕は、先ほど見つけた場所の方角が分からなくならないように、慎重に病院へと帰った。少し夕日に見入ってしまった所為か、辺りは薄暗くなっていた。

 病室にたどり着いたとき、僕は、その病室に違和感を抱いた。

 病室の明かりが点いていないのだ。僕はそうっと病室の中を歩きながら、ベッドの中を覗き込んだ。


 そこに、ナディアの姿は無かった。


 ショックがどのくらい大きかったのだろうか、僕は後方へふらつきながら、まだ開いたままのパイプ椅子に強く、倒れるように座り込んだ。多分、ついに、ナディアは集中治療室へと運ばれてしまったのだ。

「ナディア…」

 僕は頭を抱えながらそう呟いた。きっとナディアは僕が出ている間に、何度も苦しい思いをしたに違いなかった。それなのに僕は、「ナディアの傍に居てやれなかった」のだ。ずっと一緒に居てやると、あんな約束をしておきながら、大事な時に限って、僕は、何をしているのだろうか。

 呼吸を整えて、少し肩の力を抜いた後、僕は椅子から立ち上がった。病室を横切りながら、僕はちらりとスイートピーを見た。皮肉にも、こんな暗い夜に真っ直ぐと咲いている。

 それから僕は、ナディアが使っていた引き出しの方へも目をやった。なんとなく、いつも傍にありながら、僕はその中を一度も見たことが無かった。

 僕は一段目を開けた。その中には、僕と一緒に折った、折り紙の数々が入ったままになっていた。二段目、彼女がよく読んでいた本と、遊び道具のようだ。

 最後に、三段目を開けた。僕はその中身に目を丸くした。

『私と一緒に燃やしてください。』

 そう綴られた紙が一番に目に入った。その下には、100を超えそうな数の、折り紙の蝶々が入っていた。僕は、その蝶を少し持ち上げて、下の方を見た。それでも、ピンク色の蝶々が、いくつもいくつも入っていた。上に行くにつれて、段々不器用に、下手くそになっていく蝶々。僕は、動かないまま、じっと蝶々を眺めていた。彼女はきっと、蝶のようになりたかったに違いない。僕は勝手に、そう感じた。



 僕は、彼女のいる集中治療室を探して歩いた。

 深夜の病院は静かすぎて、真っ白な空間も闇に包まれている。所々光る電灯が、余計に寂しさを引き立てているようだ。

 廊下の片隅にある蛍光灯が、「ジッ」っと小さく音をたてる。この病院へ初めて来た、あの日と同じように。

 集中治療室の位置を確認してから、ナディアのいる個室を、一つ一つ確認して探した。この病院の集中治療室は全て個人用であるために、一つ一つ、確認するのに時間がかかった。

 僕が入り込んだ手前から、十三番目の部屋に、ナディアはいた。なにやら、機械をいくつか取り付けた体で、静かに、眠っている。僕はそのすぐ傍に寄って、彼女を眺めた。

「ナディア。」

 僕は小声でそう呼んで、ナディアの頬を撫でた。もちろん、ナディアは何の反応もしない。

 僕は彼女を迎えに来た時、「一か月後には連れて行くから、一か月待ってくれ」と言ったのを覚えている。今の僕の気持ちはむしろ逆だった。一か月、どうにか、経たないで欲しかった。でも、一ヶ月は、時間は待ってくれない。ナディアが死を待つために、時間は慈悲も無く過ぎていく。全てを平等に、終わらせるために。

 僕は、ナディアの頬から、そっと手を離した。そして、ナディアの眠るベッドの下の床で横になり、目をつぶって、朝を待った。

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