ハイドランジアと君

 約束の日になった。

 僕は一昨日、彼女を花畑へ連れていくという約束をしてしまった。わざわざ二日後に設定したのは、連れていけそうな花畑を探すためだった。昨日は病院からなるべく近い場所を飛び回り、花畑と言えそうな場所を探した。僕が勝手に何処かへ出ていくと、病室へ帰ったとき、彼女は決まって「帰ってこないかと思った」といって笑った。

 僕は、病室で朝の検査が終わるのを待っていた。今日は検査内容が少ないために、彼女は直ぐに病室へ帰ってきた。

 看護師と彼女は少しだけ何か話した。そして看護師が病室を後にすると、彼女は点滴を引っ付けたまま椅子に腰かけて、早速話し始めた。

「今日はお花畑にいくんでしょ?」

 表情は笑っているが、約束を交わしたあの時の顔より、影が暗い。僕は言葉を返す。

「そうだよ。いい場所を見つけたんだ。」

 僕の言葉を受けて、彼女は小さなため息をついた。

「死神さん、約束はできない、って言ってたもんね。私ね、やっぱり外に出ちゃダメなんだって。点滴もあるし、私、やっぱりお花畑に行けない。」

 彼女は涙ぐんだ声をだしながら、俯いた。

 しかし僕は、そんなことは想定済みだった。というよりは、分かっていて誘っていたから、彼女の悲しそうな顔に一憂する必要はなかった。

「言っただろう、お医者さんにも看護師さんにも内緒で、もっといい方法で行くんだ。君を今日、花畑に連れていく。そう約束した。」

 僕の言葉で、彼女は顔をすっと上げた。また、彼女は半信半疑の希望を僕に見せる。

「どうやって、行くの?」

 彼女の不安げな瞳の奥の奥、もっと奥を覗くようにして、僕は言う。

「今から寝て見ればわかるさ。」

 彼女は、やっぱり半信半疑の顔だった。



 彼女は、僕に言われるままに眠った。眠りにつくまでは何度も僕の方を見て気にしていたが、そのたびに僕は彼女を撫でて眠りに誘った。一時はベッドの中でもぞもぞしてはいたものの、彼女も疲れているのだろう、すっかり寝てしまった。

 彼女が眠ったのを確認すると、僕は彼女のおでこを二つほど叩いた。そして、彼女のおでこのあたりからなにかをつまむ様に指を合わせ、上方へ空気を引っ張り上げた。

 そこから出てきたのは、彼女の霊体だった。つまり幽体離脱である。この現象は稀に人間が起こすものだが、僕にはそれを意図的に起こすだけの力があった。

 眠っていたように目を閉じていた彼女の霊は、ふと目を開いた。

「死神さん、私…体が浮いている。もう死んだの?まだ一か月も一緒に居なかった。」

 彼女は、驚いた様子で、静かに自分の体を見下ろした。しかし、彼女の体は呼吸を繰り返している。彼女はそれに、気が付いたようだ。

「私、まだ生きているよ。これは何?」

 僕に真剣に問うその表情に、僕は何となく愛情を覚えてしまった。

「夢さ。君と僕の夢だ。」

 僕は、彼女の手を無理やり引いて、勢いよく窓の外へ飛び出した。


 目の前に広がるのは、灰色の町だ。僕はそれよりももっともっと、高い位置まで飛び上がって停止した。

 目をつぶって必死に僕の腕を握る彼女が、ようやく目を開けた。

「…!!すごい!これ、病院がある街だね。私病院から出てる!空も飛んでる!凄い、凄い!!!」

 彼女は彼方此方を眺めてそう騒ぎ立てた。あっちにはお店、あっちには時計塔、あっちには山、あっちには海、彼女はいろんなものを指さし、その度に名を呼んでは笑った。点滴も無い、布団も無い、壁も床も無い自由な体を、大きくと動かして笑った。

「どうだ、これが「二人の夢」だ。」

 僕は彼女を見つめて、得意げに伝える。

「そう、本当にいい方法だね。これなら私、とっても元気だし、自由に動けるよ。こんな夢、きっと誰も知らないね!」

 彼女の瞳は輝いていた。

「じゃあ、花畑まで飛んでいこう。」

 僕はまた、彼女の手を取った。彼女は大きな声で「うん」と言い、僕の進む方へ、同じように進んだ。


 花畑に着くと、彼女は少しだけ動きを止めた。息を飲んでいるようだった。

 目一杯の面積が、ハイドランジアで埋め尽くされた公園だった。白もピンクも水色も青も、綺麗なグラデーションになって瞳に飛び込んでくる。少し湿った晴れの日に、花は涼しく、しっとりと咲き誇っていた。その花の中には、彼女が一度見たモンシロチョウも、アゲハチョウも、ベニシジミもいた。

「お花畑だ!」

 彼女は僕の手を放して走り出すか、と思いきや、僕の手を異様に強く握り返し、僕を引っ張った。いつもの彼女からは感じられなかった生命力とその力強さを、僕は初めて知った。そのせいか僕は、彼女が一ヶ月後に死ぬのが、嘘のように思えてきた。

「ねえ、私ね、この花知ってるよ。紫陽花だよね。病院のね、本で見たんだ。」

 彼女は僕を花の傍へ引き寄せ、僕に笑いかけながらそう言った。「そうだよ、紫陽花だ」と僕は応えて、彼女の頭を軽く触った。見た目のわりに幼いその話し言葉に、今更気が付いた気がした。

「綺麗だね。」

「ああ、綺麗だ。」

 僕と彼女は、大体そう言って、少し黙った。すぐ傍に、黒い蝶が舞い降りる。

「この蝶々は何?」

 彼女は僕に訊く。

「それはカラスアゲハだ。羽の色が綺麗だろう。」

 僕はそのカラスアゲハをそっと手に取って、彼女に見せてやった。彼女は夢を見ているが、僕は夢ではない。僕だけは、蝶に触れることが出来た。

「本当、少しだけ緑色に光ってる。青っぽいんだね。夜空みたい。」

 彼女の言葉に僕はクスリと笑う。

「夜空は好きか?」

「うん、とっても。」

「じゃあまた今度だな。」

「うん、約束して。」

 彼女が小指を差し出した。

「もちろん、約束だ。」

 僕も、小指を差し出して、彼女の小指と絡めた。指切りげんまん、針千本飲ます。そんな言葉を、なんとなく思い出しながら、彼女の手を見ていた。



 一時、紫陽花畑を二人でうろついていた。飽きることも無く、長い間、ハイドランジアだけを見つめていた。

 僕はふと、顔を上げて彼女に言葉を投げた。

「そういえば、名前はなんていう?」

 彼女の名前を僕は知らなかった。四六時中殆ど一緒に過ごしているというのに、今まで一度も呼んだことが無いし、聞いたことも無い。聞いたとすれば、看護師さんが時折口にしていた「Pemパム」だけだ。

「ナディア。ナディア・パーマフルス。あまり沢山の人には、呼ばれないけど。」

 彼女は真っすぐと、僕を細い目で見つめながらそう答えた。ナディア、いい名前だ。

 明るい日差しの中で静かに僕を見る彼女、ナディアは再び僕に話す。

「貴方は?貴方は何て言うの?」

 その言葉に、僕は少しドキッとした。どういった意味で、胸に緊張が走ったのかはいまいちわからない。

 僕は咄嗟に答えた。

「アイダだ。」

「アイダ?変わった名前をしてるのね。」

「あぁ…」

 僕は、ほんの少し後悔した。

 アイダ。相田相知あいだそうじとは、僕が昔人間として生きていた頃の名前だった。今の名前はそんな名前ではなく、カルビン=フェシティマという名前だった。もちろん、人間だった僕は記憶の中の僕であるから、今の本当の名前は後者だった。しかし、死神はヒトに名前を教えてはならなかった。その決まりは、僕に覆すことは出来ない。僕は今、彼女にはもう本当の名前を呼ばれることはない、ということが決まったのだ。

「改めて、よろしく、ナディア。」

 僕は小声でそう言う。

「こちらこそ、アイダ。」

 ナディアも小声でそう答えた。

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