最初の約束
普通の朝が来た。本当に、何の変哲もない朝が来た。
窓の外から朝日の光がこぼれ、雀の声が静かに聞こえてくる。少し冷たい空気は寝ぼけ眼をこじ開けるように流れ、しんとした空間をより強調したがっている。
僕は眠りについていた椅子から体を起こし、あの少女が眠っているベッドへ近寄って、彼女の顔を眺めた。
「普通の女だな。」
ぼそり、そう呟いた。昨日の彼女の様子から、僕は彼女のことを不審に思っていたが、やはり彼女は、普通の女だった。なにも珍しくない、病を抱えた一人の、人間の女の子供だった。
僕は数秒彼女を眺めた後、その少女の元をするりと離れて、再びパイプ椅子に腰を掛けた。普段は存在しない筈の僕の体重で、椅子のつなぎ目がギッと鳴る。
そうして、ぼんやりと窓の外から入り込む日の光を眺めた。
…かつて僕も、今のように、白い部屋の中から朝日を眺めていた。腕に何やら筒を繋いで、怠い体をゆらゆらと振りながら、窓の外を眺めることだけが日課だった時が、僕にもあったのだ。
急性の白血病だった。
僕は、救われることも無く、多分、死んだ。そのときに僕も、死神と名乗る人に会った覚えがある。
しかしそれ以降の事は特に覚えていなかった。気が付いたら僕は死神で、今のように、死を待つ人を連れていく役目を果たしているのだ。どうして死神になんかなったのか、僕は知らない。
「もう、おきてる?」
古い記憶に心を奪われているところに、背後から、一人の女の声が聞こえた。人数制限一人の小さな入院部屋、ドアの開く音さえしなければ、声の主はあの少女、ただ一人だと決まっていた。
「ああ、もう起きてるよ。いい朝だと思わないかい?」
僕は彼女の方を振り返りながら、窓の外を指さした。
彼女は微笑みながら、僕の指さす方向へ目をやる。
「私も、大好き。でも、もう見飽きちゃった。出来るなら、夕日も見たいんだ。お花畑も、虹も、海も、全部。」
彼女は微笑みながらも、寂し気な眼差しで窓に光る円のあたりを眺めていた。その眼が何処を見ているのか、僕には分からなかったが、朝日の位置よりもずっと向こうを見ているようにも見えた。
僕は彼女の言葉に返事をする。
「…気が向いたら連れて行ってやろうか。」
「勝手に外へは出られないよ。」
自分の腕を眺めている彼女はそう言う。僕も、彼女が見ている彼女の腕を見た。
「…もちろん内緒で。そして、もっといい方法で、だ。」
「もっといいほうほう…?」
ベッドに座る少女は、ようやく僕の顔を見た。彼女の眼を見て僕は、彼女のその一言に込められた感情が、半信半疑の希望だと勘づく。僕は答える。
「また今度教えてやる。」
僕がぶっきらぼうにそう言っても、彼女は僕から目を離さなかった。そして、何も言わなかった。
彼女は午前中には検査で忙しいらしかった。体温を計ったり、心電図を取ったり、体重を量ったり、レントゲンを撮ったり、とにかくいろんな場所をうろうろとしているらしい。僕は、「一緒に居てやる」とは言ったものの、この時だけは彼女の病室で待っていた。静かに、開いた椅子に腰を掛けたまま、彼女が帰るのを待っていた。途中、病室の整理や清掃に入ってくる人がいても、当たり前のように僕には気が付いていない様子だった。
ベッドの際から少し離れた小さな机に、花瓶がぽつりと置いてあった。花でもあると良いのだけれども、何も入っていない。コリンズグラスのような、細長い透明の花瓶だ。気分を晴れやかにするために眺めるには、物足りない。
このあたりで、いよいよ暇になってきた。彼女から聞いた検査の大体の終了時刻までは、まだ2時間くらいはあった。
僕は徐に椅子から立ち上がり、昨日、入り込む際ドアにしたように、病室の窓をすり抜けて外へ出た。
朝焼けはとっくに消えてしまって、空は青い。四階の病室だから、僕の体は宙に浮いていた。普通の人間なら自然落下で地面に叩きつけられるところだが、如何せん僕は既に「普通の人間」ではなかった。僕の体は空中に、幽霊のようにふわふわと揺れている。
周りを見渡してみたが、周囲はある程度小さなビルに囲まれているらしい。ビルの隙間からぽっかりと、西の空が覗いているだけで、それ以外の景色は全て灰色に見えた。
「何か持って帰ってやるか。」
僕は独り言で、そう言った。ビルの間を縫うように飛び抜け、僕は広い場所を探した。
ある程度進んだあたりで、僕は狭い商店街に下りた。僕は人目につかない場所に降り立ち、自分の姿を人間と同じように、人間に見えるように変えた。
死神とはいえど、僕は一か月、この土地で生きてゆかなければならなかった。
「死神」と聞くと、幽霊の様な存在で、衣食住など必要も無いように思えるかもしれない。しかし、実は僕らは一つの生物で、食事や衣類等は必要なのだ。それらを僕らの故郷の天界、ハデスではない地球上で満たすには、その土地に合わせて、人間のふりをする必要がある。
また、僕たち死神は、すべての死にゆく人物を迎えに来るわけではない。迎えに来るのは、特殊な魂を持ち合わせた者だけである。特殊な魂を持ち合わせた人間は、死後に上手く転生へ向かうことが出来ないために、そういった人に限って僕らは迎えに来るのだ。
誰かを迎えに来ている間、僕らは「仕事場」で生活をする必要がある。その生活費の分、上の人から資金を得て、僕らは各場所へ降り立つのだ。
そう言った理由で、僕も、この街の貨幣をいくらか持っていた。このお金の殆どは食費にあてられる。服は変えなくても汚れることは無いし、住む場所だって、どうせいつも通りならば姿は見えないのだから、必要ない。問題になるのは、決まってほぼ食事のことだけだ。
僕は、商店街を歩いた。黒い短髪に、黒いジャケットとスラックス、白いシャツ。僕の姿はこれだった。だから元々、自分の姿が誰かの目に映ったとしても、今のように街に紛れ込んで歩いていたとしても、何も可笑しくない筈だ。
とりあえず、という気持ちで、僕は目についた洋食店に入った。そんなに人気も無いし、目立った特徴も無いけれど、出来ることなら人目を避けておきたい僕には丁度良かった。席に案内され、オムライスを注文して、ごく普通に食事をした。
食事を終えて、僕は洋食店から出た。
また同じように、商店街をぶらぶらと歩いた。人が少なくて歩きやすいが、人が少ない分自分の足音が異様に目立って聞こえた。まるで、深夜の病院、とまではいかないが、なんとなくそんなことも思い出した。
宛も無くぶらぶらと歩いているところに、通路に飛び出るようにバケツや鉢に収まっている花を見つけた。鮮やかなその空間に吸い込まれるように、僕はその花々の前へ寄った。
そこには、ベゴニアの苗に、ハイドランジアの鉢植え、ラ・レーヌ・ヴィクトリアとストロベリーアイスの薔薇の花、ガーベラにスイートピー、アガパンサス、カラー、トルコキキョウの花…と、とにかく沢山の花が並んでいた。
花畑とは遠い人工の空間にも、ここまで美しく花は咲くものだった。
僕は店の中に入った。中には、先ほどの場所よりもっと多くの種類の切り花が、ケースの中にずらりと並んでいた。
「何かお探しですか?」
ケースの中をじっと眺めていた僕に、奥からやってきた店員が、そう訊いた。
「いえ、特には。」
僕はそう答えた。でも僕は、その場を去ろうともしなかったし、ケースから目を離すことも無かった。
「一本だけでも如何ですか。」
店員は優しくそう声をかけてくる。折角来たのだ。一本だけなら、という気分にならなくもなかった。
「何か、良いものがありますか。」
言葉に抑揚もつけず、笑みも見せず、ケースを見つめたままの僕は、そう聞き返す。
「スイートピーは如何でしょう。今ここでは人気が高いんです。」
店員は、右から三番目のケースを指さしながらそう言った。薄いピンク色をした、蝶々のような花が、いくつも咲いていた。細い茎から現れる柔らかい花が、どこか可愛らしく感じられた。
「…一つ貰います。」
僕はそのスイートピーの花の値段を確認してから、店員へ丁度の金額を手渡した。
「何かラッピングされますか?」
店員はお金を受けて、僕にそう訊ねる。
「いや、そこまでは必要ありません。」
「では、通常の包みでお渡ししますね。」
店員との会話はそこで終わり、店員は僕を置いてスイートピーを一本抜き取って、店の奥側へ入り込んだ。僕は、湿った薄暗い店内で、花に囲まれて独りぼっちになった。
この街は、どうも常に、異様に静かなのが不思議だった。
一重のビニールに包まれたスイートピーを持って、僕はまた商店街を歩いていた。
気が付けばもう、二時間半は経っていた、ということを、通りの隅の時計塔で知った。もう彼女は病室に戻っているだろうか。そうだったら、僕はまるで「一緒にいる」という約束を破ったように見えるだろう。もしかしたら彼女は不安がっているかもしれない。「僕が逃げた」と。
僕はスイートピーを優しく握って、人間の目から、再び姿を隠した。そして、来た方向へ、来た方向へ、と帰っていった。
病室の窓をすっとすり抜ける。部屋の中に降り立つと、一人でぼーっとベッドに寝そべる女の子と目が合った。彼女である。
「ただいま。」
僕は、横になっている彼女にそう言った。彼女は体を動かさないで、口だけ、小さく動かして僕の方を見る。
「もう、来ないのかと思った。」
彼女は目尻をぎゅっと下げる。
「約束しただろう。一緒にいるって。」
僕も、少し目尻を下げてそう言った。「嘘つかれたんじゃないかって、心配だった」と彼女は呟いた。
「じゃあ、夕日もお花畑も、海も虹も、見せてくれるんだよね。」
彼女はなにかひらめいたように笑顔になって、僕にそう訊く。僕は少し間を開けて、少し悩んでから答えた。
「…約束はできないが、希望は持って欲しい。」
「分かった。私、死神さんを信じるよ。約束守ってくれるから。」
彼女はその青白い顔で、また微笑んだ。弱弱しい桃色の、今にも消えそうな笑顔。あの花屋で見た、スイートピーの花と、よく似ていた。
「そうだ、手土産があるんだ。」
僕はそう言って、彼女に、僕の右手の花を見せた。
「…!それ、どうしたの?」
彼女は今まで動かさなかった体を少しだけ乗り出して、僕の右手のスイートピーを見る。「さっき買ってきたんだ」と僕は告げる。
「あそこの花瓶ね、看護師さんがくれたの。でも、まだ一回もお花入れた事ないんだよ。だからね、入れたい!」
打って変わって、突然無邪気に話し出す彼女は、今までにない明るい顔をしていた。青白かった顔がほんの少しピンク色に染まる。
「もちろん。部屋に飾ろうか。」
僕はそう言い、「少し待っていて」と付け加えてから、花瓶を手に取り、病室を出た。人目を避けながら、手洗い場で花瓶に水を汲んで、中にたった一本のスイートピーを入れた。そして、彼女に見られないこの場所で、僕は小さな術を使って、その花の「死」を断ち切ってやった。彼女とよく似たその花が、枯れることがないように。
花瓶を持って部屋に戻ると、彼女は体を起こし、ベッドの中で座っていた。相変わらず血色の悪い肌ではあるが、僕に向けた微笑みはほの明るかった。
「これはなんていうお花?」
僕が部屋の隅に置いた花を指さし、彼女は僕に問う。
「スイートピーだよ。可愛い花だろう。」
「うん。かわいい。まるで蝶々みたい。」
彼女は花から視線を外し、また僕の顔を覗き込んだ。
「僕もそう思ってた。」
僕も、なんとなく微笑んでそう言った。そして、僕は続けて彼女に問う。
「蝶々は見たことがあるのか?」
彼女は小さく首を捻って、答える。
「一回だけ。」
白色で、小さくて、ふわふわ飛ぶのだ、と彼女は言った。僕は、彼女に別の蝶々も見せてやりたいという願望を抱いた。お花畑に連れて、大量の花と蝶を眺めることができたなら、彼女は一体どのような笑顔を見せるのだろうか。想像するだけで、なんだか愉快だった。
「明後日、花畑を見に行こうか。」
僕はふと、そう切り出した。
「明後日?そんな直ぐに行くの?」
彼女は笑顔をふっと変え、きょとんとした顔で更に僕を見る。
「ああ、これは約束だ。明後日花畑を見に行こう。」
僕は歯をぐっと食いしばりながら、彼女に向けて小指を差し出した。
「わかった。約束なんだね。絶対だよ。」
彼女は一つ頷いてから、僕の小指を、自分の小指で優しく握り返した。
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